春をまつ花
どうせそのまま会議室に行くんだからついでだ──なんて。
アキバの生産系最大手ギルド<海洋機構>のトップにしては気さくすぎるミチタカの申し出に、念話を終了したヘンリエッタは執務室で呆然と立ち尽くしてしまった。
なのに自失している間もあらばこそ今度は玄関ホールから何やら騒がしい気配が届いて、アキバの顔とも言える男の意外なせっかちさ──でなければ呆れるほどの気どらなさをつくづく思い知ることになった。
頼まれ物の資料を渡すだけなのだから話はシンプルなはず。
けれど、直接ギルドの玄関先まで足を運んでもらうにはいかんせん相手が大物すぎて、背中に冷や汗を感じるのを止めることができない。
(大体、深い付き合いでもない異性を相手に「今から行く」どころかもう来てるなんて、小学生男児ですか!)
慌てて身支度を確認したヘンリエッタが部屋を出ると、応対に出たアシュリンが可哀相なほど体を縮こまらせているのが見える。
(まったく、これだからアキバの殿方ときたら……)
思わず出そうになったため息を飲みこんで、ヘンリエッタはなるべく余裕があるようにと笑みを作ってから口を開いた。
「お待たせいたしました、ミチタカさま。わざわざご足労いただきまして申し訳ありません」
ヘンリエッタの落ち着いた声にほっとした様子を見せたアシュリンは「では失礼します」と耳が出たままの頭をぴょこんと下げる。
よほど緊張していたのだろう、その愛らしい様子に緩みそうになる頬をこらえていると、ミチタカもこほん、と誤魔化すような咳払いをした。
どうやら必要以上に恐縮されてしまったことに、少しばかり心外さを感じているらしい。
「ここまで子供受けが悪いとは思ってなかったんだが」
「今のアキバでは子供だってミチタカさまがどんな方なのか知っておりますもの、仕方ありませんわ」
「ちょっとでかくなっちまったギルドで祭り上げられてるってだけだろ? そうびびる必要なんてないと思うんだがなあ」
「あら、でしたらうちの者が失礼をしてしまって申し訳ありません」
「あ、いや! そういう意味じゃなかったんだ。気にしないでくれ」
そう言ってがりがりと頭をかく様子は本当に困ってしまっているようで、ヘンリエッタの肩からも力が抜ける。
(ご自身の立場に無自覚なのも困りものですわね。まぁ、自覚して居丈高になられても困りますけど)
そう思えば玄関前でようやく連絡をよこす無粋さも許せる気がして、今度は本物の笑みが唇に浮かんだ。
そのあでやかさにミチタカが息を呑んだのも気付かないまま、ヘンリエッタは首を傾げる。蜂蜜色の髪の隙間に白いうなじがちら、と覗く。
「では参りましょうか、ミチタカさま。お約束の物は道々」
「あ、ああ」
「少し出かけてきますわね、何かあったら念話で連絡を」
背後から様子を窺っていたギルドメンバーたちにそう声をかけると、いってらっしゃーいと元気な声が返った。
けれど、それに苦笑しながら扉に手をかけた瞬間、メンバーたちの更に後ろから能天気な顔と声が追いかけてきた。
「ちょい待ちや、梅子! 出かけるんやったらおつかい頼みたいんやけどっ」
「なっ、ちょっとマリエ?!」
何をしていたのだろう、厨房のある辺りから飛び出してきたマリエールは周りの状況も確認せずに抱き着いてくる。
「あんな、ちょうど今ギーロフと話しててん。〈ダンステリア〉の新作ケーキめっちゃ美味しいんやって! なあなあ梅子おねがい~」
「マリエ──ちょっとマリエったら! お客様がいらしてるのよ。それと、梅子はやめてと何度言ったら聞いてくれるのっ」
マリエールの必殺技とも言える、むぎゅうしてのおねだりからもがき出ながら、ヘンリエッタがぴしゃりと言い放つ。
やっと状況に気付いたマリエールは大きく目を見開いたまま顔を巡らせ、何とも言えない表情のミチタカと視線を合わせた。
「あ、え、え~と……いらっしゃいミチタカはん。なんや、デートとか梅子も隅におけない」
「マ~リ~エ~~」
「やーもう、冗談やんか。ミチタカはんもごめんしてな、ふたりともお仕事頑張って!」
そう言って大らかにほほ笑まれると何も言えなくなるから困ったものだ。
ヘンリエッタは恥ずかしさに顔を赤くしながら玄関を出た。
これはもう、帰ったら大、大、お説教大会ですわ! と心の中に強く思いながら。
長い廊下を歩く間、マリエールの勢いに呑まれてしまったせいか、二人して黙り込んだままになってしまった。
ちらり、と様子を窺うと、ミチタカもいかにも「まいったな」という様子を見せていて、もしかしたら元々あまり女性の相手に慣れていないのかも知れないとヘンリエッタに思わせた。
(仕方ありませんわね……今回はこちらの不調法だったのですから)
ここは自分から笑い者になって、少し空気を軽くしよう、とヘンリエッタは口を開いた。
「先ほどは恥ずかしいところをお見せしました」
「ん? ええと、なんの話だ?」
大仰に目を見開いてミチタカが立ち止まる。
こうして近くにいると自分よりはるかに大柄なことが分かる。身長もそうだが、モンクという職業ゆえか、腕も指もごろん、と太く迫力があった。
「うちのマリエールが騒がせてしまって。……それに、おかしく思われたでしょう? わたしの名前」
伝えると訝しげにミチタカの太い眉が寄る。
「名前? 梅子さん、だったか」
「もう、口にしないでくださいな。恥ずかしいですわ、こんな身なりで梅子だなんて」
「そうか? 悪くないだろう、とても似合ってると思う」
冗談のつもりなのかそう言われても、「似合う」とまでなると納得がいかず流し目になってヘンリエッタが睨む。
「名前でからかうのはこの場かぎりにしてくださいね? あまり人に知られたくありませんから」
「なんでだ? あーいや、個人情報だし言いふらすつもりはないが、いい名前だろう」
「ご冗談でしょう?」
だんだんと拗ねるような気持ちになってヘンリエッタが唇を尖らせると、ミチタカはなぜか慌てたようになる。
「いや本当に。だって花の名前じゃないか!」
「は……?」
何を言われたのか咄嗟には分からず、ヘンリエッタは瞠目する。
ミチタカは顎のあたりをさすりながら、いたって真面目な様子で続けた。
「花の名前はあんたに似合うと思う。あー…もちろんヘンリエッタって名前もいいとは思うが、凛としたいい花だろう? 何より俺でも種類が分かるのがいい」
「それは…あの……」
どうやらふざけている訳でもなく本気で言っているのだと分かって、華奢な眼鏡の奥でヘンリエッタは目を瞬かせる。
(俺でも分かる花って……全く、アキバの殿方は、本当に、これだから……)
両親にもらった大切な名前。
そうと分かっていても、どうしてもその名で呼ばれるのは恥ずかしかった。見るからに西洋風に変わってしまった今の外見では、特に。
けれど。
「ミチタカさまは、本名でいらっしゃいますの?」
顔が赤くなったのを悟られたくなくて、ヘンリエッタは質問を返す。
少し驚いたような顔をしたミチタカが表情を太い笑みに変えて応える。
「ああ、俺ぁガキの頃から勇者の名前は『ミチタカ』って決めてんだ。どうせなら自分が冒険しなくちゃ面白くないだろう?」
「まあ。……ふふ、〈海洋機構〉の総支配人さまにも、可愛らしいところがあると分かって楽しいですわ」
「なっ、別に、何も可愛いところなんてありゃしないだろう。こんなむさ苦しいのを捕まえてなにを……!」
「あら、これでも褒めてるんですのよ? わたしの名前を褒めてくださったから、おかえしですわ」
「おかえしって言われてもなあ……まったく、敵わんなこりゃ」
がりがりと頭をかいた後、「まあとにかく行くか」と足を踏み出したミチタカの、数歩後ろをヘンリエッタも歩く。
すれ違う〈冒険者〉たちに気さくに声をかける姿を見ながら、なんだかくすぐったいような気持ちになるヘンリエッタだった。