2-7 静謐感知試験
そこは全ての音が遮断され、まるで世界から「音」が取り除かれたような、閉ざされた空間。
『静謐結界』
足音すらもかき消され、口から出るのは吐息だけ。
魔力の流れはすべて結界内で遮断されるため、いかなる魔術も結果を成さない。
そこはどこまでも白く、無音なゆえに沈黙の結界とも言われている。
生徒たちは一人ずつ、この結界内へ入る。
そこで求められるのは一つ。──違和感を見つけること。
一見すれば単純だ。
だが、魔術師としての基礎感覚を必要とする。
無の空間に、たった一人で立たされる恐怖。
精神の均衡を失い、脱落する者も少なくない。
この試験は、生徒たちの間で「魔の沈黙時間」と囁かれていた。
今、アーク・ヴァルティア学園魔導科の第一実技試験、「静謐感知試験」が始まる。
* * * * *
「──それでは、これより実技試験を始めます。
名前を呼ばれた生徒からすみやかに入室するように。制限時間は十五分。
その間に結界内に起こる異変を正確に感知・報告が出来た者が合格となります」
名前の呼ばれた生徒が一人、また一人と結界内へと姿を消す。
「エバン・ヒルティ、入室してください」
エバンは、後ろに並ぶハンナ・クレイリッジを見た。
ハンナは両握りこぶしを自身の顔の前まで持ち上げ、小さく上下させる。
エバンは頷き、ルシエルの方も見たが、彼は俯いたまま微動だにしない。
そういえば、朝からルシエルの様子がおかしかった。
──(ルシエル、どうしたんだろう?)
いや、今は試験に集中しよう。
エバンは腹に力を込め結界内に足を踏み入れた。
結界に足を踏み入れた瞬間、
音が消えた──いや、奪われた。
耳が機能していないわけではない。
それなのに、何も届かない。
代わりに、空気が妙に重く感じられた。
呼吸が、途中で押し返される。
皮膚の内側が、ざわつき、落ち着かない。
心臓は確かに動いている。
しかし、その鼓動は音にならず、内側だけで膨れ上がっていく。
足元の影すら映らない異様な空間で、一歩踏み出してみたが、何も起こらない。
吐息すら聞こえず、置かれている状況を理解し始めたエバンは徐々に足が震えてきた。
──(今あるのは足裏の感覚だけ? なんだよここ。こんな所で何を探せばいいんだよ)
エバンは心臓の鼓動が早くなっているのがわかった。
目に入るものは自身の身体と真っ白な空間。
恐る恐る耳に触れてみる。
──(耳は……ある)
ほんの少し正気が戻ってきた。
しかし、少しでも気を抜くと意識を持って行かれそうになる。
呼吸が浅い。
背筋に冷たい汗が伝う。
怖いと思ってしまうと抜け出せないかもしれない。
何か楽しいことを考えてみる。
だが、何も浮かばない。
バクンバクンと心臓の跳ねる音が全てを恐怖へと導こうとしている。
目を閉じれば異空間にいるように回り始めてしまう。
──「こんなこともできんのか? だからお前は駄目だと言うのだ」
──(くそっ、なんで今そんなこと思い出さなくちゃいけないんだよ! 関係ないだろ?)
エバンは奥歯を噛み、頭を振り、
邪念を振り払おうとしたが声は強まるばかりだ。
──「出来損ないめ」
聞きたくない声に支配され、その場に膝をつく。
幼少期の嫌な思い出ばかりが頭の中を巡り、
絶望的な気持ちに追い込まれたエバンは四つ這いの姿勢から動くことが出来ずにいる。
──「どうしてお前はこんなこともできんのだ?」──ごめんなさい
──「どうしようもないな、何故できんのだ?」──ごめんなさい
──「いい加減にしないか!何度言えばわかるんだ」──ごめんなさい
──ごめんなさい……叩かないで。
エバンの身体を支える腕は震えが大きくなり、崩れ落ちそうになった。
その時、
──風よ。風を読むの。
優しい声がそっと身体を包み込んだ。
エバンは恐怖のあまり目を閉じていたが、まぶたの奥に光を写す。
そっと目を開くと、そこには真っ白な衣装に身を包んだ女性の姿。
何をやってもうまくいかず、兄と比べられ続けた日々。
罵られ、時には暴力を振るわれ、
そのたびに泣いていたエバンを庇ってくれた母。
優しい母が目の前にいる。
──感じるんじゃない。風の声を聞くの。
落ち着いて。エバン、大丈夫よ。
父の期待に応えられず、いつも泣いていたエバンにそっと教えてくれた母の言葉。
手を挙げられながらも身を挺して我が子を守る母の息遣い。
今、それを感じる。
先ほどまで支配していた父への恐怖は次第に薄れ、
呼吸も安定してきた。
大きく息を吸い、ゆっくり息を吐く。
神経を身体の中心に集中させ再度深呼吸をする。
子供の頃、母が教えてくれた心の落ち着かせ方だ。
血が巡るのを感じる。
さっきまでの不快な耳の圧迫も消え、エバンは前を見据えた。
微かに風が揺れているのを感知し、そちらへ向かう。
そこに、小さな異変を見つけた。
地面に空いた穴──風はそこから揺れている。
エバンはその穴にはこれ以上近づいてはいけないと感じた。
そこから目を離さずに後ろへと下がると、風は大きく揺れた。
身体の向きを変え、横目で見ると、そこには大きな霧が迫っており、
エバンはそれに触れないように慎重に体をひねった。
──(エバン・ヒルティ。
彼の突出した感覚は、今後どう活かすのがいいのだろう。
この子は自分の持っている能力に気づいていない)
エバンの行動を見ていた試験官フェリシア・ロウラインは思案していた。
判定表の備考欄に『潜在能力 高。 要、観察』と書き込む。
本来なら聞き取りが必要だが──不要だ。
試験であるため、一応形だけでも聞き取りを行わねばならないが。
フェリシアのペンを持つ手に自然と力が入る。
──(これは面白いことになりそうね)
そう静かに独りごちたところで
「試験は終了です。それでは扉から面接室へ向かってください」
フェリシアは声が弾みそうなところを抑え、事務的に発した。
* * * * *
試験始まりの合図を待つハンナ・クレイリッジ。
足が小刻みに震えている。
クラスメイトの顔を見ると余計に緊張してしまいそうだったが、
どうしても気になるルシエルの方を見た。
ルシエルは虚空を見つめていた。力のない目で。
ハンナは心臓がきゅっと締め付けられる感じがした。
──(試験が終わったら声をかけてみよう)
ハンナはひとつ頷いたところで声が聞こえた。
「ハンナ・クレイリッジ、入室してください」




