四
雨が降り始めたのは、玲と街を歩き始めて間もなくだった。というか、まさにそんなタイミングで空が泣き出したわけだ。健は傘を持っていなかったし、玲も肩をすくめて空を見上げるだけだった。
二人とも、そんな些細なことで予定を変える気はなかった。バーでの再会から数日、玲の誘いで出かけたこのデートは奇妙な緊張感を帯びていた。
煙草の煙のように記憶の端がぼんやりと揺れる感覚が、健の胸を締めつける。玲の横顔をちらりと見る。黒髪のウェーブが雨に濡れ始め、頬に張りつく。赤いリップが湿った空気の中で鮮やかに映える。
彼女の歩き方はどこか挑発的だ。タイトなドレスが体に沿い、雨粒が肌を滑る様子が健の視線を絡め取る。街路樹の葉が雨に打たれ、ざわめく音が耳に届く。湿気の匂いが鼻腔を満たす。玲の存在が健の五感を優しく、しかし確実に刺激する。まるで煙草の煙が心の隙間をくすぐるように。
「雨かよ。運が悪いな」
玲が呟く。声は低く、煙を吐くような響きがある。健は苦笑して、彼女の肩に手を回した。自然な仕草だったが、触れた肌の温もりが予想外に熱い。
汗ばむような湿り気が指先に伝わる。玲の体温が雨の冷たさと対比して健の心をざわつかせる。抑圧された記憶が雨粒のように滴り落ちる予感がする。街の喧騒が雨音に混じって遠くなる。
二人で入った小さなカフェは窓辺の席が空いていた。玲が煙草を取り出し、火を熾す。煙がゆっくりと立ち昇り、健の鼻をくすぐる。懐かしい匂いだ。記憶の隙間から何かが漏れ出そうとする。カフェの内装は古びた木のテーブルと柔らかな照明が雨の外の世界を忘れさせる。
玲の指が煙草を挟む様子が優雅で、健の視線を引きつける。まるで指先が煙の渦を操る魔術師のように。
「雨の日って、昔の記憶が蘇るよな」
健がぽつりと漏らす。玲の目がわずかに細まる。彼女は煙を吐き、灰皿に灰を落とす。灰が落ちる音が静かな店内に響く。健の言葉が玲の心に小さな波紋を広げるようだ。煙の渦が二人の間に漂う。
馬鹿みたいに正直な心臓がチクチクと疼く。過去の影が煙のように絡みつき、健の内省を深める。まるで記憶が煙草の火種のようにチロチロと燃え上がるように。
「お前、過去がチラついてんのか」
声に棘がある。健は首を振り、コーヒーを一口飲む。苦味が舌に広がり、心の奥を刺激する。雨の音がガラス窓を叩くリズムがまるで抑圧された過去を叩き起こす鼓動のようだ。
煙草の煙が玲の唇から漏れ、健の顔に絡みつく。玲の表情が微かに変化する。彼女の深層心理が透けて見える瞬間だ。貧困のトラウマが煙のように心を覆う。
カフェを出ると、雨脚が強まっていた。玲が健の腕を引く。二人は路地裏の軒下に逃げ込み、二人は体を寄せ合う。濡れた服が肌に張りつき、玲の胸元がかすかに上下する。息が混じり、熱気が生まれる。
雨の匂いが強く鼻を突く。玲の肌の感触が健の掌に残る。彼女の存在が健の体を熱くさせる。抑圧された感情が雨のように溢れ出そうとする。まるで心のダムが決壊寸前のような。
玲の目が健を捉える。妖艶な視線だ。彼女の手が健の首筋に触れる。そこに淡い傷跡がある。玲の指が優しくなぞる。指の動きが健の肌を震わせる。記憶のフラッシュが雨のように降り注ぐ。高校の校庭、何か懐かしい場面。雨の中、誰かの唇に触れた瞬間。
純愛の渇きが抑圧されたトラウマを潤すように、心を濡らす。人間の醜さが雨のように滴り落ちる。まるで魂の汚れが洗い流されるような、しかし残る染みのように。
「お前にゃ、敵わねえよ」
健の声が低く出る。玲の唇がわずかに曲がる。嘲笑か、誘惑か。彼女の息が健の耳元に温かく触れる。雨音が二人の世界を包む。
「馬鹿、濡れてるだけだっての」
彼女の言葉が熱くなるんじゃねえよ、というニュアンスを帯びる。次の瞬間、玲の唇が健の唇に重なる。雨中のキス。濡れた唇が荒々しく絡みつく。熱が二人を包む。玲の舌が健の口内に滑り込み、煙草の味が混じる。
汗ばむ肌の接触が激しい魅力を呼び起こす。雨粒が首筋を滑り、熱い息が耳元を撫でる。五感が絡みつく煙のように、過去の片鱗を炙り出す。玲の体が健に密着し、曲線が体に沿う。息遣いが互いの熱を高める。まるで二人の体温が煙草の火のように燃え上がるように。
健の頭の中でフラッシュバックが続く。高校時代の記憶。何かぼんやりした交際の影。玲の貧困家庭、バイト代を家族に渡す姿。闇バイトの匂い。人間の醜さが雨のように滴り落ちる。
抑圧された絶望が心の奥を焦がすようにチリチリと焼く。玲のトラウマ再演が健の抑圧された罪悪感を呼び起こす。玲の唇の柔らかさが健の心を溶かすようだ。キスの余韻が雨の湿り気と共に残る。まるで記憶の煙が心に染みつくように。
キスが離れる。玲の目がわずかに揺れる。彼女の深層心理が煙のように透けて見える。毒舌の裏に隠れた、無力感の抑圧。貧困トラウマの防衛機制。玲の指が健の胸に軽く触れる。感謝の意が伝わる。
「興奮すんなよ」
玲が息を切らして言う。声に切なさが混じる。雨が二人の体を冷やすが、心の熱は残る。
路地裏から出ようとした時、影が現れる。タトゥーだらけの筋肉質の男、サングラスをかけ、威圧的な笑みを浮かべる。玲の表情が硬くなる。男の目が玲を舐めるように見つめる。雨が男の肩を濡らす。
威圧的な気配が路地を満たす。健はこの男の顔に見覚えがない。玲の過去に関わる人物か、漠然とした警戒心が湧く。玲の体がわずかに震えるのを感じる。まるで過去の影が玲を絡め取るように。
「おい、玲。何やってんだよ」
低く唸る声で男が玲の腕を掴む。玲の表情が硬くなる。健の本能が危機を察知し、間に入る。玲はポケットからナイフを滑り出し、男の腕を振り払って構える。動きが素早い。雨がナイフの刃を光らせる。
男が嘲笑し、ナイフを弄ぶ仕草を見せる。健は細身だが肩幅広い体で男を押し返す。男の拳が健の腹に飛ぶ。痛みが走るが健は耐え、玲のナイフが男の肩をかすめて血を引く。血の匂いが雨に溶け、男の唸り声が響く。男が低く笑いながら後退し、雨が血を洗い流す。
「玲は俺のモンだぜ」
男が去る。玲がナイフを収める。息が荒い。汗ばむ胸元が上下する。健の視線がそこに絡みつく。人間の醜い支配欲が男の深層心理から滲み出ていた。玲の目が健を見る。感謝と複雑な感情が混じる。玲の体が健に寄りかかる瞬間、温もりが伝わる。
「助かったよ」
玲の声が柔らかい。健の首筋の傷が疼く。記憶の兆しがまた一つ増える。雨が徐々に弱まる。健は玲に男のことを尋ねようとするが、玲の目がそれを制する。過去の秘密が煙のように隠されている。
雨が止みかけた頃、二人は別れる。健の部屋に戻り、ベッドに座る。玲の煙草の匂いが服に残る。抑圧された過去が煙のように絡みつく。部屋の静けさが健の内省を促す。窓から見える街の灯りがぼんやりと揺れる。
あの男の顔が頭に残る。玲の元仲間か、何者か。記憶が戻らない限り分からない。だが公安の立場から調べる術はある。まるで影のキスが記憶を呼び起こすように。
公安のオフィス。遥が健の前に現れる。ショートヘアの活発美女、ジーンズとジャケット姿。健康的な肌が汗ばむ肩を露わにしている。遥の手が健の傷跡に触れた。指の感触は優しいがどこか強い。
彼女の目が健をじっと見つめていた。玲の存在が遥の心に影を落とすようだ。コーヒーのカップを手に遥が近づく。まるで昔の習慣のように自然に。
「その傷、まだ疼くのか」
遥の声が優しい。彼女の視線が健の顔を捉え離さない。玲の影が遥の心を苛立たせていた。コーヒーの苦味が遥の表情に滲んでいた。健への好意が抑圧された感情として現れていた。
遥の肩タッチが親密さをアピールしていた。彼女の息がわずかに速かった。玲への競争心が無言の圧力として伝わってきた。まるで過去の恋の余韻がコーヒーの香りに混じっていた。
「俺が守ってやるよ、お前みたいな間抜け」
遥の言葉が皮肉めいていた。健は微笑んだが、心の奥で玲の影が揺れていた。過去探りの旅が始まったばかりだった。人間の醜さが心の闇のように内面をチリチリと炙っていた。
馬鹿みたいに正直な心臓が雨の記憶を潤していた。遥の視線が健の背中を追っていた。彼女の心に複雑な感情が渦巻いていた。まるでコーヒーの湯気が嫉妬を隠す煙のようだった。
その後、健はオフィスの端末に向かう。あの男の特徴を入力し、公安のデータベースを検索する。玲の周囲の監視記録から男の情報が浮上する。田中浩。玲の元仲間、売春実行者。玲の過去が隠されたままだった理由がぼんやりと見えてくる。
記憶が戻らない限り玲の秘密は深層に沈んだまま。だが公安の力で表面を掻き回すことはできる。浩の脅威が物語の影を濃くする。まるで煙に絡まる影のキスが、物語を深くする。




