第一話 勇者、村に帰る
村の朝は、いつも同じだ。
鳥のさえずり、牛の鳴き声、薪を割る音。
澄んだ空気と、ほんの少し湿った土の匂い。
私はその中で、鍬を振るっていた。
土を耕し、種をまき、水をやる――それが私、ミナの日常。
世界が救われても、村は変わらない。
魔王が倒されたあの日も、私は畑で土をいじっていた。
英雄たちが命懸けで戦っている間、私はただ無事を祈っていただけだ。
その英雄の中に、幼なじみのライルがいた。
隣の家で育った、笑顔が似合う少年。
木登りが得意で、時々は私のぶんまで林檎を取ってくれた。
でも、五年前に王都へ旅立ち、勇者に選ばれ、そして魔王討伐に向かった。
もう会えないと思っていた。
だって、彼はもう私とは違う世界の人。
国中の女性が憧れる勇者なんだから。
――だから、その日、村の入り口がざわついていると聞いた時も、まさかとは思わなかった。
「ミナ! 大変よ! 勇者様が……!」
畑の向こうから、隣のおばさんが息を切らせて駆けてくる。
勇者様? この辺りに来る理由なんてあるのだろうか。
魔物もいなくなった平和な村だ。用事があるはずがない。
けれど胸の奥がざわめいた。
頭では否定しても、心は勝手に走り出す。
「村の入り口で……勇者様が……! あんたを探してるのよ!」
――え?
鍬を放り出し、私は駆け出していた。
村の入り口は人だかりになっていた。
皆が笑顔で、少し興奮気味に前を見ている。
その視線の先に、金色の光が揺れた。
……いや、それは光じゃない。
陽の光を受けて輝く、黄金色の瞳だった。
彼がそこに立っていた。
旅の鎧ではなく、軽い布の服に腰剣だけ。
背は昔より高く、肩幅も広がっている。
日に焼けた肌に、凛とした雰囲気。
でも、笑った顔だけは、あの頃と変わらなかった。
「……ライル?」
私が呟くと、彼は迷いなく歩み寄ってきた。
一歩ごとに、私の心臓の鼓動が早くなる。
人垣が自然に開き、彼はまっすぐ私の前に立った。
「迎えに来た、ミナ」
黄金色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。
冗談ではないと、すぐにわかった。
背筋が熱くなる。
村人たちの視線が突き刺さる中、私は固まった。
「……迎えに?」
「そうだ。お前を――俺の嫁にするために」
瞬間、村人全員がどよめいた。
おばさんたちは口元を押さえ、子どもたちは目を丸くしている。
私はというと、頭の中が真っ白になっていた。
嫁?
この私が?
世界を救った勇者の?
「ちょ、ちょっと待って。何言って――」
「五年待った。これ以上は待てない」
ライルの声は、優しいのに、抗えないほど強かった。
その距離が近すぎて、息が詰まりそうになる。
懐かしい匂いと、旅人らしい革の匂いが混ざっている。
あぁ、夢じゃないんだ……。
「お前が嫌だと言っても、俺は諦めない」
周囲の視線も、場のざわめきも、何もかも消えた。
ただ、彼の瞳と声だけが、私の世界になった。
――あの日、彼は世界を救った。
そして今日、私の心を一瞬で攫っていった。
でも、こんな急な話、受け入れられるわけがない。
……はずなのに、心のどこかが震えている。
「……ライル、私――」
その言葉を最後まで言う前に、彼の手が私の手を包み込んだ。
大きくて、温かい手。
幼い頃よりもずっと力強くなっている。
「行こう、ミナ。お前の席は、俺の隣だ」
まるで当然のことのように、彼はそう言った。
私の運命が、音を立てて動き出した瞬間だった。