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婚約破棄された平民聖女、雪の伯爵に拾われ愛を交わす

 ほんの数秒前まで流れていた軽やかなワルツが途切れ、夜会の会場には音楽の代わりに人々のさざめきが響いていた。

 それをもたらしたのは、王太子フリードリヒ・フォン・モルゲンシュテルン。


「聖女マグダレーナ・ヴェーバー。貴殿との婚約を破棄する」


 ワルツを楽しむ人々の中へ、突然斧で穿つような嫌な音を彼は投げつけたのだ。

 フリードリヒのその言葉に楽団の弦は止まり、貴族達の好奇の視線と嘲るような声が広がる。


 名を呼ばれた私は息を吸い、呼吸を整える。

 平民の聖女ということで常に馬鹿にされてきた私にも、矜持というものがあるのだ。


「私を婚約者に、と言い出したのは王家です。それを一方的に破棄されるのですか」


 別に王太子妃にも王妃にもなりたいわけじゃなかった。

 ただ、王太子と年齢のあう聖女が私一人だった。それだけ。

 

 ちなみに、他の聖女は皆結婚してお子さんもいる。

 平民の私に、王家からの打診へ拒否などできるわけもなく、王太子との婚約が成立した。


「状況が変わった。ローゼンヴァルト公爵家のエリーザベトが、聖女の力に目覚めたのだ」

「――なるほど。それであれば、平民の聖女よりも公爵家のご令嬢の方が、王家として旨味がありますものね」

「なっ! その言い方は不敬だぞ」


 フリードリヒが叫ぶけれど、どうせもうこの場所にくることはない。

 王太子妃教育で詰め込まれた淑女の礼を見せる。


「大変失礼致しました。それでは、私はただの一聖女に戻り、神に奉仕したいと思います」

「……いや」

「いや?」


 聖女というのは、まぁ別に特別な力があるわけではない。

 生まれたときに体のどこかに星形の痣がついている。神が人のために流した涙、星の涙痕(シュテルン・トレーネ)だと言われていて、祈りに神が応えると光ると言われている。


 だからといって、不思議な力があるわけではないのだけど。

 正直、私や他の聖女のそれが、光ったのを見たこともない。

 なので、その公爵家のご令嬢が目覚めた力っていうのが何かはよくわからない。


「当代の聖女で未婚の貴殿を、そのまま教会に戻すのもよくない」

「は? よくないとは?」


 聖女なんだから、教会で過ごすので問題ないだろう。


「せっかく王太子妃教育も受けたのだ。王家のために役立ってもらおう」


 フリードリヒがそう告げると、私はあっという間に彼の側近と近衛兵に無理矢理移動させられ、馬車に押し込まれてしまった。

 そうして、どこに行くのかもわからないまま、私の乗る馬車は走り出したのだった。


   ***


 馬車に乗った私はそのまま疲れて眠り、目が覚めたときにはドールニュッテ侯爵領にある有名な尖塔が見えた。


「随分遠くまで来たのねぇ。これってどこまで行くのかしら」


 外を見ていると、緩やかに馬車が止まる。


「お目覚めでしたらちょうどいい。あと少しで馬替えなので、その間に朝食を」


 馬車の窓越しに御者が声をかけてきた。太い声は感情を読み取らせないが、粗野ではない。

 おそらく王城に勤める御者だろう。

 馬車の馬替えをするということは、さらに遠くまで連れて行かれるのだ。


「ねぇ、どこまで行くの?」

「シュネードルフ伯爵領です」


 たったそれだけの返事をすると、御者はすぐに自分の座るべき場所に戻る。


「シュネードルフ伯爵領……。そこって確か……」


 王太子妃教育で学んだ情報を思い出しながら、再び窓の外を見た。

 ここドールニュッテ侯爵領は最高聖女と名高いゲルダ・フォン・ドールニュッテ侯爵夫人の住む街で、有名な修道院もある。


「そこに入れられるのかと思ったけど」


 違うらしい。王都からシュネードルフ伯爵領は、馬車を思い切り走らせても二日はかかる距離。


「どうやらフリードリヒ王太子殿下は、よほど私を王城の近くに置いておきたくなかったようね」


 あと一日と半分は馬車の上で過ごさないといけない。

 それでも、王城での王太子妃教育や貴族達の茶会や夜会に参加する苦痛を考えれば、よほど楽だ。


 シュネードルフ伯爵領の教会に入ったら、また労働と祈りの日々になるだろう。

 今は神さまから貰った休暇だとでも思って、のんびり過ごすことにした。


 そうして一日と半分、に追加してもう一日。

 合計で三日の間馬車に揺られて、ようやくシュネードルフ伯爵領に到着した。


 一日増えたのは、シュネードルフ伯爵領に近付くにつれて、雪深くなってきたからだ。

 森を抜けると、それまで以上に雪で覆われた谷底の村が見える。


「うわぁ、すごい。こんなに雪深い場所、初めて見たわ」


 薄曇りの空は、雪山との境界線を曖昧にする。

 高台にある領主の館とおぼしき館の扉の前で、馬車が止まった。

 中から出てきた家令らしき相手に御者が書状を手渡すと、御者は私に降りるように告げる。


「聖女殿。私の役割はここで終了です。どうぞお元気で」


 早口にそう言うと、御者はこれまで以上の速さで去って行く。

 私は着の身着のまま、あの夜会のときの服装のままで放置されてしまった。


「ご令嬢、こちらへ」

 

 家令に連れられて館の中に入る。

 暖炉の前に座らせてもらい、体を温めた。

 馬車内は夜会で上に羽織っていたものでしのげたが、この館に降り立った瞬間寒さで倒れるかと思った。


 しばらく暖を取っていると、部屋に先ほどの家令ともう一人、背の高い男性が入ってくる。


「ああ、暖炉の前にそのまま」


 慌てて立ち上がり彼の方へ近付こうとすると、背の高い男性がそう口にした。

 ありがたい。

 彼は、体格もよく、頑丈そうだ。肩ほどの黒髪は、後ろで一つに束ねている。


「レオンハルト・フォン・シュネードルフだ」

「シュネードルフ……伯爵閣下ですね」


 この場で淑女の礼を見せると、彼は暗闇の中に見える一等星のような青い瞳を細めた。

 彼がこの領地の領主であるなら、この地の教会を紹介して貰えば良い。

 そう思っていたのだが。


「フリードリヒからの書状は読んだ。どうやら君は私の妻になるらしいが、それでいいか?」

「……今、なんて?」


 突然の言葉に、私は思わず素が出てしまった。


   ***


 シュネードルフ伯爵領はモルゲンシュテルン王国の端にある、山間の領地だ。

 隣国と接してはいるが、そちら側も険しい山なのでさして重要視されていない場所。


「かつては、光星祭リヒトシュテルンフェストにあわせて、ひと月ほど開催される雪灯の市シュネーリヒター・マルクトを訪れる人も多かったんだが」


 レオンハルトは目を細める。

 美しい青い瞳が、夜闇に閉じ込められるように薄くなった。

 

「そして八年前の大雪で道が閉ざされ、人の行き来がほぼなくなった」


 彼はそう言いながら、無表情で私を見る。


「君はフリードリヒの婚約者だったんだ。私のことも知っているだろう」

「悲劇の王弟、呪われた王弟、不協和音を生み出す」

「もういい」

 

 私はレオンハルトへの呼称を並べ立てた。

 我ながら意地悪だとは思うが、嫌味ったらしい聞き方をしてきたのだから、こちらも相応に返してやっただけだ。


「父は前国王で、母は王宮の侍女。側妃に召し上げられて私を出産後、すぐに亡くなった」

 

 レオンハルトの言葉に頷く。彼のことは、噂も含めて知っている。

 彼とフリードリヒは、叔父と甥の関係なのだ。


「……前王妃の派閥が、お母君を毒殺したという噂も」

「さてな。だが、今の国王が十二のときに生まれたのが私だ。前王妃とその一派に疎まれて当然だと思わないか?」


 あの前王妃ならやるだろうし、現国王やその妃だって同じ状況ならやりかねない。

 王太子妃教育で王城にいたから良くわかる。あの王族はクソだ。


「それでこの地へ?」

「父上――前国王の思し召しさ。フリードリヒが十歳、私が十六歳のときに、その大雪の対処のために僅かな手勢でここへ」


 自嘲するように笑う彼に、私は同じような笑みを作って返す。


「それで今度は、甥っ子であるフリードリヒ殿下の元婚約者を押しつけられてしまったわけですね。ご愁傷様」

「君は随分と他人事だな。自分のことだろう」

「書類一枚で結婚は成立します。閣下がお嫌だということあれば、私はその後この領地の教会にでも居を移しますので」

「何を言ってるんだ」


 彼の瞳が大きく開く。


「だって、突然押しつけられた平民の女を妻になんてしたくないでしょう? 閣下にだって、想う方とかいるでしょうし」


 確か彼は二十と少しいったくらいの年齢だったはずだ。

 フリードリヒから婚約者として私を押しつけられるくらいなので、他に婚約している人はいないのだろう。とはいえその年齢なら、領地内でいい人がいてもおかしくはない。

 当て馬になるのは、ごめんこうむりたい。


「君にはいるのか?」

「え?」

「想う人が、だ」

「いませんよ。つい三日前まで王太子殿下の婚約者でしたし」


 私の言葉に、レオンハルトは頷く。


「君が問題ないようならこのまま妻としてこの館で過ごして欲しい。フリードリヒの手紙ではあるが、兄王のサインも入っている」


 想定外のことに、今度は私の目が見開くことになった。


「それって――王命ということですか?」

「ああ。正式ではないが、概ねそういうことになる」


 王太子妃教育を受けている聖女が、市井に放たれるのを避けたかったのだろうか。

 それであれば、それこそ修道院に入れてくれれば良かったのに。


「こんな平民を妻にだなんて、申し訳ないです」

「君が妻なら貴族の派閥に私が所属することもないから、王家としては万々歳といったところなんだろう」

「あー、なるほど。でも考えたら性格の悪い貴族たちと距離を置けるんだから、いいじゃないですか」


 王命ということは、従わないといけない。

 であれば、今の状況で最大限暮らしやすく楽しく生きていくだけだ。

 あっけらかんと告げれば、レオンハルトは目を数度瞬かせ、そうしてくしゃりと笑った。


「――笑顔、かわいいですね」


 言えば、すぐに真顔に戻ってしまったけれど。


   ***


 それから私とレオンハルトは、すぐに婚姻届を提出した。

 王命をすぐに実行に移したと証明することで、翻意がないことを示す必要があるからだ。


 この村に唯一の小さな教会は、神父がいない。それでも、村人たちが祈りには訪れては掃除をしていたようで、古くはあるが清潔だった。

 

 そこで二人で神に結婚の誓いを立てる。

 神父がいなくとも、私が聖女なので一人二役をした。

 つまり、新婦であり神父の役割だ。

 

 レオンハルトの顔を見て、誓いの言葉を告げた後に口付けを促す。

 出会ったばかりだというのに、彼との口付けは嫌ではなかった。


「君との結婚は嫌ではない。ただ――しばらくは閨を共にするのはやめよう」

「……それは誓いの口付けの直後に言う必要があること?」

「今言わないと、誠実ではないと思って」


 その言葉を妻に告げることは誠実だとでも、思っているのだろうか。

 

「理由はなんでしょうか」


 私の問いかけに、彼は少しだけ逡巡し口を開く。

 

「この領地はこれから冬になる。もしもすぐに子を宿した場合、妊娠初期の重要な時期に、領外の医師を呼ぶことができないんだ」


 彼はそう言うと、口を一文字に引き締めた。

 生真面目で、誠実な王弟殿下。

 レオンハルトへの評価が、私の中で一気に塗り替えられる。


「だったら、最初からそう言えばいいのに」


 私は彼を安心させるように抱きつき、背を伸ばした。

 そのまま両手を彼の首元に伸ばす。そうして、もう一度レオンハルトの唇へ顔を寄せた。


 私がしようとしていることに気付くと、彼も顔を近付ける。

 誰もいない教会で、私たちは二度目の誓いの口付けを重ねた。


「あなたは、誠実な人だわ。レオンハルト閣下」

「妻になったんだから、レオと呼んでくれ」


 彼の言葉に、ゆっくりと頷く。

 

 以降、私は『領主の妻』兼『シュネードルフ伯爵領の聖女』として働いた。

 領民の子どもたちに文字を教え、女性達には刺繍を指導し、共に神に祈りを捧げ、村の平穏を願う。


 その間、レオンハルトは冬の間に出る動物――狐や狼、鹿、猪などを、領民の男性達と狩りに出る。

 狩った肉は領民たちと分け合い、毛皮は手入れをして翌年の冬前になったら売りに出すのだ。


「冬の期間も売りに出せればいいのに」

「外との出入りの道が、雪で塞がれるからな」


 私がここに到着したのは、まだ冬の始めだった。

 この領地へ入るには私が辿った道しかなく、雪深い時期になるとそこは埋もれて通れなくなる。


「昔のように、雪灯の市が盛り上がって、人の出入りが増えればいいのにね」

「別に、今のままでも構わないさ。マグダレーナもいてくれるし、領民も穏やかに暮らしている。これ以上は望んではいけない」


 彼の言葉に、引っかかりを感じる。


「……望んではいけないのはどうしてよ」


 暖炉の前で刺繍をしていた手を止めてレオンハルトを見れば、彼は眉根を寄せて天井へと視線をそらせた。


「言いたくないならいいけど。でも、あなたの役割は何かを考えて」


 領民が穏やかに暮らしているのは良いことだ。

 でも、この雪に閉ざされた山間で、現状維持をいつまで続けられるのか。

 

 自然は裏切る。

 人と同じように。

 それならば、少しでも傷が浅く済むように前に進むべきだろう。

 そしてそれを考えるのは――領主の仕事だ。


「そうそう、私は私で手紙を書かないと」


 王都の教会に所属する、先輩聖女のお姉さま方へと手紙を綴る。

 お姉さま方は平民出身もいれば、貴族出身もいるのだ。

 そんな皆さまに、丁寧にフリードリヒの弱点を書き連ねて送った。


「フリードリヒは、ずいぶんと脇が甘かったからね」

 

 私は聖女といっても、清廉潔白で無垢な女というわけではない。

 人並みに腹も立てるし、他人を妬むことだってある。

 そして、嫌な思いをさせてきた相手には、相応の報いを受けて欲しいと思う。


「積極的に関わりたくないから、私と関係ないところで不幸になって欲しいわ」


 貴族は水面下で、足の引っ張り合いをしている。

 王家の血なんてたいしたものではなく、頂点のすげ替えはどの貴族も狙っているのだ。


「あの公爵令嬢の家門って、そういえば前王妃の派閥じゃない!」


 手紙を書きながらそれに気付き、ニヤリと笑った。


「だったら、まとめて退場して貰ってもいいんじゃない?」


   ***


 春になった。

 雪はまだ残るが、徐々に小さな塊に姿を変えていく。


「雪福草ね! なんてかわいいの!」


 レオンハルトと共に領地を散策していると、雪の下から地面を押し上げて咲いている小さな黄色い花が目にとまった。


「初めて見るのか?」

「ええ。王都には咲いていない花なの」


 彼はその花を根ごと引き抜くと、私の手に乗せる。


「館の庭に、植えるといい」

「まあ!」


 こういうとき、普通は茎を切って花を手渡すだろうに。

 根ごと引き抜き植え替えを提案するとは、なんて領主として好ましい人なのだろうか。

 ハンカチにそれを包み、手にしていた籠にそっと入れる。

 

「一緒に植えてくれる?」


 彼は頷くと、しばらく何かを考えたあとに私の顔を覗き込んだ。


「このあと、見せたい場所があるんだが」

「見せたい場所?」

「ああ。冬の間は行くことができなかったんだが、マグダレーナには知って欲しくて」


 足の太い、この地域特有のドルフ馬と呼ばれている背の低い馬を、近くの厩舎から選んで連れてくる。

 馬の背丈は私の肩ほどだろうか。けれど、体躯はしっかりしていて毛足が長い。


 その馬に二人で乗り、山の中腹へと登る。

 冬の間はここまで上がることはできないというので、レオンハルトは春が訪れるのを待っていたのかもしれない。


「ここだ」


 この場所からは、雪と氷で急な斜面になっている谷が見下ろせた。

 雪崩が起きやすい斜面には、幾筋もの雪が通った跡が残り、まだ日が短いこの時期の傾き掛けた太陽の光を受け赤い光を返している。


「ここに何が――」


 そう口にして彼を見ると、その横顔はまるで凍てついた氷のように固かった。

 彼の瞳はじっとその筋を見つめ、両手を祈るように組む。


「八年前の大雪のとき、私と共に王都から来てくれた仲間が六人」


 王国にとっても前例のない寒波に襲われたあの年、私はまだフリードリヒの婚約者でもなく、教会で炊き出しをしていた。

 王都ですら、多くの凍死者を出すような寒さだったのを覚えている。


「この領地はもともと王領だったが、ほとんど捨て置かれていたんだ。形ばかりの代官が、大雪の中王都に駆け込んできた」

「つまり、逃げてきたのね」

「ああ。それで私に白羽の矢が立てられた。フリードリヒの王位継承権を確かなものにするためにも、私を王都から追い出しておく必要があったんだろう」


 後ろ盾などないも同然のレオンハルトでも、為人次第では貴族が旗印に持ち上げる可能性はある。

 だからこそ、爵位も伯爵程度に落とし、ここを任せることにしたということか。


「私はね、マグダレーナ。あのとき、悔しかったんだ。別に王位なんて望んではいない。でも、国王の血筋である私と、兄上、フリードリヒとの待遇の違いに」


 フリードリヒを思い出す。

 政治的根回しなんて一切できない男だった。彼が国王に相応しいかと聞かれたら、私は否と答えるだろう。

 かといって、レオンハルトが王位に相応しのかと問われたら、それもわからない。


「だから、ここで手柄を立てたいと思ったんだ――思ってしまったんだ」


 レオンハルトは、指で雪の斜面をなぞる。

 未だ雪と氷で埋もれているそこに、彼の指が刻む見えない線。

 四つの名前が、小さくレオンハルトの口から綴られる。


「私の判断ミスで、四人が雪崩れに巻き込まれた」


 谷を駆け抜ける風が、彼の黒い髪を揺らす。

 冬の一等星の色をたたえた瞳が、真っ直ぐに谷を見つめる。

 その先は、紫色へと色調を変えていく空が見えた。


「……彼らのことで、レオは自分を責め続けているのね」


 以前、彼が今以上の暮らしを望んではならないと言っていたことを思い出す。


「己を責め続けるのが、務めだと思っている。ここで二度と同じ過ちを犯さず、奢らず、手柄を求めず」


 レオンハルトの瞳には、その四人が見えているのだろうか。

 すまない、と何度も口にする。

 けれど、彼のそれは何も生み出さないのだ。


「レオ」


 彼の祈りの手に、私の手を重ねる。


「自分を責め続ける。それは贖罪とは違うわ。彼らは自然の中に帰り、空気に溶け、この地にいるのよ」


 私は聖女だ。

 特別な力はなくても、小さい頃から教会で神さまの教えを聞き、祈ってきた。

 だからこそ、彼に語りかけることはできる。


「私たちの神は、いつも光の中にいる。死へと旅立った者たちをその身に受け止めてくれる」


 レオンハルトの顔が歪んだ。

 彼を抱きしめる。きっと、泣き顔を私に見られたくはないだろうから。


「あなたが負った苦しみを、私が半分貰う」

「もらう……?」


 彼の声が、震えている。

 私の首筋に、水滴が触れた。


「私たちは夫婦でしょう。一人で苦しむ必要はないのよ」


 レオンハルトはゆっくりと体を離し、私を見つめる。

 彼の目尻から流れる涙に私は口付けをすると、レオンハルトの額に私の額をこつりと当てた。

 そこから体温が流れ込んでくる。


「彼らのために祈るわ」


 私がそう口にすると、左の目の下にある星形の痣が熱を帯びたのを感じた。


「マグダレーナ……。星の涙痕(シュテルン・トレーネ)が光って」


 レオンハルトの言葉と同時に、夕暮れの空に無数の星が光り出し、一斉に谷の奥へと流れ落ちていく。

 それを見た瞬間、私の脳は妙に冴え冴えとした。

 一方のレオンハルトの表情は恍惚としていて、まるで神に出会った神話に出てくる男のように見える。


「レオ、彼らは神の元で過ごしているわ。あなたがするべきは、領地を栄えさせ、そうして神に感謝を捧げることよ」


 本当に神がいるかなんて、わからない。

 聖女のくせにそんなことを思っていた。


 けれど、今の奇蹟のような空を見てしまったら。

 私の頬に浮かぶ星の涙痕(シュテルン・トレーネ)が光ることを感じてしまったら。

 認めざるを得ないのだ。


 レオンハルトが再び深く祈る。

 そうして、私をじっと見た。


「ありがとう、マグダレーナ。私はようやく、領主になれそうな気がするよ」

「帰ったら、一緒に雪福草を植えましょう。春を告げるこの草のように、領地をささやかな幸せで埋め尽くすの」

 

 この領地のために。

 レオンハルトが、息ができるようになるために。


   ***


 雪が溶けきった頃に、国王陛下からレオンハルトが申請した新しい道路の開設許可が下りた。


「これで、雪が積もっても人の行き来ができる道を作れる」


 この領地の夏は短い。

 冬になる前に工事をすすめないといけないが、領民に説明をしたらすぐに人手は集まった。


 今年は、農地は女性と子ども達が中心になって耕し、男性は道を作ることに注力する。

 レオンハルトが中心になって、木を植え替え、半トンネルに松脂を塗り、雪に負けない道を作っていく。


「あ……雪」


 ちらりと降り始めた初雪に、少々難航しているトンネル工事を心配する。

 けれどそれは杞憂に終わった。

 

 程なくして工事が終了したのだ。

 それと同時に、王都の聖女のお姉さまからの便りも届く。


「あら、フリードリヒとあの公爵令嬢が?」


 フリードリヒが選んだ公爵令嬢の聖女が、ニセ聖女だったことが暴露されたらしい。

 令嬢は神を欺いたとして、南の島にある修道院に入れられたとのこと。


「あそこの修道院、毒蛇や大きい虫がたくさん出るって噂の……」


 寒い修道院も辛いが、蛇や虫も辛い。どっちがマシなのだろうか。

 彼女を聖女として勝手に認めて婚約者の変更を許諾した国王と、フリードリヒについては、貴族裁判にかけられるらしい。

   

「フリードリヒが国王にならなくても、王家の傍系はたくさんいるしね」


 レオンハルトと私に嫌な思いをさせた国王と王太子には、是非とも相応の不遇を味わって貰いたい。


「結局、あの夜会で彼が手にした斧が、自分の足元を穿ったわけね」

 

 もしもレオンハルトが国王になりたいと言い出せば、それはそれで考えなくもないけど、私はこの静かな谷での生活を気に入っている。

 だから、できれば国王は他の誰かが引き受けてくれるとありがたい。


「貴族裁判って、最悪国王一家が処刑されることもあるってやつだし」


 王太子妃教育で学んだ歴史を思い出す。

 ぶるりと体が震えてしまうが、すでに王籍から抜かれて伯爵になっているレオンハルトには関係がない。


「私とレオは、ここで勝手に幸せになるからいいのよ」


 トンネルを作っている間に、私は女性や子ども達とともに光星祭リヒトシュテルンフェストの準備をする。

 一年の最後の月の最後の日が祭の当日で、その夜を過ごすと新しい一年がやってくる。


 このシュネードルフ領は、もともとその祭をひと月かけて祝う雪灯の市シュネーリヒター・マルクトが有名だった場所だ。

 あの大雪以来途絶えてしまった、その伝統的な市を復活させる。


 レオンハルトが中心になって作った道路のこけら落としと市のスタートを同日にすれば、シュネードルフ領の再起を周辺の領地に印象づけることもできるだろう。


「大事なのは、周囲の領との関係よね」


 ここに封じられてからのレオンハルトは、周囲の領との友好関係を結ぶことができていなかった。

 彼の立場に対して、貴族達も積極的に動くこともなかったのもある。


「悪いけど、これからは違うわよ」


 領民のために動く領主になる。

 今のレオンハルトは、間違いなく良い領主になるだろう。


「王太子妃教育で学んだことはしっかりと、領民に還元するわ」


 窓から空を見上げる。

 夜空に冬の一等星が見えた。


   ***


 朝。

 空気はしっとりと、それでいて冷たい。

 今日は雪は細かく舞っている程度なので、式典にはちょうど良いだろう。

 

 シュネードルフ領と隣り合うベルンタール男爵領側に、レオンハルトと私、それにベルンタール男爵夫妻と、王都から最高聖女と名高いゲルダ・フォン・ドールニュッテ侯爵夫人が並ぶ。

 周囲には多くの商人と、周辺領地の民、それに我がシュネードルフ伯爵領の民が集まっている。


「今日を無事に迎えられたことを、光栄に思う。このトンネル道のために尽力してくれた我がシュネードルフ伯爵領の領民と、そして私の妻である聖女マグダレーナへ、最大限の感謝と敬意を。そして皆々様におかれましては、今後深い交流を」


 レオンハルトがそう宣言すると、聖女が祈りを捧げる。

 通常の祈りでは星の涙痕(シュテルン・トレーネ)は光らない。大切な誰かのために強く祈ることで、聖女の力は最高になり、神への執り成しとなるそうだ。


 聖女のお姉さま方からの手紙で、教えて貰った。

 自分で光を放ったあとでないと、そうしたことは教えられないらしい。

 なんだその謎ルール。なんて思ったけれど、そういうものらしい。仕方ない。


 祈りのあとに、レオンハルトが剣を掲げる。

 その剣が太陽の光を反射し、輝いた。

 トンネルを封鎖していた絹の糸の束をその剣で切り落とすと、拍手が起きる。


「さぁ、マグダレーナ」


 彼に手を差し伸べられ、屋根のない馬車に乗った。

 ここからゆっくりとトンネルの中を通り、我が領へと入っていく。


 私たちの後ろにも男爵夫妻と聖女ゲルダの乗った馬車が続き、その後ろに商人の馬車、そしてさらに後ろを人々が歩いてついてくる。


 長さこそあまりないが、私たちの命綱ともいえるトンネルの中には、氷で作ったランタンが置かれ、仄明るく道を照らしてくれた。

 やがてトンネルの出口側では、領地に残っていた領民たちが、拍手で私達を出迎えてくれる。


「お帰りなさい、領主さま、奥さま!」


 彼らの背後には、雪灯の市シュネーリヒター・マルクトのための屋台(ストール)が立ち並ぶ。周囲は旗や飾りが風になびき、氷のランタンもあちらこちらに置かれている。

 夜になればこのランタンの灯りが、幻想的に市を照らすだろう。


 どこからともなく、弦楽器の音が聞こえてきた。

 驚いて周囲を見れば、いつも飲んだくれていたおじいちゃん達が弦を弾いている。

 私たちの後ろから来た人々は、市の華やかさに歓声を上げた。


雪灯の市シュネーリヒター・マルクト、復活だな」


 皆が屋台を見に市の中に広がっていくのを見て、レオンハルトが笑った。

 そうして、馬車から降りた私に改めて手を差し伸べる。


「踊っていただけますか、マグダレーナ」


 流れてくるのは、王城の夜会で流れるようなワルツではなく、この地域に伝わる伝統音楽。

 心が沸き立つような、楽しいツヴァイファッハが流れる。


 二拍子と三拍子が入り交じり、クルクルとずっと回っている踊り。

 私たちが回り出すと、周りの領民たちも踊りに参加し始める。


「目が回りそう!」


 二曲続けて踊ったら、息が上がってクラクラとしてきた。

 そんな私を見て、子ども達が楽しそうに笑う。


「マグダレーナ、ありがとう」


 薄闇になってきた市には、氷のランタンが光を点す。

 揺らめくそれが、まるで神さまの元に旅立った人たちの命のように見える。

 レオンハルトはそこに、四人の姿を重ねたのかもしれない。


「私こそ、ありがとう」


 穏やかに笑みを浮かべるレオンハルトの肩に頭を預ければ、ひょいと抱き上げられる。


「え、ちょっと……レオ?!」

「マグダレーナがかわいすぎた。そろそろ初夜を迎えてもいいんじゃないかな」


 横抱きにしたまま、私の頬や額、鼻先に口付けをするレオンハルトに、私は顔だけじゃなく、体中が赤くなる。


 そう、私たちは結婚式を挙げてから結局、春や夏を迎えてもなんとなく初夜を過ごせずにいたのだ。

 トンネルが開通し、冬の間も人が行き来できるようになった。

 つまり。


「もういつ妊娠しても、問題ないだろう?」

「そんな言い方っ! もう!」


 そう言いながらも、私も拒否はしない。

 彼の後頭部へと手を延ばし、口付けをした。

 その瞬間、拍手と指笛、口笛が響く。


「あ! 領民達の前だったじゃない!」


 私の言葉に、領民達は再び歓声を上げ、レオンハルトはまるで溶けてしまいそうなほどの甘い笑みを、私に向けた。

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