転校初日のクラウチングスタート
「行ってはいけません」
あの時のカウンセラーの声が脳裏から蘇るように頭の中で再生された。
「来ちゃったよ先生」と隣の担任の先生に聞こえないように小さく呟いた。
「ん?来ちゃった?」とすかさず新担任は僕の言葉を拾った。
「いえなんでもありません」
「うふふ初日は緊張しちゃうものよ。大丈夫クラスの皆んな優しいから」
「はい…」
「さ、行きましょ」
1週間前までいた山奥の男子校を懐かしく思う。
北海道は夏が終わって秋本番を感じさせるような季節だった。でも今僕がいる東京は1ヶ月前の北海道に戻ったようだ。まだまだ残暑が厳しい。
太陽の光が窓を透けて、黒板の文字を柔らかく照らしていた。
転校初日。教室の空気は少しだけ重たく、少しだけ眩しかった。
女性の担任が黒板に「転入生」と書き、僕の名前を添える。
「今日からこのクラスに入ることになりました。
北海道森ノ山男子高校からきた中島イオリです」
僕は定型分のような自己紹介をして軽く頭を下げた。
教室は沈黙。誰も口を開かない。
当たり前だ。
僕が転入したのは高校二年の九月。秋だ。
大学受験に本腰を入れ始める時期。
修学旅行の班も密かに固まりつつある時期。
そんな季節に転校生が来たところで、歓迎されるはずがない。
視線が冷たい。
なんで今来るんだよと言わんばかりの圧。
本当だよ。ごめんなさい。
そんな教室の空気を察した先生は少し慌てて、「みんな凄いのよ…この中島イオリくんは…」と言いかけた。
「あっ….」と止めに入ったが間に合わなかった。
「先週みんなが受けた中間テストでオール満点を取りました」
余計なことを….!
僕は唇を血の味がするまで噛んだ。
誰も「おぉ」と声を上げない。当たり前だ。余計なこと言うなよ先生…。教室は羊羹の表面をスプーンで押したみたいな、重く、固く、よく分からない感じになった。
僕のいた高校の方が偏差値は5ほど上。
なにせ、僕がいた山奥の男子校は“全ての欲を禁じられた修行場”だった。
学校の裏スローガンは「共学に負けてたまるか」
そんな環境にいたら自然と勉強しかしなくなるのだ。
それにしても突然この時期に転向してきて学年1位…。いくら自己分析が苦手な自分でもわかる。僕は嫌な奴にもほどがある。
あぁ…カゴメはいつもこんな視線と戦っていたのか…。彼の中性的な笑顔を思い出しどこか口角が上を向く。
僕の共学生活のスタートダッシュは、この担任の余計な一言のせいで失敗が確定した。
まぁでもいい。
僕がこの学校に編入した目的はただ一つ。
前列の窓際。
黒髪を束ね、背筋を伸ばして座る一人の女子生徒が顔を上げた。
見覚えのある瞳。
澄んだガラスのような光をためたその瞳が、一瞬だけ僕の中の時間を止めた。
天野聖
ニーナ
僕の守護天使
ともに13歳で性犯罪に遭い、警察で供述調書を書かされ、検察にも質問攻めにされ、裁判では変態とマスコミのおかずにされた僕たち。
守護天使セラピーによって、匿名で文通をし励まし合ってきた僕たち。
およそ3年半ぶりの再会だった。
彼女は、僕に軽く一礼をして机のノートへ視線を戻した。
再会と言っても天野ヒジリは僕のことを認識していない。なぜなら待ち合わせの場所で僕は逃げたから。
最初はこんなもんだと思い、 「よろしくお願いします」と言って頭を再び下げた。声が少し震えたのが自分でもわかった。
また沈黙。
そして張りつめた空気を破るように、教室の後ろから明るい声が響いた。
「皆んな拍手しろよ!よろしくな中山くん!」
真ん中の席にいた茶髪の男子がおちゃらけながら言った。
チャラいけれど、僕ナカジマだけど、男はどこか憎めない笑顔をしている。
その軽さに教室がほんの少しだけ和らぎ、皆、拍手で僕を迎えてくれた。天野も含めて。
満足したような表情で担任が「じゃあ、空いてる席に座って」と言い、僕はゆっくりと歩き出す。
その瞬間、胸の奥に熱い痛みが走った。
あの日の無礼を、ニーナに天野ヒジリに謝らなければいけない。
約束を破ったこと。
女と偽って手紙を書いていたこと。
僕は教室の片隅の席に腰を下ろした。
四つ前の席の、その頭の先にニーナがいる。
窓の外には、淡い秋晴れの空。
少し金色を帯びた光が、黒板に反射していた。
あの日、交差点で見た同じ青色がそこに広がっていた。
僕は君と過ごすこの2ヶ月を死んでも忘れないと言い切れる。
“死んだように踊って生きろ”
―あの検事さんの言葉が脳裏をかすめる。




