〈4〉勇気は
教室の扉の前でセイゲツは足を止める。
いつもの喧騒も、朝のざわめきも聞こえなかった。
代わりに耳に届いたのは鈍く肉を打つ様な音。
嫌な予感がする。恐る恐るドアを開けたセイゲツは、息を呑んだ。
机と言う机は横倒しになり、床には教科書と血の跡が散らばっている。
中央では、震えながらうずくまっている二人のクラスメイトの上に、ジンヤオが立っていた。
拳を振り下ろす度、鈍い音が響く。
教室の中心は辺りは赤く染まっていて、一年五の生徒達は必然的に隅へ追いやられていた。
止めようとする者はおらず、教室の空気は張り詰めたまま、誰も息をしていないようだった。
セイゲツに気付いたジンヤオは、「あ、クソ女」と一瞥した後、何事もなかったかの様に二人に拳を叩き付けた。
目を見開いて呆然としているセイゲツの後ろに、他の組の野次馬がわらわらと集まってくる。
教師は誰も来ないし、相変わらず生徒は止めようともしない。....いや、止める事が出来ない。
セイゲツはジンヤオを制止する勇気がない自分に絶望していた。このまま死んでしまうのでは無いかと言うくらいに、殴られている二人は虫の息だった。
唯一止める事の出来るシユはまだ来ないのかと、セイゲツは辺りを見渡す。しかしシユとズイリンは今日龍化練習に行っている事を思い出し、セイゲツの中の微かな希望が潰えた。
ジンヤオの拳は、幾度も容赦なく振り下ろされる。
鈍い音が教室に響くたび、セイゲツは小さく息を呑み、目を閉じそうになった。
一度、また一度。
何度も繰り返される拳の音。
なにがあったの....セイゲツは目眩に襲われた。この状況を面白がっている生徒が殆どなのか、誰もが遅れている教師を呼びに職務室へ行こうとはしない。
一瞬だったが、セイゲツの瞳に、ジンヤオの鈍く輝いた八重歯が映り込んだ。
笑っている。
セイゲツの心臓が痛いくらいに脈打った。頬が赤くなっていくのを上がる体温で感じる。
「どうしよう......」
好きだ。
どうしようもなく好きだ。
恐ろしいのに目が離せない。熱くて、真っ赤な何かが胸を満たし、恐怖心をゆっくりと塗りつぶしていく。
祭式の、あの時と同じだった。
セイゲツは自身の呼吸が荒くなっていくのを必死に抑える。
でもこれはダメ。
ジンヤオに人を殺して欲しくない....。
ジンヤオが人を殺したとしても、私は、更に彼の事を好きになってしまうだろう。でも、ジンヤオ自身はどうなる?
龍だからと言う理由で許されるかもしれない。証拠は隠蔽され、何事にもならないかもしれない。しかしわずかな可能性を考えると看過出来なかった。
「勇気、出さなきゃ....」
セイゲツは一歩、踏み出して教室に足を踏み入れる。
だが、その動きを追い越すように、黒髪の女が軽やかな足取りで教室へと踏み込んだ。
セイゲツは咄嗟の事に驚き、足を止めてしまった。
金色の瞳がジンヤオを捉える。
「おはよ、ジンヤオ」
二人を痛めつける事に集中していたジンヤオが、勢いよく振り返る。その一瞬で、ジンヤオの表情はこの場にいる誰よりも明るくなった。
「リエじゃねえか!」
胸ぐらを掴んでいた血まみれの手を離したジンヤオは、服についたゴミを払いながら立ち上がった。ゴミを払う毎にジンヤオの服に血が付き、その場の一同は顔がこわばった。
セイゲツはなぜだか胸の奥が痛む。
リエリエに笑顔を向けるジンヤオの姿を見て初めて、心に小さな棘のような怒りが刺さった。
「かなり乱暴してるね....これ、先生にどうやって言い訳するの?」
「言っとくけど、先に手出したのはそっちだぜ。龍様の大切な御神体を傷付けたからちょっと分からせてやろうと思っただけさ」
リエリエがジンヤオの右手首に目をやったので、セイゲツと一同の視線がジンヤオの右手首に移動した。
確かにジンヤオの右手首は薄ら赤く跡が付いている。しかし、それだけだ。
ここまでする事無かったんじゃないか....。
面白がっていた男子達、怯えていた女子達も多分、この瞬間だけ気持ちが一つになった。
その時、突然リエリエがクスクスと笑い始めたので、皆の視線はまたリエリエとジンヤオに戻る。
「何笑ってんだよ、リエ」
そう言ったジンヤオがリエリエに釣られて笑い始めた時でも、流石に一同は笑み一つ溢れなかった。
ひとしきり二人の笑い声が響いた後、廊下をバタバタと荒々しく駆ける音がする。
生徒一同教師が来た事に気付くと、蜘蛛の子を散らす様にそれぞれの教室へ戻って行った。
「すまん、今日は大事な事があって遅れてしまった.....こら、なにやってるんだ!お前ら、退きなさい!」
戻る野次馬をかき分け、礼学の教師がやって来る。教室の有様を見た時には叫び出しそうな勢いだったが、その後リエリエが「あたしが説明するから」と言って教師を連れてってしまった。
一年五の教室は二日程封鎖される事になり、別の臨時の教室が用意された。ほどなくしてズイリンが戻って来るが、シユは居ない様だった。
「なんだよ臨時教室って....?なんかあったのか?」
ズイリンはブツブツとぼやきながら椅子に座ったが、どこが満ち足りた表情をしていた。どうやら龍化は成功したらしい。
「ズイリン、おかえり!実は....えっと.....えっとね」
セイゲツは一瞬ジンヤオの顔を伺い、支障はなさそうだと判断すると、再び口を開いた。
「ジンヤオがちょっと....色々、やっちゃったの」
やっぱりかと言う表情をして、ズイリンは何食わぬ顔のジンヤオを呆れて見やる。
「こいつが同じ龍だと思うと恥ずかしいぜ.....。......それで、シユなんだが、龍化成功した後爺さんにどっか連れて行かれてた。夕方には戻って来るって」
「そうなんだ、なんだろうね?」
窓際に居るジンヤオが、眠そうに欠伸をした。
「あ、そうだ!ねえねえ、ズイリンとシユの龍、どんな感じだったの?」」
気分が上向いたセイゲツを見て、ズイリンは得意げに鼻を鳴らす。少し間を置いてから、意気揚々と話し始めた。
「俺はな、空色の龍だったぜ!あの曇天の日だったら空によく映えたのになーって思ったけど、爺さんとシユはベタ褒めしてたな!でもシユも凄いんだ。なんと、漆黒の黒滝!あれはマジでかっこよかった....まあ、セイゲツの次に上空に留まってたのは俺だけどな!」
自慢話は十分ほど続いたが、セイゲツは辛抱強く相づちを打っていた。授業が始まり、早々に机へ突っ伏して寝息を立てるズイリンを見て、「お疲れ様」と心の中で呟く。
とても穏やかに授業は進んだ。
板書を写しながらも、セイゲツの意識は窓の外に浮かぶ雲のかたちを追っていた。何事も起きず平和で、今朝の出来事が嘘かの様な時間だった。
夕方、皆が次々と下校して行く中。一人戻ってきたシユの姿を見るまでは、セイゲツの心は安らいでいたのだが。




