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 雨上がりの街は、濡れたアスファルトが街灯の光を反射して、淡い光の膜を張っていた。健は玲の後ろを歩き、古いマンションの階段を上る。コンクリートは湿気を吸い、指で触れると冷たく粘つく。


 階段の軋む音が、まるでこの建物の奥底に眠る何かを起こすように響いた。玲の背中は、少し前を歩きながらも、どこか遠くに感じられる。彼女の足音は軽いが、この場所に根を張った者の確かさがあった。


 玲が朝、あかりを保育園に送っていったことを、健は知っていた。玲は玄関で小さく呟いた。「今日は預けてきたから、ゆっくりできる」その声に、普段の妖艶さとは違う、母親らしい疲れが混じっていた。あかりの小さな手を握って送り出す朝の風景が、健の頭に浮かぶ。玲の日常の一片が、そこにあった。


 ドアの前で玲が鍵を回す。錆びた鍵穴が軋み、静かな廊下に不協和音を立てる。ドアが開くと、室内の空気が一気に押し寄せてきた。埃と古い布の匂い。かすかな薬の臭い。それに混じって、煮物の残り香のような、淀んだ日常の温かさ。健は無意識に息を吸い込み、喉の奥にその重みが絡みつくのを感じた。


 この匂いは、玲の過去そのものだ。閉ざされた時間の中で、ゆっくりと熟成され、しかし決して消えない記憶の残渣。


 夕暮れの薄い光がカーテンを通して差し込み、部屋の隅々をぼんやり照らす。影が長く伸び、壁に不規則な模様を描く。埃の粒子がその光の中で舞い、ゆっくり落ちていく。健はそんな光景を眺めながら、この部屋がどれほどの重みを抱えているかを、直感的に悟った。


 美津子が台所から顔を出した。五十代半ばの女性は、灰色の髪を無造作に束ね、疲れた瞳で健を捉えた。カーディガンの袖が長く、手元を隠している。エプロンには洗剤の匂いが染みつき、指先が微かに震えていた。長い労働の跡が、肌の皺一つ一つに刻まれている。


「玲……お客さん?」


 声は小さく、掠れているが、どこか慣れた響きがあった。玲が短く答えた。


「安田さん。前に話した人」


 美津子はエプロンで手を拭き、ゆっくり近づいてきた。足取りは重いが、健を見る視線は穏やかで、まるで以前から知っているような柔らかさがあった。


 健は自然に頭を下げた。


「はじめまして。安田です」


 美津子は健をまじまじと見つめ、すぐに微笑んだ。


「ああ、安田さんね。玲から聞いてたわ。どうぞ、ゆっくりしてって」


 その言葉に、健はわずかに違和感を覚えた。初対面なのに、「聞いてたわ」という言い回しが、妙に親しげだ。まるで、以前から話題に上っていたかのように。


 部屋の奥、ソファに浩一が座っていた。玲の父親は、白髪交じりの頭を少し上げ、健をちらりと見た。着古したシャツの襟がよれているが、視線にはどこか落ち着いたものがあった。


 美津子が台所に戻り、お茶を淹れ始めた。湯を注ぐ音、湯呑みを置く音が、静かな部屋に響く。外の交通音が、その隙間を埋めていく。高速道路の車の流れは、止まることなく、この家族の時間とは無関係に、世界が動き続けていることを示すように。


「おどうぞ、安田さん」


 美津子が湯呑みをテーブルに置いた。緑茶の湯気が立ち上り、部屋の空気を少しだけ柔らかくする。健はソファの端に腰を下ろした。クッションはへこみ、体が沈み込む。玲は向かいに座り、浩一はそのまま横で静かにしている。


 沈黙が落ちた。外の音だけが、部屋を満たす。


 美津子が、ふと口を開いた。


「玲は昔から、しっかりしてたんですよ」


 玲の視線が美津子に向かう。美津子は構わず続けた。


「高校の頃、バイトを始めて……稼いだお金、全部家に入れてくれてました」


 玲の声が低く響いた。


「母さん、そんな話、今しなくていい」


 美津子は小さく笑った。笑顔の奥に、深い疲れが滲んでいる。瞳がわずかに潤み、過去を振り返る痛みが浮かぶ。


「でも、本当のことでしょう。あなたがいなかったら、私たち、どうなっていたか。浩一さんが仕事辞めて、借金が膨らんで……玲にばかり、負担をかけて」


 浩一が、初めて顔を上げ、掠れた声で呟いた。


「……すまなかった、玲」


 その声に、健はまた違和感を覚えた。謝罪は玲に向けられているのに、浩一の視線が一瞬、健の方に向いたように感じた。初対面の男に、なぜそんな視線を。


 玲は答えなかった。代わりに、視線を窓の外に向けた。高速道路のライトが、夕暮れの空に流れ始める。あの光は、自由のように見えるのに、玲にとっては遠い世界のものだろう。


 健は黙って聞いていた。部屋の空気が、過去の重みを帯びて沈む。埃の匂いが濃くなり、閉ざされた時間の淀みが肌にまとわりつく。美津子の言葉一つ一つが、この家族の傷を自然に語るが、どこかタイミングが良すぎる。浩一の謝罪も、初対面の健に聞かせるためのものか。


 美津子がテーブルの引き出しを開け、古い写真を取り出した。色褪せた家族写真。若い頃の美津子と浩一、そしてまだ幼い玲。三人とも、笑っている。幸せだった頃の、儚い残響。


 美津子は写真をテーブルに置き、指でそっと撫でた。指先が震え、埃が舞い上がる。


「この頃は、まだ良かったんですけどね。浩一さんが定職について、玲も学校で楽しそうで……でも、仕事がなくなってから、借金がどんどん増えて」


 浩一の肩が震えた。声が、喉の奥から絞り出される。


「俺が全部悪かった。玲、ごめん。母さんにも、ずっと苦労かけて」


 美津子は首を振った。涙が一筋、頰を伝う。


「家族のためだって、耐えてきたのよ。私も、浩一さんも。でも、一番辛かったのは玲。バイト代を全部取り上げて、家の生活費に充てて……高校生なのに、そんな思いさせて」


 玲の表情が、わずかに歪んだ。健はそれを見逃さなかった。玲の瞳に、怒りと悲しみと、それでも抑えきれない愛情が混ざっている。


 玲がゆっくり立ち上がった。


「もう、いいよ。そんな昔の話」


 声は低く、震えていた。玲は台所の方へ歩いていく。背中が、少し丸まっている。健は自然に立ち上がり、後を追った。


 台所はさらに狭く、シンクと小さなコンロだけ。玲はシンクに両手をつき、俯いていた。肩が小刻みに上がり、息が乱れている。窓から入る風が、カーテンをわずかに揺らす。


 健はそっと近づき、玲の肩に触れた。熱が伝わる。肌が湿り、汗ばんだ温もりが指先に絡みつく。玲の体温は、高く、感情の熱がそのまま体に表れている。


 玲は振り返らなかったが、抵抗もしなかった。代わりに、体を少し預けてきた。


 髪から、古びたシャンプーの匂いが立ち上る。それでも、確かな体温が健を包む。玲の首筋に、薄い汗の粒が見える。夕陽の残光が、そこを照らし、輝かせる。


 健は静かに言った。


「辛かったんだな……ずっと、一人で抱えてきて」


 玲は小さく笑った。笑いながら、熱い涙が頬を伝い、零れる。涙の塩辛い匂いが、わずかに鼻を突く。


「母さん、ずっと我慢してて……浩一の借金のせいで、私のバイト代も全部取られて。高校の時、友達が遊んでるのに、私だけ……でも、家族だから、仕方ないって思ってた」


 健は玲を抱き寄せた。自然に、腕が回る。玲の体が、健の胸に収まる。息が混じり合い、湿った熱が二人の間で広がる。玲の髪が健の頬に触れ、細い感触が心を疼かせる。玲の胸元が、わずかに上下し、息の熱がシャツ越しに伝わる。


 玲の声が、かすれ、震える。


「こんなときに……優しくするなよ。馬鹿野郎」


 でも、玲の手が、健の背中に回ってきた。指先が、シャツを握りしめる。力強く、しかし震えながら。


 健はただ、玲の髪を撫でた。柔らかい髪の流れが指を滑り、温もりが胸の奥に染み込む。玲の体がわずかに重くなり、過去の影が二人の間に絡みつくように感じられた。


 この抱擁は、慰め以上のものだった。抑えられた感情の噴出。玲の肌の熱、息の湿り気、涙の塩味。それらが、五感すべてを刺激し、健の記憶の空白をわずかに揺らす。


 玲の過去が、健の胸に流れ込んでくるようだった。貧困の匂い、家族の重み、玲が一人で背負ってきた絶望の重圧。それが、今、玲の体温を通じて伝わる。両親の言葉が、頭に残る。あの親しげな視線、馴れた言い回し。初対面なのに、なぜか知っているような雰囲気。


 健は無意識に、玲の首筋に唇を近づけた。触れそうで触れない距離。息が混じり、熱が共有される。


 玲が、わずかに体を離した。瞳が潤み、赤い唇がわずかに開く。


「安田……お前、なんでこんなに優しいんだよ」


 健は答えなかった。ただ、玲の頰に残る涙の跡を、指で拭った。湿った感触が、指先に残る。


 リビングの方から、美津子の声が聞こえた。小さく、申し訳なさそうに。


「玲……ごめんね。余計なこと言って」


 玲は健の胸に顔を埋めたまま、静かに答えた。


「いいよ、もう……いい。母さんも、浩一も、みんな辛かったんだ」


 外の交通音が遠く続き、部屋の空気が少しだけ軽くなった。影が薄れ、わずかな光が差し込むように。


 浩一が、リビングで小さく呟いた。


「玲、ありがとう……お前がいなかったら、俺たち」


 言葉は途切れたが、その想いは伝わった。


 健は玲を抱いたまま、窓の外を見た。高速道路のライトが、夜の闇に流れ始める。あの光は、玲の未来を照らすものになるのか。それとも、影をさらに深くするのか。


 そのとき、健のポケットで携帯が震えた。上司からの着信。現実が、容赦なく割り込んでくる。健は玲からゆっくり離れ、電話に出た。


「安田だ」


 向こうから、低い声が響く。


「進捗はどうだ。例の件、急げよ。組織の動きが活発化してる」


 健は窓の外を見た。夕陽が完全に沈み、街のネオンが点き始める。


「……了解しました」


 電話を切る。


 玲が、涙を拭い、わずかに笑って尋ねた。


「仕事?」


 健はうなずいた。


「ああ……ちょっと」


 玲は頬の跡を隠すように、視線を逸らした。


「なら、行けよ。馬鹿野郎」


 でも、その声には、わずかな寂しさが混じっていた。


 健は玲の瞳を見た。あの涙の跡は、家族の影の名残りか。それとも、もっと深い何かか。両親の態度が、頭に残る。初めましての感じが、なぜか薄い。まるで、以前から知っていたような。


 健はドアに向かいながら、振り返った。


 美津子と浩一が、リビングで静かに座っている。穏やかな視線を向けている。この家族の影は、深い。含みのある空気が、部屋に残る。


 外に出ると、夜風が冷たい。健はコートの襟を立て、街へ歩き出した。携帯の感触が、ポケットで重い。公安の任務が、待っている。玲の影と、自分の記憶の空白が、絡み合うように。


 この再会は、どこへ向かうのか。


 健の心に、煙のような予感が広がった。


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