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 空白の頭の中は、灰皿みたいに空っぽだ。


 灰が少しだけ積もって、風が吹けば飛んでいく。飛んでいく灰は、記憶の欠片かもしれない。欠片は欠片で、欠けているからこそ欠片だ──欠落が欠片を定義する、という矛盾した論理で、そんな欠けた頭で、俺は今日も生きている。生きているというより、ただ存在しているだけかもしれないが。


 安田健は公安のオフィスで煙草を指で転がしていた。


 転がる、転がる、ころころころ。どこにも行かない玉みたいに、ただ回っているだけ──回ることで存在を主張する、哀れな玉のように。意味のない回転が、意味を求めて回っているのかもしれない。


 デスクの上には書類が山積みになり、灰色の壁が四方を囲み、蛍光灯の白い光が無機質に照らし出す。


 キーボードのカタカタという音が遠くで響き、誰かの電話の声が低く混じり、隣のデスクでは同僚のため息が聞こえてくる──すべてが日常の雑音として、俺の空白を埋めようとするが、埋まらない。埋まらないからこそ、空白は空白のままだ。


 昨夜の煙草の匂いがまだ鼻の奥に残り、朝のコーヒーの渋みが舌に染みて妙に現実味を帯びていた。


 コーヒーカップはもう空だ。遥が持ってきてくれたやつだ。彼女の顔がふと浮かぶ。ショートヘアの明るい笑顔、肩に軽く触れる指の感触──触れることで存在を確かめようとするような、そんな優しい感触。


 心のどこかに、何かが欠けている感覚がいつもぼんやりとあり、欠けている部分が時々疼く。


 疼くたびに首筋の傷跡に手が伸び、指先でなぞると淡い線が肌の下に潜んでいるのがわかる──潜んでいるというより、潜伏している。過去の残骸が、未来を脅かすように。


 鏡を見ると細く這っている。交通事故の後遺症だと上司は言った。剛田警視長の冷たい声が耳の奥で反響する。


「過去を掘り返すな。大局のためだ」


 葉巻の煙を吐きながらの言葉だった。あの煙が今でも喉に絡まる気がする。警視長の部屋はいつも葉巻の匂いで充満し、重厚なデスクと壁の表彰状、窓から見える街の景色の中で、俺は呼ばれて座らされ、警視長の鋭い目に射抜かれた──射抜かれるというより、貫かれた。貫かれて、なお生きているという矛盾。


「安田、お前は優秀だ。だが、事故の後遺症は厄介だな。記憶が戻るまで、任務は控えめにする」


「わかりました」


 俺はそう答えたが、心の中では違う。記憶が戻るのが怖いのか、それとも戻ってほしいのか、自分でもわからない──わからないというより、知りたくないのかもしれない。知ることで失うものがあるような、そんな予感が。


 俺は公安所属だ。でも、それを誰にも明かしていない。


 広告代理店の営業と偽っている。偽りの肩書きが心を少し重くするが、それでいい。今はそれでいい。理由は自分でもよくわからない。ただ、そうするべきだと体が覚えている──体が覚えているというのに、頭が覚えていないという、この不条理。


 オフィスの窓から外の街が見え、午後の日差しがビルに反射して目が痛い。


 時計はもう夕方を回っていた。今日も残務が終わらない──終わらないというより、終わらせたくないのかもしれない。終わらせることで、何かが始まるような気がして。


 書類をめくる手が止まり、俺はたばこ箱を取り出して一本取り出し、指で転がす。


 火は点けない。ただ転がすだけ。ストレスが溜まるとこうする癖がある。いつからだか、わからない。事故前からか、それとも後か──癖とはすなわち、記憶の代替物に他ならない。


 遥がデスクに近づいてくる足音が聞こえ、ショートヘアの彼女はコーヒーカップを二つ持っていた。


「また煙草転がしてる。吸えばいいじゃん」


 彼女の声は明るい。俺は苦笑して煙草をポケットに戻した。


「オフィスじゃ吸えないだろ」


「じゃあ、休憩室行けば? あんた、最近顔色悪いわよ」


 遥はカップを俺のデスクに置き、熱いコーヒーの匂いが立ち上がる。彼女の指が少し俺の手に触れた──触れた瞬間、何かが欠けていることを思い知らされる。


「あんたの傷、気になるわよ。首のやつ」


「大したことないよ。事故の痕だ」


「交通事故って、どんなだったの? 話したことないよね」


 俺は首を振った。


「覚えてないんだよ。医者にもそう言われた」


 彼女は少し心配そうな顔をした。


「無理しないでよ。相棒なんだから。いつでも相談してよね」


 彼女の言葉は温かい。でも俺の心は少し遠い。遥はいい奴だ。頼りになる。でも、なぜか胸の奥が熱くならない。熱くなるのは、別の何かだ──熱くならないというより、熱くできないのかもしれない。欠落が熱を阻害するように。


 煙草を転がす手が止まり、俺は立ち上がってスーツのポケットに煙草箱を押し込み、コートを羽織った。


 エレベーターで下り、地下駐車場へ。


 車に乗るとエンジンの音が静かに響き、街へ出る。いつものバーへ向かう。なぜか足が自然にそこへ向かう。最近、毎晩のように通っている。理由はわからない。ただ、引き寄せられる──引き寄せられるというより、逃げているのかもしれない。空白から逃げるために。


 ネオンの光が街を染め、雨上がりの匂いが混じって湿った空気が肌に張りつく。


 ビルの谷間を風が吹き抜け、コートの裾を揺らし、街の人ごみが俺をすり抜けていく。サラリーマン、学生、カップル。みんな目的を持って歩いている。俺は、ただバーへ──目的がないというのが、目的なのかもしれない。


 バーの扉を押し開けると煙の匂いが迎え、薄暗い照明の下でジャズの低音が腹に響き、グラスの氷がカチカチ鳴る。


 カウンターに座るいつもの客たち、常連の老人が独り言のように呟き、バーテンダーがグラスを磨く音がする。


 そしてカウンターの奥に──あの女。


 黒髪のロングが柔らかく揺れ、タイトなドレスが体に沿い、赤いリップが薄暗い光の中で鮮やかに浮かぶ。煙草をくわえる仕草がどこか無防備で、でも危険だ。彼女はただの客か、それともこの店の常連か──常連というより、この店の象徴のような存在。


 わからない。でも毎回ここにいる。俺はなぜかその姿に目を奪われ、心臓が少し速く鳴る。


 知っている気がする。でも思い出せない。空白の頭が、灰を少しだけ積もらせる──積もらせることで、何かを埋めようとするが、埋まらない。


 カウンターの端に腰を下ろし、ビールを注文する。


 バーテンダーが無言でグラスを滑らせ、グラスの冷たさが手に伝わり、ビールの苦味が喉を通る。泡がシュワシュワと弾ける音──弾ける音が、空白を少しだけ刺激する。


 彼女の香水と煙草の混じった臭いが鼻をくすぐり、視線を感じて顔を上げると、彼女がこちらを見ていた。


 赤い唇が少し曲がっている──曲がっているというより、嘲笑っているのかもしれない。


「また来たのか、暇人め。毎日毎日、顔出すんじゃねえよ。ストーカーかよ」


 低く荒い声。毒を含んだような響きなのに、なぜか心地いい。俺は苦笑して肩をすくめた。


「いつもの席が空いてたからな。悪いか? ここ、居心地いいんだよ」


「居心地いい? ふざけんな。この店、煙と酒の匂いしかねえよ。お前みたいな清潔そうな奴には合わねえだろ」


 彼女は鼻で笑って煙草を灰皿に押し付け、灰がぱらりと落ちる。


 その仕草が妙に印象に残る。赤いリップの跡がフィルターに残っている。俺の視線に気づいたのか、彼女が口元を歪めた。


「ジロジロ見るんじゃねえよ、馬鹿野郎。気持ち悪いんだよ、そんな目」


「悪かったな。ただ、煙草の吸い方が上手いと思ってさ。深く吸って、ゆっくり吐くところ」


 俺の口からそんな言葉が自然に出て、自分でも驚くほど正直だった──正直すぎるというのが、弱さの証拠かもしれない。


 彼女は目を細めて俺を睨むような視線を投げ、


「上手い? ふざけんなよ。お前みたいなヘビースモーカーに言われたくねえよ。毎日転がしてるくせに、吸わねえのかよ」


「オフィスじゃ吸えないからな。癖で転がしてるだけだ」


「癖ねえ。変な癖だよ。私なんか、ストレス溜まったら吸うしかないけどな」


 彼女が新しい煙草を取り出し火をつける。


 ライターの炎が一瞬彼女の顔を照らし、色白の肌、長い睫毛、赤い唇が浮かぶ。煙を深く吸い込みゆっくり吐き出す──吐き出す煙が、過去を払うような、そんな仕草。


 白い煙が俺の顔の前を通り過ぎ、匂いが鼻腔を満たす。


 甘い、でも少し苦い。彼女の香水と混じって頭が少しぼんやりする。ジャズのサックスが低く切なく響く──切ないというより、欠落を強調するように。


「吸うか? 一本やるよ。転がすよりマシだろ」


 彼女が煙草を一本差し出し、俺は無言で受け取り火を借りる。


 炎が俺の煙草の先を赤く染め、一服吸ってゆっくり吐く。煙が絡まり、混じり合う。彼女の吐いた煙と俺の吐いた煙が空中で絡まって消える──絡まることで、一瞬だけ繋がるような、そんな幻想。


 その瞬間、胸の奥が熱くなった。


 理由はわからない。ただ、熱い。煙が絡まるように、心の空白に何かが見え隠れする。高校の校庭のような、雨の匂いがする記憶の影──影は影で、影だからこそ見えるのかもしれない。


 彼女がカウンターに肘をつき俺を横目で見る。


 ドレスの胸元が少し開き、白い肌が薄暗い光に浮かび、鎖骨のラインが影を作る。視線を上げると彼女がにやりと笑った。


「満足かよ、一本で。さっさと帰れよ、邪魔だ。他の客も来るんだから」


「いや、まだ足りない。もう少し付き合ってくれよ。話そうぜ」


 俺の言葉に彼女は一瞬目を丸くし、それから低く笑った。


「欲張りだな、お前は。付き合う義理なんてねえよ。客なんだから、金払って飲んでろよ」


「じゃあ、もう一杯頼むよ。お前のも奢るから」


「ふざけんな。奢られるほど安くねえよ。私は自分で払う」


 それでも彼女は新しいカクテルを注文し、バーテンダーがシェイカーを振る音が響き、赤い液体がグラスの中で揺れる。


 彼女の唇と同じ色だ──同じ色というより、唇を模倣しているのかもしれない。


 俺はビールを傾け、彼女に視線を向けた。


「仕事は何してるんだ? 毎日ここにいるみたいだけど」


「うるせえよ、そんなこと聞くな。客にプライベート晒すほど暇じゃねえ。逆に、お前は何してるんだよ。広告代理店だっけ? 営業っぽくねえ顔してるけど」


「営業だよ。毎日クライアント回って、提案書作ってさ。疲れるよ」


 嘘の肩書きが自然に口から出る。


 彼女は煙草をくわえたまま俺を値踏みするような目で見た。


「営業ねえ。似合わねえよ、お前。なんか疲れた顔してるし。目が死んでるみたい」


「事故の後遺症だよ。首の傷、見えるか?」


 無意識に首筋を触る。彼女の視線がそこに止まり、少し身を乗り出して見ようとする。


「へえ、交通事故か。痛かった? どんな事故だったんだよ」


「覚えてないんだよ、記憶が飛んでてさ。目が覚めたら病院で、医者にそう言われた」


 彼女は煙を吐きながら肩をすくめた。


「記憶飛ぶなんて、楽でいいじゃん。私なんか、忘れたいことばっかだよ。過去が重くてさ」


 その言葉にどこか切なさが混じり、声のトーンが少し低くなった──低くなったというより、沈んだのかもしれない。沈むことで、深みを増す。


 俺はグラスを回しながら聞いた。


「忘れたいことって、何だよ? 話したきゃ、聞くよ」


「言わねえよ、そんなこと。お前に関係ねえだろ。馬鹿野郎、馴れ馴れしいんだよ」


「悪かったな。ただ、なんかお前見てたら、気になるんだよ。毎日ここで煙草吸ってる姿が」


 彼女は一瞬黙り、煙草を灰皿に押しつけて新しいのを取る。


 火を付ける手が少し震えている気がした──震えているというより、抑えているのかもしれない。


「気になる? ふざけんなよ。女にそんなこと言うなんて、安っぽいナンパかよ」


「ナンパじゃないよ。本気だ」


 俺の言葉がまた正直すぎた。


 彼女もグラスを持つ手が止まり、視線が絡まる。空気が少し熱くなった──熱くなったというより、空白が少しだけ埋まるような。


「お前、馬鹿みたいに正直だな。弱いんだよ、そういう男は」


「お前みたいな女に、俺は弱いんだよ」


 口から出た言葉に自分でも驚いた。


 彼女の目が少し揺れた──揺れたというより、動揺したのかもしれない。動揺が、弱さを露呈する。


 会話は途切れ途切れに続き、街の噂、煙草の銘柄、ジャズの曲、好きな酒。


 彼女の毒舌が時々刺さる──刺さることで、痛みを確かめるように。


「この曲、いいよな。サックスが切ねえ」


「切ねえ? お前、感傷的かよ。営業らしくねえ」


「感傷的で悪いか? お前も、煙草吸う時、そんな顔してるよ」


「うるせえよ。私の顔なんて見んな」


 でもそれが心地よい。


 俺は笑って受け流す。彼女も時々口元を緩め、笑う瞬間、赤い唇が少し開いて白い歯が見える──見えるというより、覗くのかもしれない。覗くことで、秘密を匂わせる。


 ふと頭に閃くものがあった。


 高校の校庭、雨の匂い、誰かの告白。


「好きだよ、健」


 そんな声が遠くで響く。でもすぐに霧散する。思い出せない。ただ胸が疼く。


 オフィスの遥の顔がまた浮かぶ。コーヒーを渡す時の笑顔。


「あんたの傷、気になるわよ」


 肩に触れた感触。彼女の好意がなんとなくわかる。


 でも今はここにいる。この女の前で煙草を吸っている。煙が二人を包む──包むことで、一時的な繋がりを生む。


 彼女がまた煙草に火を点ける。


 俺も新しい一本を取り出し、火を借りる瞬間、指が少し触れた。熱い。彼女の指は細くて冷たいが、触れた部分だけが熱い。


 彼女が目を上げて俺を見る。視線が絡まる──絡まるというより、絡みついているのかもしれない。


「どうした、ぼーっと。また記憶探してるのかよ。お前、いつもそんな顔するよな」


 彼女の声で現実に引き戻される。


 俺は首を振って煙を吐いた。


「なんでもない。ただ、お前の顔見てたら、なんか懐かしい気がしただけだ。昔、知ってたみたいに」


「は? 馬鹿じゃねえの。初対面みたいな顔してたくせに。夢でも見てんのかよ」


 彼女は笑った。低く掠れた笑い声。


 それが耳に心地よい。俺は煙草を灰皿に押しつけて彼女を見た。


「また来るよ。邪魔でも、毎日」


「勝手にしろよ、馬鹿野郎。来るなら、もっと面白い話持ってこいよ」


 外のネオンが窓に反射し、時間はゆっくり流れる。


 まだ夜は長い。この女が誰なのか、わからない。名前も知らない。でもなぜか離れたくない。


 空白の頭に灰が少しだけ積もっていく。風が吹かなければ、このままでもいい──でも風はいつか吹く。その時、灰は飛んでいく。何かが思い出されるかもしれない。


 今はまだわからない。ただ、この煙の中で、彼女と一緒にいる。


 煙に絡まる影が、そっと近づいてくる──近づいてくるというより、忍び寄っているのかもしれない。物語とはすなわち、そんな影の連鎖に他ならない。

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