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ヒェン

 今日の訓練を終えたヨウは、ホウとの話を終えて、ちょうど部屋から出るところだった。

 今日は特に聞かれてはならない話はしていないが、一応出たあとも周囲を確認する。

 廊下の曲がり角の向こうから足音が聞こえる。使用人の足音ではない。あまりに静かすぎる。

 こういう歩き方をする人物にはいくつか心当たりがあった。そして、こういう間合いに来るのは大抵奴しかいない。

 ヨウは廊下の曲がり角を睨むように見た。予想通り、奴が――リー・ヒェンが歩いてくる。

 

「おや、君か。随分と久しいな」

 

 ヒェンはさも偶然、というような口ぶりだったが、その目は老獪と言ってもいいような細められ方をした。

 上品で所作はその気品が溢れるようなものであり、頭も切れる男だ。話しかけた相手が男であろうが女であろうが、その会話の終わりにまた会う約束を取り付けられるほど口もうまく、付け入るのも息をするようにできる。

 優秀と言っていい。しかしホウ程ではない、とヨウは思っている。

 

「……前に会ったのはいつだったか思い出せませんね。あなたがここに来ることなんて滅多にありませんから」

 

 ヨウは廊下に尻尾の先を這わせた。蛇が獲物を捉えながらゆっくりと這ってくるような動きに似ている。

 

「軍事に口を出すと君の上司がうるさいからな。つつかれた蝸牛の目みたいに引っ込んでいたのさ」

 

「蝸牛?あなたが?のそのそとした動きが可愛らしい生き物と人を騙しながら千年も生きながらえているような妖を一緒にしないでください」

 

 ヒェンの方が位が上……彼は目上の人なのだが、ヨウは容赦なく思ったことをそのまま口にした。これで何かあったらホウが責任を取る羽目になるのだが、だいぶ前にホウ本人から何かあれば絶対に責任はとるし、その上でこちらに落ち度がないように勝負をつけると言われているので、本当に何も気にしないで言いたいことを言うようにしている。

 

「ふふ、相変わらずだね……俺だって千年は生きられんさ、騙しているつもりもない」

 

「そのときだけ本当のことを言っている、という屁理屈ですか。確かに変化するものもあるでしょうが、あなたの扱う事柄は変化するものが他所より多いように見えますね」

 

「全てにおいて真実を語るというのも無理な話だ。それに、真実というのも変化するものだ、それを証明するものが人の記憶なら尚更。」

 

 ヒェンはうっすらとした笑みを浮かべる。不敵に見えるそれはどこか妖しい。

 

「そうですか。真実は作れるもの、ですからね。

 あなたの二枚舌と手腕があればどんなお伽噺でも史実になるでしょうから」

 

「ふふ、あまり褒めないでくれよ。君に興味がわくじゃないか、更に」

 

「僕は嫌いです。褒めてもいない」

 

「……本当に強く思っていることは君らしい言葉で出るんだな。

 ホウの教育がどんなものかよく分かる。あいつはああ見えて身内に甘いからな」

 

 ヨウはヒェンをきつく睨んだ。確かに皮肉の言い方はホウに学んだが、こいつに何が分かるというのだろう。ホウは甘いのではなく、優しいのだ。言うことはしっかり言ってくれる思いやりが彼にはちゃんとある。妻には頭が上がらないようだが。

 

「そんなに睨むな、俺が卒倒でもしたらどうする」

 

「卒倒するような人ではないでしょう。刀の腕もあるあなたが」

 

「ここまで高い位になると戦場には出ないものでな。」

 

「ホウは出ますよ」

 

「……あいつは例外だ。全く、性格がああでなければ俺の部下にしたのに」

 

「どうであれ、あなたに扱えるような人ではないですよ」

 

 ヒェンが珍しくほんの僅かに眉をひそめたので、ヨウは内心で笑みを浮かべた。

 

「お前を御せる人間だからな、あいつは。俺の誘いを全て断るような人間を手籠めにできるような男はそうそういない。」

 

「長い付き合いですから。あとホウのことを言うようで僕をちくちく刺すのはやめてください」

 

 ヨウがため息をつくと、閉めた戸が開いて、ホウが顔を出した。

 余裕そうな顔をしているが、これはこれから喧嘩をしかけに行く顔だ。

 

「おやおや、ヒェンじゃないか。最近すれ違いもしないから、余程仕事が忙しいのかと思ったよ」

 

 ヒェンの眉が微かに上がる。いつもこうだ。どっちがしかけるかは場合によるが、大抵売られた喧嘩は受け流さずに買うのがこの二人だ。

 

「そちらもなかなか忙しいようで。最近ここから抜け出しているみたいだが、二人目の妻でも見つけたか?」

 

「私は大勢の妻を相手することができるほど器用じゃないからねぇ。君と同じで」

 

「そこに関しては気が合うな。俺も多くの女に囲まれるのは好かない質でな。そこまで時間が余っているわけではないしな」

 

「そこに関しては私も同感だ。しかし鳥のように籠に入れて自由を奪う趣味はない。芸術に秀でた者を閉じ込めるのはお勧めしないぞ?入ってくるものがなければ出すことはできないからねぇ」

 

「鳥籠の掃除は頻繁にしている。それよりも、いつもは煩い口が家では静か、という方が大変興味深いがな。

 しっかりした女というのは良いものだ。百戦錬磨の男すら負かす力があるようだからなぁ?」

 

「しっかりした強い者というのは好ましい、そこに関しては私も頷こう。しかしそれ故に手綱を握れていないのはお互い様なんじゃぁないのかな?」

 

 永遠に続く言い合いに挟まれたヨウの目はだんだんと呆れたようなものになっていった。こうなると小一時間続くのだ。

 ホウが言われっぱなしにならず、絶対に言い返すというのは学生時代から変わらないことなので、どちらかとうとヒェンに折れてほしい。

 そもそもヒェンは何をしにここに来たのだろう。わざわざ口喧嘩をするためにここまで足を運ぶほど暇ではないはずだ。

 

「……ところで、あなたは何をしにここへ?ホウに用事があったからここに来たのでは?」

 

 ホウが言い返した後、間髪入れずヒェンに声をかける。

 ヒェンは一瞬だけこちらを軽く睨んでから、普段どおりの余裕綽々といった表情になった。

 

「いや、風の噂でお前の様子が変わったと聞いてな。本当かどうか見に来てやったんだ。

 ……相変わらず、といったところか?態度は前から変わらんな」

 

 ヒェンが目を細め、こちらをじろりと見た。ヨウは平然とした目でヒェンを見つめ返す。

 

「変わりません。変わったといえば、刀の腕前くらいでしょうか」

 

「これ以上強くなられると困る。お前、影で一国を滅ぼす力を持っている、等と噂されているんだぞ?」

 

「そんな残酷なことはできません。相手が何かしてこない限りは」

 

「……そうか。いやぁ、実に惜しいな。俺の元で働けば良かったのにな」

 

「それは本当に嫌です」

 

「……ふふ、相変わらずだな」

 

 ヒェンはそこまで言うと軽やかな足取りで廊下を歩いていった。突然来て、風のように去っていく。油断ならぬ男なのに、所作は美しい。

 

「一体、何をしにきたんだか」

 

 ヨウはヒェンが去ったあとの廊下をひと睨みし、ため息をついた。

 

「多分君がリーメイと結婚したのに勘づいたな。あいつには詳細が分からないようにしたんだが、まあ……気づくのは時間の問題だったから……」

 

「お前がそうして気づかれるなら仕方ない。」

 

「あいつ、性格はどうあれ優秀な人間だからなぁ。はあ、性格さえ良ければ私も手元に置きたい人材なんだが……」

 

「お前はいつもそれだな……」

 

 ため息をつくホウにヨウは苦笑いを浮かべる。優秀な人材を見つけると勧誘したくなるのは良い目を持ったゆえなのだろうか。

 

「周りがまだ気づいてない優秀な人材を素早く勧誘するのは私の特技だからね。

 それはそれとして、君の方も気をつけた方がいい。リーメイになにかあるかもしれないからな」

 

 何が狙いかは分からないが、もしかしたらリーメイに接触するかもしれない。ヒェンがこちらの結婚に気づけば、そういう可能性があるのは当然のことだ。

 ホウの真剣な眼差しにヨウはしっかりと頷く。

 

「……分かった。リーメイにも言っておく」

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