我こそはキューピッド ~敏腕・冷血の宰相補佐が、誰でも恋させる『キューピッドの弓矢』を手に入れたらそのへんの薬師と結婚することになった話~
美形の侯爵令息、クロードは苛立っていた。
「キューピッド? 君がそうだというのかね?」
眼鏡のフレームをくいと上げる。
周囲は、真っ白な空間。若干24才にして敏腕宰相補佐でならすクロード自身、そして縮こまっている子供がいるだけだ。
先ほどまで王城の執務室にいたのに。
(……子供?)
そう、子供だ。明らかに子供だが、白い服を着ていて、背中には羽。ハートっぽいデザインの弓を持ち、矢筒も提げている。
クロードは警戒を緩めず、男児に怜悧な視線を注ぎ続けた。
「は、はいぃ、その通りですぅ……あの、怖いのであまり無表情で睨まないでいただけると」
クロードは容姿端麗な、黒髪の青年。
微笑めば令嬢が頬を染める一方、無表情だととても怖い。普段は仮面のように愛想笑いを浮かべるが、今はそんな配慮をあえて無視した。
「どうして私をここに呼び出した?」
純白の空間を観測しても、場所も、時刻も見当がつかない。真っ昼間に王城の執務室から宰相補佐がさらわれたとあっては、一大事だ。
なのに、目の前の子供はまるで説明が下手である。時間を惜しむ敏腕宰相補佐は、見下すように腕を組んだ。
「はい、ええと……」
背中の羽がピコピコ動き、少年はふわりと浮かんだ。
「まず、ご心配なく、あなたはお城からさらわれたわけではありません。周りも変に思っていません。ちょっと時間を止めて、あなたの心に直接働きかけているのです」
「ふむ――ここは私の心の中、精神世界というわけか」
「理解が超速で助かります」
「無駄は嫌いだ。それで?」
「は、はい……僕は、申し上げたように天使です」
クロードはじろりと眼鏡越しに見つめる。
「天使?」
「は、はいぃ……! 神様の使いです。あなたに贈り物とメッセージをお届けに参りました」
「贈り物? ――っ! 贈り物かっ」
「本当は、10才の頃に贈られるものなのですが、あなたには手違いで贈られなかったのです」
眼鏡を外し、目元を揉んだ。
「10才前後には、ほとんどの子供が神から才能や物品をもらう。それが贈り物だ。剣術の才、医薬の才――私には何もなく、ずいぶん苦労したものだが」
軍人の家系だったが、一切の贈り物がなく、勉学に励むしかなかった。もちろん、勉学に向いた贈り物もあり、彼ら彼女らとは変わらずハンデがある。
それでも努力した。
昼も夜も励み、災害復興や医療施策で功を上げ、今では若くして次期宰相候補の筆頭である。
「今更ですが」
「本っ当に今更だな!? 24歳で贈り物をもらっても、キャリアの変更など難しいだろうに」
大貴族の進路は、当然ながら政治に影響を与える。侯爵家のクロードが15の成人から10年近くも経って進路を変えるのはほぼ無理だ。
「まぁいい」
クロードは眼鏡をかけ直す。
精神世界に日光などないはずなのに、レンズが真っ白に光る。
「こういう場合、『利息』がつくのが相当ではないかな? 10年以上、本来の時期から待たせた以上、なにか特典のようなものが?」
「は、はい! クロード様には、贈り物を選んでもらえます!」
「ほう……確かに、贈り物は神の意思、つまりランダムと聞く。こちらの要望を聞いてくれるわけか」
天使はどこからか巻物を取り出す。
与えられる贈り物の目録のようだ。
しかし、一通り目を通しても、とりわけ魅力的なものはない。
「ふむ……これだけか?」
「ええ!? 魔法の才能とか、剣聖とか、いいの入れたんですけど!」
「次期宰相が強くなってどうする。毒殺されない力とか、政敵の弱みを握る力とか、なにかあるだろう」
「…………そういう、ピンポイント仕様はちょっと。これ以外に僕が追加できる力でいうと――そもそも、僕、キューピッドなので。あ、逆に女性に人気が出る力は? 社交界に君臨できますよ」
「要らない。社交は女性のものだし、私はいずれ政略結婚する。不用意な浮き名はリスクだ」
「そうですかぁ」
「むっ!?」
クロードは、天使の右腕をがしっと掴んだ。
「わ、わわ!? なんですか!?」
「伝承によれば――その手にあるものは?」
「これは、僕の力で……この『キューピッドの弓矢』で射ると、その人に恋をさせることができます」
「――ほう?」
「こ、恋するのは『射られた人』で、別にあなたが幸せになる力ではないのですけど……」
「誰と誰に恋をさせるかは、選べるのか?」
「ある程度は」
「――! 素晴らしいっ」
「ええ!?」
クロードは眼鏡を上げた。
「不倫・不貞は、政敵を強請る絶好のタネだ」
『キューピッドの弓矢』で政敵を射れば、不倫、不貞、婚約破棄を起こさせ、醜聞を創り出せるかも知れない。
弱み、握り放題。宮廷の出世で、ゴシップを操れるほど強いことはない。
高位貴族の婚約破棄で、条約や事業が白紙になったのを敏腕の文官として何度も目にしてきた。
「クズ! クズだ!? 神様、この人に力をあげちゃダメです! クズですよぉおおおお!!」
「ふふ、逃がさないぞ? 私が選ぶ力は、この『キューピッドの弓矢』である!」
クロードは高笑いしながら、贈り物を選び取った。
◆
翌日の朝早く、クロードはキューピッドを連れて王都近郊の森へやってきた。
「力を練習するならここがいい」
「なんで僕まで……」
ちなみに、今はキューピッドは羽を消し、上等なズボンとシャツ姿となっている。金髪に、サファイアのような緑目とあいまって、育ちのよい美少年といった容姿だ。
クロードはくいと眼鏡をあげる。
「同意しただろう? 私が慣れるまで、力をレクチャーしてくれると」
クロードが念じると、手にハートがあしらわれた弓と矢が現れた。
「ここは我が家の敷地内だ。武術や魔法の練習に活用させてもらっている。弓矢を飛ばしても、危険を感じるのは獣くらいだ」
親友にしか知らせていない場所なので、誰かが尋ねてくることもあるまい。
言いながら、クロードは手に入れた『キューピッドの弓矢』を検分する。
(やはり、妙なデザイン以外は普通の弓矢だな……本当に力があるかどうかは、実際に使ってみないとわからない、か)
もし不都合があったならば、このキューピッドを問い詰めないといけない。そのため、去ろうとしたキューピッドを丸め込み、しばらく屋敷で面倒をみることにしたのだ。
「この醜聞作成器だが」
「……!? なんですその名前!」
「私の力だ。好きに呼んでいいだろう?」
「ダメですよ!? しかもカッコいいと思ってるんですか!?」
うるさいなと思いながら、クロードは弓に矢を番え、魔法練習用の的を狙う。木に鉄板を吊してあるのだ。
眼鏡をかけた美男が、真面目な顔でハート型の弓を構える奇妙な図になった。
「はっ!」
「おー、見事」
矢はきれいに鉄板を打ち抜き、森に消えた。
途端、
「う”っ!」
短い呻きと、バタンと何かが倒れる音。
「鹿かな?」
風が木々を揺らした。
――静かだった。
クロードの額を汗が伝い、キューピッドは口を結んで何も言わなかった。
2人はがさがさと森へ入り、少し進んだところで、人が仰向けに倒れているのを見付けた。若い娘で、手にはカゴ、周囲には薬草が散乱している。
整った顔だちをよく手入れされた茶髪が飾り、やや薄すぎる唇が少しはかなげな印象だった。
「本当に、人に当てていたのか」
さすがのクロードも青くなり、少女の肩を抱く。
右肩に『キューピッドの矢』が刺さっているのに気づいて目眩がしたが、よく見ると矢は先端が吸盤状になっていた。怪我はなさそうである。矢はだんだんと薄くなり、少女に吸い込まれるようにすうっと消えてしまった。
「……よかった」
「いや本当に」
キューピッドと胸をなで下ろす。
(おや……)
どこか見覚えがあるが、クロードの記憶力でも名前は出てこない。夜会か、王城ですれ違ったくらいだろうか。
少女の長いまつげがピクリとする。
「あ、クロード様! この方、キューピッドの矢に射られてますので、最初に見た人を好きになっちゃいますよ!」
「!」
クロードは慌てて身を隠す。
矢に射られてしばらくは、ものすごく一目惚れしやすくなるようだ。効果が治まるまで、隠れているしかない。
(事故とはいえ、この少女の一生を歪めてしまうところだった……!)
物陰でキューピッドと2人で身を寄せ合っていると、森の、射撃練習をしていた方から足音と声がする。
「クロード! どうした、ここにもいないのか?」
「殿下……!」
親しくしている、王国のユリウス第三王子だった。
赤髪の、快活な美男子。令嬢にもファンが非常に多く、王族でありながらまだ決まった婚約者がいないことがそれに拍車をかけていた。
クロードの政治的な後ろ盾でもあり、早く結婚してほしい。
「あ、クロード様!」
キューピッドが指差す先で、少女が目を覚ます。
少女とユリウスが向かい合った。
「なんてことだ……!」
薬師の少女は頬を染めて、完全にユリウスに一目惚れしているようだった。
「す、す、好きで……!」
ぱくぱくと口を開いて、頬を押さえながら首を振る。やがて声を殺すように俯きながら駆け去った。後にはカゴと散乱する薬草が残っていた。
◆
面倒ごとを避けようと思い、クロードはそのまま隠れていた。そのため、第三王子ユリウスもじきに帰った。手には木剣を持っていたから、おそらく手合わせにやってきたのだろう。クロードの居所は、家の者から聞き出したに違いない。
翌日の執務室で、クロードは椅子に腰を落とす。足を組み、眼鏡のフレームを叩いた。
「効果は確かめられたが、厄介なことになった……」
第三王子とクロードは、とあるトラブルで知り合った幼なじみだ。王子は、クロードが軍人を目指した経緯も、その後の挫折、努力も知っている。
気の置けない人物だが、キューピッドの力を話せるほどではない。
すでに少女の正体も掴んでいた。
ミーティア伯爵の長女、リリス。薬学才の贈り物を受け、伯爵令嬢ながら医薬に通じた好人物だ。父親は王城にも出入りする医薬の大家で、勲章の授与式にクロードも同席したことがある。
「あの場には貴族の所有地も多い。まさかとは思っていたが、貴族令嬢だったか……」
春先の今、令嬢は研究と趣味を兼ねてあちこちの野山にゆき、プツプツ薬草を摘んで帰るらしい。行動が完全にそのへんの薬師だ。
魔法練習場には、危険防止のため柵はあったものの、そもそもの敷地が広大だ。境界は森であり、調べてみると倒木で柵の一部がなくなっていた。令嬢は、私有地に迷い込んだのに気づかなかった可能性がある。
キューピッドは執務室の端に座り、ストローでブドウジュースを飲んでいる。
「令嬢さん、お仕事を休んでいるようですね」
「……おそらく、殿下に告白しかかった影響か」
「かもですねぇ」
クロードは腕を組んだ。
「伯爵令嬢とはいえ、王族に求婚できるほどの爵位ではない。突然湧いた恋愛感情に混乱し、家で休む――ある意味で当然の対応だな。むしろ思いを告げるのをよく留まった」
「変ですねぇ。でも『キューピッドの矢』で射られたら、告白を我慢できないはずなんですが」
2人でため息をつきあう。美少年と、怜悧な美貌の男が悩ましげに顔を突きあわせているわけだが、失態を反省しているだけである。
「自然に治らないのか?」
「数年かければ」
「それじゃ普通の失恋と変わらん。可能な限り、彼女の負担がない形にしたい」
軍人を諦めた今、内政面、外交面で人の暮らしを守りたい。
政敵をちょっと邪魔したり、裏切らせたりしてきたが、それでも信念はまっとうである。たぶん。
「2本目の矢を撃つとどうなる? 効果が上書きされたり――」
「2本目を撃つと、アナフィラキシーショックで死にますね」
「アナ……なんだそれは」
眉間に皺が寄ったところで、ドアがノックされ先触れがやってくる。
来客は断りたかったが、そうもいかない相手だった。
「よう」
「久しぶりですな、殿下」
入ってきたのは赤髪の美男子、第三王子ユリウス。
親しみやすい微笑を浮かべているが、休憩時間、そして悩みもあって、クロードは少し固い対応となってしまう。
「至急のご用で?」
『昨日はどうも』などとは言わない。森では、クロードは隠れていた。
「いや、挨拶だ。魔物退治の遠征から帰ってきたから、君の顔が見たくてな。昨日も屋敷に行ったんだぞ? あの練習場、まだ使っていたのだな」
思い出話をしていると、ふとユリウスは整った眉を上げた。
「そういえば、昨日といえばだ! 驚いたぞ? 君の家の敷地に、あの子が迷い込んでいた」
「……あの子?」
「まだ薬草を摘んでいるんだな。君が昔助けた――ええと、なんていったか」
少し記憶が刺激されたが、胸がざわつくばかりでうまく言葉にならない。
クロードにしては、思い出せないとは珍しい。そのうちユリウスは肩をすくめた。
「ふふ、まぁ気にするな。俺も忙しくてな、今日はこれで失礼する。また手合わせでもやろうぜ」
片手を上げて、ユリウスは部屋を後にした。
隠れていたキューピッドが、ひょいと顔を出す。
「どうしましょう」
「ううむ、いずれにしろ、彼女の病状を探らねばならないな……1つ、頼まれてくれるか」
◆
「いやぁ、なんで僕が……」
そう呟くのは、怪しいローブに身を包んだキューピッドだった。
令嬢の住まいに近い草むらで、身を潜めている。怪しいことこの上ない。
「リリスさんに近づいて、容態を調べるなんて……」
とはいえ、とキューピッドは思う。クロードの推論にも一理ある。
件の令嬢は18才の身でありながら、婚約者は決まっていない。表向きは、薬師としての修行や仕事を優先させる家の方針となっている。しかし、実は秘めた婚約者や想い人がいるのではないか。
ならばその婚約者や、思い人との仲が進展すれば、ユリウスへの恋心が解けるかもしれない。
(普通、キューピッドの矢が刺さったら、恋心を我慢できません。でも、彼女は告白をしませんでしたし、他に好きな人がいるのかも……?)
本来の恋心を思い出せば、一目ぼれの効果は解ける。
天使の間では、『矢が抜ける』と言われていた。
令嬢にとっては迷惑な話だが、魔法の練習場をうろついていた彼女にも非はある。
(でも、彼女はどうしてあんな場所を……?)
キューピッドが首を傾げると、ふいに前の道を令嬢リリスが通りかかった。
草むらから大慌てで念じる。
――聞こえていますか、悩める人。
「だ、誰ですか!?」
――あなたの心に、直接に語りかけています。恋愛についてお悩みでは?
リリスはさすがに怪しんだが、周囲を見回した後、おずおずと肯く。
「は、はい……!」
実は、と切り出すリリス。
「先日、薬草の群生地を見つけて、摘んでいる内に他家の敷地に迷い込んだようでした。すぐに帰ればよかったのですけど……そのうち魔法かなにかの練習場に迷い込んでしまい――」
リリスは俯いた。
「申し訳ありません、よく覚えていないのです。けど、なにかの魔法のせいか、急に気絶を。そのすぐあと、ある殿方と会ってしまい、しかもそのお顔を見たときに、どうしてか、どうしてか、胸が高鳴ってしまいまして……!」
――なるほど。そのお方が忘れられない?
「実は、そうではないのです。わたし、以前より別のお方を……勝手ながらお慕いしていて。魔法の練習場も、そのお方の敷地でした。だから、すぐに去れなかったんだと思います」
『もしかしたら会えるかも……』そんな気持ちが、立ち去りがたくさせたのかもしれない。
貴族子女の恋愛は家同士が決めることで、婚約対象でない相手と会う機会は限られる。偶然を利用しようとしたならば、意外と強かだ。
「でもわたし、勝手に入ってしまったうえ、しかも急に別の方を好きになるなんて……もう、何重にもわからなくて恥ずかしくて」
うん?とキューピッドは思った。
(あれ? この話のとおりだとすると……?)
「心を整理するため、家に閉じこもっておりました」
――ちょ、ちょっと待って下さい!? あなたが好いていた方というのは……。
「文官として働いていらっしゃる、クロード様、です……!」
真っ赤になって俯くリリスに、キューピッドこそ悲鳴をあげそうになった。
◆
「あなた、いったい何をやってあんな優しそうな人に好かれたんです?」
「人聞きの悪い……」
執務室で眼鏡を押し上げるクロードもまた、完全に思い出していた。
年下のリリスは、クロードが一時期軍人を目指した理由である。当時12才だったクロードは、王家の辺境視察に帯同したときに、第三王子と共に森へ入る。
抜け出す王子を追いかけた格好だったが、夏の冒険は、子供には魅力でもあった。そこで小さな女の子が魔物に襲われていたのに気づき、王子と2人で助け出す。
その時の苦戦が、軍人を目指すことに繋がった。
ただし、贈り物がもらえずに、15才を機に軍人から文官に転向することになる。
(あの少女、リリスという名前だったのか……)
クロードとしては、当時、なんとか助けられた令嬢という認識で、家名までは知らなかった。王子ユリウスは、宮廷医の父を通じて、かつての縁を知ったのだろう。
キューピッドは机に身を乗り出した。
「王城にあがるようになって、当時助けてくれた殿方が宰相候補として頑張っているのを知ったようです。父親の叙勲式でお会いしてから、恋心が再燃したようですね……!」
目を輝かせる美少年。どうやら、このような色恋沙汰が大好きらしい。
天職だろう。
「つまり、あなたから彼女に告白すれば、彼女も幸せ、あなたも幸せ、ついでにキューピッドの矢の効果も解けるじゃありませんか! もうこれはやるしかないですよ!」
「しかし、互いの家柄が……」
「宮廷医の伯爵家ですよ!」
「うう、ギリOKの範囲か……! 宮廷医と懇意になれば、病状を通じて色々な情報の入手が……いや、しかし」
元来の慎重さと、誠実さが災いしていた。
(このようなきっかけで、令嬢の一生を左右していいのか……?)
答えが出ない。根が堅物のクロードには難問だった。
(無論、政略としては王家、宰相家と縁づくのが最良だが……彼女の父ミーティア伯爵は博学、多才で、大臣に取り立てられる目もある。これは案外、両家にとって先のある縁談か……?)
予定表を見れば、第三王子ユリウスに宮廷医の面会予定が何度か入っている。もしリリスが王城にもどれば、遠からず薬師としてユリウスと顔を合わせるに違いない。
これ以上の状況悪化は、避けたい。
「時間がない、か」
クロードは、令嬢リリスが置いていったカゴにちらりと目をやった。
◆
翌日、クロードはちょっとだけ策略を巡らせた。
常の悪だくみに比べると、他愛ないものである。
まず、リリスに野外調査が割り振られるよう手を回し、彼女の王城出仕を2週間ほど後倒しにさせた。これはユリウスとの顔合わせを避けるため。
そしてリリスの家へ手紙を送る。内容は、まず彼女が敷地に迷い込んでいたことに気づいた旨、そしてカゴを忘れていったこと、体調不良が当家で何らかの『事故』に遭われたせいか危惧していること――。
特に容体について、侯爵家として気を揉んでいると匂わせる。
狙いは当たり、見舞と詫びを装って、クロードは自然とリリスに会うことができた。
(性格の相性もあるだろう)
政略上の利点があっても、無理な結婚はそれこそ醜聞が起きかねない。
しかし話してみて驚いたのは、意外なほど彼女との時間を心地よく感じたこと。執務に追われていても、ふと彼女との時間を思い出す。
キューピッドがニヤニヤしていたが気にしない。
次に、例によって裏から采配し、伯爵家が使う馬車の御者に休みをとらせた。伯爵家は快く認めたが、王城住み込みの宮廷医、伯爵本人はよいものの、リリスが王城に出仕する馬車がなくなってしまう。
そのため、クロードがトラブルの詫びとして馬車で送ることを申し出た。
「本当にありがとうございます」
同じ馬車に揺られながら、リリスは微笑んだ。
眼鏡の奥で、クロードもまた目を細める。
「……改めて、すみません。勝手にお屋敷の敷地に迷い込んだわたしが悪いのに、馬車までお借りして……」
「お気になさらず。こちらも、深く森に入る人はさすがに想定していませんでした」
馬車は軽快に町並みを進む。車輪の音が、こんなに心地よいのはなぜだろうか。
クロードは、気づかれないように少しだけ膝で拳を作り、背筋を伸ばす。
「覚えていますか? 私達は、大昔に一度だけ会っています」
「……覚えて、くださっていたのですね」
リリスは柔らかく微笑んだ。
「あの出来事で、一度は強い軍人を目指しました。が、あいにく贈り物に恵まれず、今はしがない文官です」
「ご立派なことだと思います。毎日、とても働いていらっしゃるのを目にしていますもの。わたしも、人の役に立とうと思って父に薬学を習ったのです」
どちらともなく笑った。
「――不思議なものです。10年前に会っていたのに、こうして話をし、名前を聞くのにこんなにかかった」
その時、外が騒がしくなる。
クロードが眼鏡を直して見ると、どうやら泥棒との捕り物のようだ。盗人は馬まで取ったらしく、兵士はなかなか追いつけていない。
「荒事のようです。少し、顔を伏せていただけますか?」
リリスは少し変な顔をしたが、言われたとおりにしてくれる。
「醜聞作成器――」
短く唱えて、矢を番え、まっすぐに射る。練習は続けていたので、キューピッドの矢は盗賊の肩に刺さった。
「う、うお――? な、なんだこの気持ちは……!?」
顔を真っ赤にして、追ってくる兵士に盗人は抱きつく。
(こうした方面に使った方がいいかもしれないな)
恋愛について知った今は、そう思う。政敵相手とはいえ、色恋はどう転ぶか予測がつかない。それを今回思い知った。
「解決したようです」
「――すごい。魔法ですか?」
「そんなところです。少々、風変わりなものですが」
キューピッドの矢を、こんな大の男が持っているなんて、口が裂けても言えない。
令嬢はクスクスと笑った。
「まぁ……」
馬車は順調に進む。
王城に辿り着くと、彼女の目が吸い寄せられた。
「ユリウス殿下……」
車止めのところに、なぜか第三王子ユリウスが立っていた。
矢の効果がまだ押さえられているうちに、クロードは話を進めることにする。
そちらを見つめるリリスの目に、恋心の残滓を感じて、胸がちくりとしたことだし。
「ミーティア伯爵令嬢」
リリスは、クロードの方へ目をむける。
「これまで近くに住んでいながら、話すことはできませんでした。しかし、どうでしょう? 今後は――」
友人として――そう言いかけて、口ごもる。
「恋人として話すことはできないだろうか?」
あ、と口があえいだ。
反射的にキューピッドを探す。あの美少年が、自分を射抜いたと思ったのだ。
しかし動く馬車の窓からクロードを射るなどまず無理だろう。
リリスは青い目を潤ませた。
「クロード様?」
「も、申し訳ない! 驚かせたっ」
自分は何を言っているのだろう。
(本当に、本当の失言だぞ……!?)
口が思うように動かず、クロードは必要もないのに眼鏡を直す。
ふぅん、とリリスは頬を染め、蕾が開くように笑った。
「きっかけって不思議なものですね」
おそらくリリスは、10年前に魔物に襲われたことと、今回侯爵家の敷地で倒れたことを言っているのだろう。
しかし、クロードはもちろん、キューピッドの矢のことを思った。
そして観念した。
「こ、このような『きっかけ』では、少し悔いが残るかな」
「ふふ、いいえ? 覚悟してくださいね?」
「ほう?」
「きっかけは何でも、気持ちを決めたのはわたし自身ですもの」
青い目をきらめかせる彼女に、クロードは『これは敵わないかもしれない』と思った。彼女もまた、クロードがなにかの策を弄したことを察し、そしてそれを問わない強かさを持った人物だったのだ。
1年後、侯爵家と伯爵家の間で、縁談が発表される。
片方が人生を内政に、もう片方が薬学に捧げたといわれるほど仕事に邁進していたので、その婚約は大勢を驚かせた。
クロードとリリスの婚約に、驚かなかったのは、たった2人。
その1人、ユリウス第三王子は『前から怪しかった』とうそぶく。彼は敷地内でリリスを見かけてから、2人の隠れた逢瀬を疑い、そのため車止めまで冷やかしにやってきたらしい。
いい性格だ、とクロードは思う。
もう1人は思いのほか長くクロードの家に居座ったキューピッド。
「ふん。結局、私が恋人を射止める結果になったな」
ある日、そうぼやくクロードに、キューピッドは胸を張った。
「僕こそがキューピッドですからね!」
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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