SNOW SEED
僅かなで人間の絆は切れてしまう。それが例え家族だろうと、決められた流れの中で絆は脆すぎる糸でしかない。俺が始めて得た教訓だった。
時間の長短など関係無い。どんな時間で断ち切られようとも、結果は同じ。二度と会うことはできないし、二度と絆は繋がらない。
だから俺は雪の中に自分の感情を埋めて、凍てついたまま花を咲かせないで欲しいと願っていた。
凍ったままの感情で生きてゆけば、絆が切れたときのショックを幾らか和らげてくれるだろうと、
純粋に信じていた。
雪の中に妖精がいる。俺とは逆方向に走り抜けていった子供たちがそう言っていた。
大方、雪に埋もれた犬か猫でも見たのか、そうでなければぬいぐるみの類だろう。
子供らしい純粋な思考だと、あくびを噛み締めながらいつもの帰宅道を歩いていた。
「ううっ……寒」
古い街並みがあるだけの、あまり人の多くない田舎町。俺の住む街はあまり雪が降らなかった。けれど今年は天候を決める神様が何をトチ狂ったか知らないが、足首が埋まるほど雪を積もらせた。
寒いのは嫌い。雪は大嫌い。早く帰ってコタツでひと眠りしたい。そうぶちぶちと呟きながら俺は大きな運動公園の中を通り抜けていた。
「あ?」
ベンチの周りで子供数人が騒いでいるのが見えた。最初は雪で遊んでいるだけだと気にしなかったが、子供らが口にする『妖精』という単語に足を止める。
一通り騒ぐと、子供らは興味を無くしたかのようにその場を去っていく。
飲もうと思って買っておいた缶コーヒーをコートのポケットに入れ、子供たちの興味が移ったかのように、俺はそのベンチに足を進めた。
「ああ?」
ベンチにあったのは犬でも猫でもなく、ぬいぐるみでもなかった。
雪の人形。それが最初の印象で、雪の塊に精巧な人の顔と身体を写しているように見えた。皆が皆、雪の妖精だと言うのも納得できる。これではまるで、身体を丸めて眠っている少女だろう。
初雪色の髪、今にも開きそうな瞼、純粋な白に染められた肌、それらは思わず触れてしまいたくなるほど整った芸術で。
気が付けばそれに手を伸ばしていた。
「――」
思わず触れてしまった頬には体温があった。俺は気の所為だと思いたかったが、確かにそれは微かな呼吸をしている。
「って、おい! しっかりしろ! 目開けろ! おい!」
我に返った俺はその少女に積もった雪を払い、頬を叩きながら何度も声をかけた。
凍死。その二言に俺は背筋が泡立つような感覚に陥る。冗談じゃない、と。
「ああくそ! 目ぇ覚まさなかったら怒るぞコラ! 起きろ!」
来ていたコートと学ランで少女を覆い、何とか暖を取らせようとするが、呻き声を上げるだけで目を開かない。さっき微かに感じた体温は、冷たく冷たく落ちていく。
――何か、何かないか?
カバンの中身をひっくり返してもカイロの一つとしてありゃしない。衣類の類は少女に着せた分で全部だった。
縋るように公園内を見回し、何でもいいからと俺は躍起になっていた。
薄暗くなってきた公園のある一点。明るい白色灯の光に俺は気が付き、走り始めていた。
「ここに自販機置いた奴グッジョブ!」
『凍死』という言葉が頭の中をぐるぐる回っている。打ち消すように俺は「間に合え」をつぶやき続けた。
少女を見つけて、あれから何分経っただろうか。周りなどすっかり日が暮れて、公園内は弱弱しい街路灯の光だけになっていた。
ぼうっとそれらを眺めていた俺は、隣で少女が身じろぎをしたことに気が付いた。
「目、覚めたか?」
同じコートの中で包まっている俺に訝しげな視線を向け、自分が置かれている状況を図る様に少女は辺りを見回した。そして視線は再び俺に戻ってくる。
「君は……変態?」
ビキッ。
俺の何かにヒビの入る音がする。少女は臆面もなくそう言った。
「チガイマス」
否定する自分の声が機械音声に聞こえる。
心配して損した。けれど、そんな口が利けるなら大丈夫なのだろう。自販機に投入してやった1200円は無駄ではなかった。
「あったかい……」
「そらそうだ。ホットの缶コーヒーが十本入ってるからな」
少女はコートの中で身じろぎしながら、缶コーヒーの一本を取り出した。
「一本貰う」
許可を取りながら缶のプルトップを開ける。そのまま少しずつコーヒーを飲みほしていく少女を見て、俺も適当に一本取り出して飲み始めた。
音の希薄な公園内で、俺と少女の息遣いだけが聞こえる。視界の利かない暗闇でも、その音だけが危うくも二人をこの場に繋げている様な気がした。
どちらから飲み終えたのかは分らない。ただ、口を開いたのは俺が最初だった。
「お前、名前は?」
その質問を聞いているのかいないのか。少女は前を向いたまま微動だにしなかった。
「~~~~~~~っ、俺はソラ。もう一度聞くぞ、お前の名前は?」
もう一度聞いて、やっと少女は理解したらしく、「リク」と小さく呟いた。
「なあ……どうしてここで寝てたんだ? 今の時期外で寝てたら死ぬぞ」
当然の疑問。しかも薄手の白パーカーにTシャツ、それとホットパンツ。季節を二つぐらい間違えている。
それにリクはぼうっとした目で、「雪と、一つになっていたかったから」と戯けたことを言い出す。
ついイラっときてリクの頭を叩いた。
「痛い……」
「当たり前だ馬鹿。もう少しでお前死ぬとこだったんだぞ。そんなに死にたいのか、お前?」
「凍死は願い下げ」
「だったら少しは考えろ。もっと厚手の服を着るとか」
「お金無い」
「……じゃあ、家に帰るとか」
「家無い。旅、してるからね」
「無一文の旅人かよ……何でまた?」
そう聞くと、リクは唸りながら悩み始めた。そんなに言いにくいことなのだろうか。
「言いにくい事なら別にいいぞ」
「言いにくいことじゃない」
「じゃあ言え」
俺はその時、二本目のコーヒーを開けて口をつけようとしていた。
「死にたいから」
「ブッ!!」
口の中の液体が全て吐きだされ、それ以外は気管に入り込み大いにむせる俺。
「ど、どこが言いにくいことじゃない、だ! 人に言っていい様な類の話じゃないだろ!?」
惚けるようにリクは首を傾げる。
「そうなのかな」
「そうなの! 普通、私は死ぬために旅しています、なんて言わねえ! 大抵、頭のおかしい奴って思われるだけだぞ」
「でも、聞いたのはそっちじゃ」
「――っぐ」
って、いやいや。世間一般では当然疑問に思うだろうし、事情は聞くだろう普通。それで言いたくなけりゃ、言わなければいいだけの話だし、別段俺に非がある訳じゃあ、
ぐうううううぅぅぅぅぅぅぅぅ……。
「………………」
「………………」
今のは断じて俺ではない。俺の真横、リクの方から聞こえた音だ。耳がおかしくなった訳じゃないとしたら、これは腹の音か?
「お腹、減った……」
「やはりお前か」
無一文で旅しているなら、食ってないってこともあるのだろう。それにしても、行き倒れて死ぬのは格好悪い。
やれやれ、関わったのは俺からだ。最後まで責任を持つのが道理だろう。
「お前、少し歩けるか?」
「?」
「俺ん家に来い」
「……未成年者略取誘拐?」
「違う」
「強制猥褻目的?」
「人聞きが悪い」
「お前は今日から私の十三番目の妻になるのだ、とか?」
「どこのハーレム野郎だ」
「君の美しい右腕は僕の完璧なる恋人製作のための部品に使われるのだ。光栄に思いたまえ、的な展開?」
「俺はそんな残念なマッドサイエンティストじゃない」
包まっていたコートから出て、立ち上がる。
「一食ぐらい食わせてやる」そうリクに手を差し出した。
家に帰ってすぐリクを風呂に放り込んで、その間に夕飯の下準備を終わらせ、ほかほかになって出てきたリクに大量の料理を振る舞ったまでは覚えているのだが……。
「おかしい……冷や飯と合わせて六合はあったはずなのに」
炊飯器の中はものの二十分で空。十数品目あった料理のほとんどはリクの腹の中に消えた。
「どんだけ食ってねえんだよ」
「三日」
「死ぬぞ」
「そのつもり」
「笑えねえ」
そんなやり取りを何度か繰り返し、何を思ったか俺はリクの死ぬ理由に興味を持ってしまった。それをストレートに聞くと、不思議そうな顔をしながらもリクは話し始めた。
「誰からも必要とされなくなったから」
「必要とされなくなった」
「うん。父さんも母さんも、姉さんも友達も、私がいると厄介だって。可愛くないって。笑顔の一つもできないのかって。気付いたら、旅に出てた」
リクは表情を変えることなくそう言って、茶を一口含んだ。
「――悲しくはないのか? 悔しいとか、憎いとか」
「……分らない。でも、多分そういうのもあるんだと思う。けれど、この世に私を必要とする人がいなくなった、という事実の方が重いんだと思う」
「お前が誰かを必要としなかったのか? 助けてくれ、独りは嫌だって」
向かい合った俺とリクの視線が重なるが、リクは首を傾げる。
「他人の迷惑になると思って」
「助けを求めなかった」
「うん」
なんだかとてつもない馬鹿を相手にしている様な気がしてきた。頭痛い。
「なんて酷い勘違いだ」
「勘違い?」
湯飲みに口をつけたままリクは聞き返す。
「ああ。人間は自分が生きたいがために生きる。普通なら、自分がより良く生きるために人を受け入れ他人を思う。自分の命を脅かす人は拒絶する。
けれど、聞いた話から類推するとお前は逆で、他人がより良く生きるために自分を受け入れてもらい、自分を思う。他人が生きづらいなら自分を拒絶してもらう。
でもそれは裏を返せば、自分が生きられないのは他人が受け止めてくれないせいだ。自分を拒絶する様な人間は拒絶する、という行動にしか見えないものなんだよ。他人からはな」
「それじゃあ私は、」
リクの表情が初めて曇った。こいつと会ってから最初に見た変化。
「間違っているとは一概に言えない。でもお前の行動は見えづらかった。ただそれだけなんだろう」
彼女が両手で持っている湯のみがカタカタと震えていた。
当然だろう。自分の今までを崩されたのだから。
「……もう一度、帰ってやり直す気はないのか?」
けれど、リクは弱弱しく頭を横に振るだけ。
残酷だけど言わざる負えなかった。やり直す方法がまだ残っているのなら、やり直すべきだと俺は思っている。自分のやってきたことを崩してでも。
リクは口を閉ざして俯いたまま動かない。
慣れている筈の無音が、こんなにも痛いとは思いもしなかった。
「私……朝日が昇るころには消えるから」
辛うじて聞こえる囁き。
「スノーマンか、お前?」
乾いた笑い声で無理矢理言葉を繋ぐ。
「そう、だね。勝手に空から落とされて、勝手なカタチを押しつけられて、最後には誰にも看取られないまま溶けていなくなる。私にはぴったりかも」
リクの横顔に落ちる影は、何故だか俺をイラつかせる。
何故お前がそんな顔をしなくちゃいけない?
何故悲しいままお前は死ななくちゃいけない?
本当にこのまま見送っていいのか?
その表情が誰かに似ている様な気がした。
いつか見たことのある、鬱陶しい顔。
ああ……そうだ。ちょっと前までの俺の顔だ。
俺が幼いころ。旅行に行こうと父が誘った。
それはいいわねと母が同意した。
俺はただそれについていくだけで。
雪の降る、寂しい埠頭のすぐそばで、
父と母は夕食を買ってくると言って、
俺はただそれを待っているだけで。
寒い寒い車の中で一人。
熱を失っていく缶コーヒーを両手で握り締め、
俺は待った。ずっと、ずっといつまでも待ち続けた。
いつしか瞼が重くなって、眠った。
無機質で真っ白な天井を見上げながら目を覚ました俺は、
たった3分にも満たない時間で、
両親との絆が断ち切られていたことを悟った。
だから放っておけないのか?
雪の降る世界で、独り座っていたリクが俺と重なるから放っておけないのか?
それよりも、俺は何でこいつを家に連れてきたのだろう。
こいつと話していると必要以上に揺さぶられている自分。
俺の中に、理解できない感情が浮かんでは消え、一睡もできないまま朝を迎えた。
まだ暗い住宅街の中を俺とリクは並んで歩き、出会った場所である公園を目指していた。左隣りのリクは変わらぬ無表情で歩いているが、その横で俺は彼女を引きとめる言葉を必死に探していた。
空を明るく照らしながら上る朝日が憎らしげに睨む。
緩やかな歩みなのに、確実に公園へと近づいていく足をこの場で折ってしまいたい。けれど、別れまでの時はすぐそこまで迫っている。
俺は無力だ。リクを自分に繋ぎとめておける強さなんてない。
痛いほど握りしめたこの手で、去っていこうとするリクの腕を掴んで「行くな」と言いたかった。
そ れでも彼女が、「離して」と言えば、俺は離さなくてはならない。ずっとリクを捕まえておける言葉が見つからない限り。
ああクソ! 何でだよ? ほぼ初対面のこいつのことで悩まなくちゃいけない? 俺は馬鹿なのか?
それでも探す。俺が思いつく限りの中でたった一つ、リクを引き止められる力を持つ言葉を。
「ソラ、ここでいいよ」
「――あ、ああ……」
もう昨日のベンチの前。用意された言葉の中に、俺は未だ正解を見つけられない。
「コートと、食料とお金。ありがとう」
俺の渡したコートとカバンを身につけ、リクは頭を下げた。
「別に」と俺は素っ気なくしか答えられない。
「それじゃあ」とリクは手を上げて背を向けた。
遠ざかっていくリク。
その背に伸ばした手は引き攣って上手く動かず。
カラカラに乾いた喉は声を紡げない。
彼女に近づくための足はすくんで。
それでも俺の身体は――
「――ぇ」
気が付けばリクの身体を後ろから抱きしめていた。
それからどうすればいい? ここで引き留めてどうすれば。
口は動くのに、頭は言葉を選べない。まだ迷う。
「……ソラ?」
迷う? いや、本当は最初から答えが出ていたはずだ。リクを助けようとしたことも、家に連れていったことも、今引き留めようとしている全てを表す理由が。
彼女を繋ぎとめられる言葉を俺は分かっていた。
雪に埋めて忘れようとしていた感情は、熱を帯びて急速に氷を溶かし始めている。胸の内側からメルトダウンしそうなほどその熱は強い。
だから俺は、
「気が変わった、食事代払え。あと宿泊代も。しばらくの家事手伝いで許してやる」
シンプルで飾り気のない、本当の感情だけを伝えたかった、のだが、俺にそんな可愛げはない。強引に、つまらない言い訳をきっかけにするしかない。
俺の腕の中で振り向いたリクは、俺を見て初めて驚きを顔に出していた。
どんな顔をしているのか見ることはできない。たぶん俺の顔はひどいことになっているのだろう。
「支払いが終わるまで死なさない。俺から借りたんだ……それぐらい覚悟しろ」
リクの首筋に顔を伏せたまま、俺は照れ隠しのように言葉を重ねた。
「ここにいろよ。俺はお前を必要としてやる。だからここにいろ」
傲慢で、卑怯な言い方だと自分でも思う。けれど、俺にはこれが精一杯だった。
「……ずるい」
その言葉に顔を上げた俺は、振り向いていたリクと目が合って、リクはぎこちないけれど、確かに微笑んでいた。
自分の中の理解できない感情は何故か安堵のため息をついて、
外の自分は重い気疲れにため息をついた。
俺は信じたい。僅かな時間で引き裂かれる関係があるのなら、その時間で始められる関係もあるということを。
この短い時間の中で捕まえたこいつと繋がれるようにと、強く、強く彼女を抱きしめながら俺は祈った。
この気持ちが何処に落ち着くか分からないし、いつまでリクといられるか予想はできないけれど、俺の取り合えずの目標は、
こいつに笑い方を教えてやることだ。