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その一方

 見張りを一瞥してから、自宅に入る。女中といつものやりとりをしながら早足で廊下を歩き、チャンフェイがいる部屋へと向かう。

 戸を開けると、筆を動かしているチャンフェイがいた。

 周囲には没作品となったものが丸められて放られている。くず籠は用意してやっているのだが、常に投げて入れるため、外れたものがこうやって散乱しているのだ。

 

「今日も待っていてくれたかい、チャンフェイ」

 

 ヒェンがそう聞いて初めてチャンフェイはこちらへ振り向いた。

 

「ん?……ああ、お疲れ様。もうそんな時間かい。」

 

「戸を開けた音くらい聞こえていてほしいね」

 

「そんな音、集中してたら気づかないさ。あれだろ?あんたは夫の帰りに気づいてほしいって言いたいんだね?」

 

 ヒェンは眉をひそめて口を噤んだ。すると、チャンフェイは嬉しそうに声を上げて笑う。

 

「あたりだね?はははは!あんたはいっつも図星をつかれるとそうさ、仕事では権力を握って色んなことを思い通りにしている男がそういう顔をすると何とも可愛らしいねぇ!」

 

 大口を開けて、大笑いするチャンフェイにヒェンは顔を背けた。

 女らしくない女だ。淑やかという言葉とは正反対の性格だ。何度も言ったからヒェンの前でしかやらなくなったが、あぐらはかくし、興味のあるものがあれば平気で木に登るし、水たまりのなかも平気で歩く。

 ヒェンはその位の名を聞けば、政治に疎い人間であっても偉い人か、と分かるくらいの地位におり、職場で誰かとすれ違えば、相手の方から頭を下げぬものなどいないほどだ。

 そんな男にこの女は初対面からこの接し方なのである。『あんたなかなかいい顔してるね!ずる賢く何年も生きながらえた妖怪みたいだね!』と彼女が言ったのを聞いて、ヒェンの付き人はぎょっとしていた。

 

「……丸めた紙はくず籠に入れろと言っただろう。それと、俺が見る前に丸めるな。高く売れるかもしれないだろう」

 

「あんたねえ、言い返すにしてもそれはないだろ?そんなの高く売れやしないさ。あんた目利きじゃないのかい?」

 

「目利きだから言ってるんだ。かいたものは全部、俺の目を通してからでなければ捨ててはならない」

 

「そォんな失敗作、目利きさんには見せたくないねぇ。こっちにも見せるに値するもの、値しないものってのがあるのさ」

 

「値するものか否かは俺が決めることだ。お、これなんかは良いぞ」

 

 ヒェンが花の絵を広げ、しわを伸ばす。

 

「えぇ……それかい?うまくいかなかったやつ……ん?もしかしてあんた、何年も前のこと覚えてるね?」

 

 チャンフェイがピンときた、と言うように指をヒェンの方へ向ける。

 付き人がこれを見ていたら目を見張っているだろう。

 

「違う。売れると言っているんだ」

 

「はァー……いや絶対にそりゃ嘘だね。あんた覚えてるだろう、ここらへんが見渡せるほどの高いところにあった花さ、無意識にこれを選んでたのには気づかなかったけど……あのときにあたしが言ったこと、覚えてるね?」

 

 ヒェンはそれに答えず、絵を懐へしまう。

 

「ちょっと!そんなもんしまうんじゃないよ!もっとうまいのを描いてみせるからそっちを持っていきな!」

 

 チャンフェイがヒェンの腕を掴む。割と力が強い。が、ヒェンにとっては簡単にいなせる程度の力だった。

 

「これからお前は俺と外に出るんだ、そんな時間はない」

 

「そんなの聞いてないよ!行くけどね!」

 

 チャンフェイはなんだかんだ言いながら出かける支度をしはじめる。

 

「おい、」

 

 道具を片付けるチャンフェイにヒェンが一声かける。

 

「なんだい?」

 

 チャンフェイはなんともない顔で振り向く。

 

「着物、そのままで行くなよ。女中を呼べ、帯を結びなおすように言うんだぞ」

 

 ヒェンは腕を組んで、言い聞かせるように言った。

 しかし、チャンフェイは面白いことを思いついた、と言わんばかりに眉を上げ、にんまりと笑う。

 

「へえ、何だい?妻の胸元が他の男に見られるのがそんなに嫌かい?」

 

 チャンフェイは胸元をちらりと見せてきた。

 ヒェンは目を見張って一歩後ずさる。刀を躱すときより速い身のこなしだった。

 

「お前!みだりに肌を晒すなと言ってるだろ!よそでもやってるんじゃないだろうな!?」

 

「俺以外には見せるな、じゃなかったかい?それとよその男にここを見られるくらいだったら舌噛んで死ぬね!」

 

「舌は噛むな!俺が殺しにいく前に死ぬなよ!」

 

「はーはっはっはっは!あんた、言うことがそれかい!いいね!やっぱあんた面白い男だねぇ!」

 

 チャンフェイは手を打って笑いながら、戸へ向かっていって女中を呼んだ。

 

「……なんだ、今日はやけに素直に言うことを聞くね」

 

 ヒェンがじとっとした目でチャンフェイを見ると、チャンフェイは可愛らしく笑う。

 

「そりゃあ、舌噛んで死ぬくらいの女だからね、殺しに行く旦那の言うことは聞くさ」

 

 チャンフェイはやってきた女中に要領よくしてほしいことを伝えると、帯を自分からほどいて腕を広げる。

 

「いつもそのくらい素直だと良い」

 

「一筋縄じゃいかない女が好きだろ?」

 

 女中に帯を手渡しながら、間髪いれずに言い返すチャンフェイから目をそらした。

 いつもこうだ。言い合いはいつも彼女の方が強い。

 気に入らない。気に入らないが、悪い気はしないのがずるいところだ。

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