1/71
1-0 プロローグ
世界には、音がある。
耳で聞く音とは違う、
身体の奥で静かに鳴り響く音。
ルシエルが初めてそれを聞いたのは、幼い頃のことだった。
父の研究所、消毒液の匂いがする部屋の隅で、ひとり本を読んでいたある午後。
突然、胸の奥で何かが鳴った。
——澄んでいて、やわらかくて、まるで遠い鐘の音のような響きがルシエルをそっと包んだ。
ふと、顔を上げると、扉の向こうから父が入ってきた。
父はルシエルを見て、少し驚いた顔をしてから、そっと微笑む。
「どうした?」
「……なんか、音がした」
父の表情が、一瞬だけ変わった。
ほんの少し。
でも確かに。
それから父は何も言わず、ただルシエルの頭に手を置いた。
温かくて、大きな手だった。
あの時、父は何かを知っていたのだと思う。
ただ、その答えを教えてくれないまま、父はいなくなった。
——突然に。
理由も、行き先も、告げぬまま。
あれから、ルシエルの胸の奥はずっと静かだ。
あの音は、もう聞こえない。
いや——
本当は、ずっと鳴り続けているのかもしれない。
ただ、何かが、耳を塞いでいるだけで。
晩夏の日差しが差し込む朝。
ルシエル・バートンは鏡の前でネクタイを結び直し、
写真立てに「行ってきます」と小さく言い、寮を出た。
今日も、世界は音に満ちている。
——そのほとんどを、まだ彼は知らない。




