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 わたしが通う学校は、一学期のうちに学園祭が開かれる。これは受験を控えた三年生のための措置なのだが、実際は運営に携わる生徒会役員のためでもあるのだ。

 今の生徒会のメンバーは、会長・副会長・書記が三年生。会計・会計監査が二年生という布陣で、書記のわたしは当然三年生だ。今期の役員はこの学園祭が終れば任期が終了する。その後は一年生と二年生の中から新しい役員を選ぶ事になるのだが、学園祭の準備と共にそちらの下準備や候補者の推薦・受付などの仕事も重なって来る。だからこの時期は生徒会役員にとって、なかなかに多忙な時期でもあった。

 日中は当然の事ながらいつも通りの授業があり、放課後は生徒会の仕事が入る。必然的に犠牲になるのはプライベートな時間で、これが彼氏彼女持ちの人だったりするとなかなか大変なのだとか。幸いというかむしろ生憎というか、わたしにはそういった彼氏がいないので、せいぜい友達と遊ぶ時間が減る程度のものだ。

 しかしながら連日の激務は確実に私生活に影響を及ぼし、さらには受験生にとっては大事な授業中にまで侵食し始めたのだった。

 なんの事はない。授業中、やたらと眠くなるのだ。

 嫌いな教科・苦手な教科・退屈な教科はもとより、好きな教科の時間まで睡魔に負けてしまいがちになる。そう。好きな教科でさえ、である。

 ふと気配に気付いて両腕に埋めていた顔を上げると、そこには社会科担当教師の姿があった。

「気持ち良さそうに寝ているところ、申し訳ないんだが。一応今は授業中だぞ」

 困ったようなその声に、半覚醒状態だった意識が一気に現実に引き戻される。しまった。やってしまった。よりによって先生の時間に。

 周囲からはくすくすと押し殺した笑い声が耳に届き、かあっと顔に血が上る。いたたまれなくて俯くと、頭の上から微かな溜息が。

「放課後、社会科準備室に来るように」

 くるりと背を向けて教壇に戻っていく後ろ姿に、呆れられた事を悟るしかなかった。




 重い心と体を引きずって、なんとか社会科準備室まで辿りついた。

 先生からの呼び出しを受けた事を報告するために、先に生徒会室に顔を出したら、しっかりちゃっかり先生の判を貰わなければならない書類の束を押し付けられてしまったのだ。その事でもまた気が重くなっていた。

 すーはーと深呼吸を二回して、覚悟を決めてドアをノックする。

「失礼しまーす」

 中に人がいない事を祈りつつ覗いたそこには、残念ながらわたしを呼びつけた先生の姿があった。行ってみたけれどお留守でした、という言い訳が使えなくなってしまった。

「あれ? また余計なものを持って来たんじゃないでしょうねえ、あんたは」

 いつもの授業中とは違うその口調は、公私使い分けているという先生の「私」の部分。全校生徒と教職員の中でも、こんな先生を知っているのは、良くも悪くも恐らくわたしくらいなものではないだろうか。

 誰にも言えない密かな優越感を、その相手にさえも隠すために、心の中でこっそりと抱きしめた。

「センセーに呼び出されたって報告に行ったら、副カイチョーから愛のプレゼントを押しつけられました」

 いつもよりも少しだけ散らかっている先生の机の上に、紙の束をばさりと置く。

「あらー。そんな愛はいらないって言っといてよ」

 おどけてはいるけれど、先生の顔が引きつっている事に、わたしは目ざとく気付いてしまった。そんな僅かな変化にさえ敏感になっているわたしってどうなんだろうと思いつつも、実はそんな自分が嫌いではない。

「ヤです。そんな事言ったりした日には、副カイチョーに呪われます」

 日頃から切れ者で有名な副会長でさえも、最近は心なしか余裕がないっぽいのだ。いつもならば人の事にまで気を配ってくれるほどの人なのだが、今はほのかに殺気立ってさえいる。呪われないまでも恨みを買うのは得策ではない。

「ああ、呪いとか得意そうだよねえ、彼は」

 肩を軽く竦めながら、先生は急須にポットのお湯を注ぐ。

「ですから、そういう伝言は受け付けられません。どうぞ、ご自分で」

「僕も命は惜しいです」

「だったらわたしに頼まないでくださいよ」

「いやあ、彼もあんたには甘いから、大丈夫じゃないかなと思いますよ」

 副会長がわたしに甘いなんて発想がどこから出たのか、不思議で仕方がない。そう思ったのが顔に出たらしく、先生はこぽこぽと湯呑みにお茶を注ぎながら苦笑した。

「明らかに甘やかされてるでしょ」

 湯気が立つ湯呑みを差し出され、あ、どうも、とお礼を言いつつ受け取る。

 先生のたっての要望で社会科の教科担当にされてしまったわたしは、授業以外でもここに呼び出される事がしばしばあった。もちろん今日のような失態は滅多な事ではしでかさないのだが。

 昼休みや放課後ここに呼び出される時は、たいてい先生がこうしてお茶を淹れてくれる。コーヒーや紅茶じゃないところが笑えるのだが、意外にも先生はほうじ茶が好きなのだそうだ。わたしもほうじ茶は大好きなので、喜んでいただく事にしている。

「うーん。確かにわたしには厳しくないとは思いますけど、甘やかされているってわけでもないような」

 現在の生徒会の構成は、わたしと会計監査が女子で残りが男子。しっかり者の会計と会計監査は、会長と副会長からの信任が厚い。

 しかしわたしはというと、それなりに仕事をこなしているだけの、いわば異色役員である。そんなわたしがなぜ生徒会にいるのかというと、選挙の際に書記への立候補者がいなかったため、会長と副会長からの推薦を受けたからなのだ。自分でも、未だにそれが不思議で仕方がなかったりする。

「ぜんぜん気がついていないんじゃねえ。あいつも報われないよねえ」

「え。そ、そんな事、言われても、ですねえ」

「まあ、あんたはそれでいいんですよ。彼が報われたりすると僕が困るからねえ」

「どうしてセンセーが困るんですか」

「ふふふふふ。それは、秘密です」

 そう言って先生は口元に人差し指を立てて片目を瞑った。いわゆるウィンクというものだ。どうやらお茶目のつもりらしいが、その仕草にわたしの心臓がどきりと跳ねた。

「センセー、ずるいですよ。答え合せもまだなのに、これ以上秘密を増やすつもりですか」

「だから、あんたに答えが分かったら、すぐにでも答え合わせをしてあげるって言ってるでしょ」

 う。それを言われると、返す言葉がない。

 実は先生からは、春休みの間に宿題を出されている。今みたいな公私の「私」の部分を見せるのは、先生曰く

『あんただけ』

なのだそうで。何わたしだけなのか、その理由がなぜなのか、自分で考えて答えろと言われたのだ。けれど期限の新学期までに答えは間に合わなかった。と言うか、わたしが悩んで悩んで導き出した答えは、間違っていると言われてしまったのだ。さらには正解できるまでこの社会科準備室に通うように言いつけられ、そのために強引に社会科の教科担当にされてしまったわけなのだけれど。

 先生の事を好きなわたしにとっては、事あるごとに顔を見に来る口実ができたわけで、生徒会顧問でもある先生とより多くの時間一緒にいられる事になった。それはそれでもちろん嬉しい。嬉しいのだが、困った事もある。今のようにわたしには分からない事を言われたり、その事を尋ねたりすると、すぐにはぐらかされたり逆にわたしの意見を求められたりするのだ。

「センセーって、やっぱりずるい」

「オトナだからね、僕は」

 オトナ。そのひと言が、わたしの心に小さなささくれを生む。

 わたし達の関係は、先生と生徒であると同時に、大人と子供でもある。そしてそれ以上でもそれ以下でもない。わたしが望んでいるような、一人の男と一人の女として向かい合う事など、決してありえないのだ。そんな分かりきった事を再確認させる先生の言葉が、わたしは嫌いだ。

 わたしの心には、先生の何気ない言葉や態度でできたささくれが、治る事のないままたくさんできている。そのひとつひとつはほんの些細な事が理由で、ささくれも小さなものばかり。けれどこのままいくつもの小さな傷ができ続ければ、それがやがてわたしの心に穴を穿つだろう。

 でもきっと先生は、そんな事には気付かない。気付かないまま、わたしの心にささくれを作り続けるのだ。




「なんで、そんな顔をするかな、あんたは」

 先生が、困ったような表情でわたしの顔を覗きこんで来た。とっさに顔を背けたわたしの耳に、先生の溜息とも吐息ともつかない微かな音が届く。

 また、だ。また、ささくれが、ひとつ。

「センセーのせいです、きっと」

「僕のせい」

「そう。センセーが、ずるいから」

 先生が何かを言いかけるように口を開き、けれどその口から言葉がこぼれる事はない。言葉の代わりに伸びて来た手を咄嗟に払いのけたわたしの目から、滴がひと粒転がり落ちた。

「という事で、センセー。授業中に居眠りして、すみませんでした」

 席を立って、先生に頭を下げる。ここに来た本来の理由を忘れたわけではないのだ。こんなごちゃごちゃした頭のままでいるよりは、さっさと用件を済ませて立ち去るに限る。

「え。あ、ああ。生徒会も忙しいだろうけど、無理のない範囲で頑張らないと、体を壊しちゃ元も子もないぞ」

 口調が「公」に戻っている事に、先生自身は気が付いているのだろうか。

「はい。でも、あともう少しですから」

 気持ちを切り替えてしまえば、涙もすぐに止まった。

「先生もその書類、早く目を通してくださいね。今日中にお願いしますって副カイチョーが言っていましたから」

 机の上に置かれたままになっている紙の束を指さすと、完全に失念していたらしい先生が、慌ててそれに手を伸ばした。

「これを、今日中?」

「それを、今日中に。よろしくお願いしますね」

 さあ、用件は済んだ。あとは一刻も早くここから出て行かなければ。

「じゃ、そういう事で」

「そういう事、って、おい」

 先生に追いつかれるかと思った直前に、社会科準備室の扉が、第三者の手によって開かれた。

「すみません先生。ここでうちの書記が遭難していませんか」

 ひょっこり顔を出したのは、わたしに用を言付けた副会長その人で。

「って、やっぱりまだいたのか」

「今用が終ったところだから、生徒会室に行こうと思ってたのよ」

「ああ、そうなんだ。じゃあ先生。人手が足りないので、こいつ、引き取らせてもらいます。あとその書類、できるだけ早くお願いします」

 副会長はそう言いながら、わたしの背中を押して先に部屋から出してくれた。

「これだけの量、今日中には無理だぞ」

「大丈夫ですよ。あの会長でさえ、昨日一時間で目を通したんですから」

「お前な。教師の一時間がどれほど貴重なのか、知っているのか」

「先生にとっては、屋上での居眠りの時間が減るだけでしょう」

 副会長の言葉は、にべもない。日ごろ生徒会顧問にもかかわらずしょっちゅう会議をサボっている先生のせいで、少なからず被害を被っているのだ。ここぞとばかりに逆襲したくなるその気持ちはとてもよく分かる。

「ああ、それと。報われていないのは、俺だけじゃありませんよね。先生が報われると俺が困るので、邪魔は、させてもらいますから」

 何の話なんだか要点がつかめない副会長の言葉は、けれど先生にはちゃんと理解できているようで。一瞬大きく見開かれた先生の目は、すぐにすっと細められた。

「ほら。今生徒会は、猫の手も借りたいくらい忙しいんだよ、書記さん?」

「あ、うん」

 少し強く背中を押され、わたしは社会科準備室を背に歩き出した。扉が閉まる直前に見えた先生の机の上。わたしのために淹れられた口をつけていない湯呑みからは、もう湯気は上っていなかった。




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