表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

大正愛妻ロマンティカ ~坊ちゃん旦那とあやかし女中嫁~

作者: 来栖千依

 小春こはるがその縁談を聞いたのは、いつも通り台所で朝餉の準備をしていた時だった。

 大屋敷なので大勢の女中がいるが、結婚の報告をしたのは二十歳の小春より三つ若いさちだったので、うらやましい気持ちがはやった。

 菜箸を落とした小春の横で、さちは幸せそうに身をよじる。


「向こうさんがあたしを見初めてくれたんです。日本橋に店を出してるお家の跡取りだって奥様がおっしゃっていました」

「大店だねえ。いずれは女将じゃないの。よかったね」


 女中頭のカネが祝うのを横目に、小春は菜箸を拾い上げた。


(おさちちゃんは美人だもの。当然いいところから縁談も来るわよね)


 さちは艶めいた黒髪と品のいい瓜実顔の持ち主だ。

 対して、小春の髪は茶殻色。目はどんぐりのように丸く、頬はほんのり赤い。

 こんな子どもみたいな顔立ちでは、そして、あの秘密があるかぎり、結婚は難しい……。


 考えている間に手を動かさなければ。

 小春が作業に戻ってすぐ、のれんを手でよけて美しい女性が入ってきた。


「みんな、口より手を動かしてくれるかしら。主人がおなかを空かせていてよ」


 くすくす笑いながら女中を注意したのは、この屋敷の奥方だった。

 数多の名陰陽師を輩出してきた倉橋は、帝の覚えもめでたい名家である。


 屋敷も広ければ使用人も多い。

 奥方の肩かけに添えた手が白くすべらかなのは家事をする必要がないからだが、彼女はいばったりしないので女中に人気があった。


 奥方は、縁談に浮かれているさちのそばで懸命に領している小春を見て、困り顔で肩を下げた。


「おさちの行き先はこれで片付きそうだから、次は小春ね。今にちゃんとした縁談を用意するから待っていてちょうだい」

「いいんです、奥様」


 腰に下げた手ぬぐいで手をぬぐって、小春は首を振った。


「倉橋のおうちに置いてもらって、仕事まで与えてもらって感謝しています。ここで死ぬまで使ってもらえたら結婚しなくても生きていけます」

「そうは言っても、この時代に女独り身というのはねえ……」


 考え込む奥方に、事情を知るカネが「そういえば」と話を向けた。


「聞きましたよ。もうすぐ坊ちゃんが帰ってくるんですね」

(坊ちゃんが?)


 倉橋家の一人息子・暁臣あきおみが陰陽寮の宿舎に移ったのは、もう十年も前になる。

 幼い頃からこの屋敷にいた小春にとって、暁臣は弟のようだった。優しくて、甘えん坊で、小春を大好きでいてくれた。


 可愛らしい男の子の面影が強くて、十七歳になった暁臣は想像できない。


「陰陽寮の推薦で帝大に入ることになってね。実家で過ごしたいというものだから」


 奥方は嬉しそうだ。大事な息子を可愛がりたくてしょうがないに違いない。


(私も、久々に坊ちゃんが見られるのが楽しみ)


 小春が口元だけで笑うと、目ざとく見つけたさちが寄ってきた。


「あたしは坊ちゃんを見たことがないんだけど。いい男なの?」

「十年前の姿しか知らないけど、可愛い男の子だったよ」

「ふうん。でも、倉橋の息子じゃあ女中に興味はなさそう」


 さちは残念そうに言って、にんまりと唇を引いた。


「小春ちゃんにもいい縁談が来るといいわね」


 その声色には、ほんのりと見下しの色がある。

 気づかない小春ではないが、あいまいに笑っておいた。


「ありがとう、おさちちゃん」


 ◇ ◇ ◇


 倉橋家には膨大な妖力を持って生まれた天才が現れる。

 坊ちゃんこと暁臣がそうだった。


 幼い頃から才能を発揮し、妖怪を見ることの多かった彼の欠点が怖がりである。

 怖い怖いと泣く暁臣を抱きしめて、励ますのが小春の役目だった。


『ねえや、ずっと一緒にいてくれる?』


 涙でうるんだ目で見上げられると胸がきゅんとした。

 小春は手を伸ばして小さな頭を撫でる。


『もちろんです、坊ちゃん。小春は坊ちゃんのおそばにずっといます』


 ◇ ◇ ◇


 たすきがけをした女中たちが廊下に群れていた。


「あれが坊ちゃんの暁臣様なのね」

「色男だったわ!」


 きゃいきゃいと騒ぐ彼女たちの後ろに立った小春は、ゴホンと咳をする。


「通してください。掃除に戻らないと使用人頭に怒られますよ」

「そうだった!」


 女中はくすくす笑いながら持ち場に戻っていく。

 ねばるように隙間に張り付いていたさちも、後ろ髪を引かれながら去っていった。


 小春は廊下に正座して、湯呑をのせた盆を置き、襖を開けた。


「失礼します。お茶をお持ちしました」

「ありがとう、小春」


 あたたかな声をかけてくれたのは、倉橋の当主である暁臣の父。

 白いものの混じった髪と髭が似合うおっとりした紳士である。

 以前は陰陽師として活躍していたそうだが、もらい婿としてこの家に入ってからは一線を退き、華族として陰陽寮の後援に当たっている。


 主人のとなりには奥方が座り、にこにこと小春に視線を送る。


 その向かいに座った青年の凛々しい横顔に、小春はにわかに緊張した。


(この美しい方が、あの坊ちゃん?)


 信じられなかった。

 ぴんと張った弦のようにまっすぐに伸びた背も、陰陽寮の一員であることをあらわす黒い洋装も、さらりと毛先が軽い黒髪も見覚えがない。


 鼓動を落ち着かせながら、主人、奥方、暁臣の順にお茶を出す。

 暁臣のまえに茶托を置いた瞬間、視線を上げた彼と目があってどきりとした。

 丸かった面は細くなり、柔らかな曲線を描いていた鼻筋は高く、瞳は刀剣のように鋭くて涼やかだ。


 美貌にどぎまぎしながら端の方に下がると、主人が話し出した。


「ずいぶん大きくなったね、暁臣。陰陽寮の巡業にも行ったというが本当かい?」

「はい。師匠の仙道について北から南まで歩き、さまざまな妖魔を調伏してきました。その成果がこちらに」


 暁臣の肩にひょっこり現れたのは、赤と青の装束を着た小さな鬼だった。

 髪のあいだから一本角が生えていて、大きな瞳をきらきらさせて主人と奥方を見つめている。


「役小角が従えていた前鬼・後鬼です。主従契約を終えて、仕えてくれるようになりました」

「素晴らしいわ!」


 感動する奥方に嬉しそうにうなずいて、暁臣はお茶に口をつけた。


「それで……倉橋家を背負う陰陽師になれるよう、大学で陰陽術について研究したいのです。上の者に相談したら先に身を固めろと言われました。入学までの一年のうちに相手を定めて結婚します」


「結婚」


 あまりに唐突な申し出に、主人と奥方は顔を見合わせた。

 小春も胸がずどんと重くなるのを感じる。


(坊ちゃんが嫁取り……)


 決して自分が相手になれるとは思っていないけれど、小さな頃から知る弟のような暁臣が妻を迎える様を想像すると、気分が落ち込んでいく。


 その妻は、奥方のように美しい人だろうか。

 それとも、さちのように愛嬌のある可愛らしい人だろうか。

 少なくとも、小春ように手荒れを隠さずに働く女ではないはずだ。


 醜い感情に飲み込まれたくなくて、小春は静けさを裂く大声を出した。


「大変なお話ですので私は下がらせていただきます!」


 一息に言い、暁臣の姿が目に入らないように部屋を後にする。

 襖をしめて深呼吸。三度も繰り返して自分を落ち着かせる。


(大切な坊ちゃんの結婚、心から応援できるようにならなくちゃね)


 小春にできるのは、暁臣が暮らすこの屋敷を綺麗に整え、衣服を手入れし、おいしい食事を作ることである。

 そして、ゆくゆくは暁臣の妻を支える。

 心の整理はそれまでにつければいい。


 そう思ったら心が軽くなって、小春は明るい顔で台所に向かった。



 ――閉じられた襖を振り返って、暁臣は「小春に……」と漏らした。


「小春に縁談は来ていますか?」

「いくつかは来ているわ。でも、あの体質を受け止められる殿方となると、ねえ」


 奥方に視線を送られた主人は、気難しい顔で腕を組む。


「小春は私たちにとっても娘のようなものだ。心構えのない相手に嫁がせて傷つくのは見たくない。ほとんどの縁談を断っているよ」

「まだ独り身なんですね」


 ほっとした様子の暁臣は、肩にのった二匹の角を指で撫でる。

 ぱあっと顔色を明るくした二匹は、蒴果がはじけ飛ぶように一瞬で消えてしまった。


「消えてしまったね」

「少し使いに行かせました。父上、母上、しばらくお世話になります」


 驚く両親に、暁臣は美しい所作で頭を下げた。


 ◇ ◇ ◇


 その夜、暁臣の帰還を祝う宴が開かれることになった。

 大きな鯛を焼き、牛肉は流行りのすき焼き風に煮て、寿司桶を用意した。

 祝い用の酒はたんと買い込んで、いり鶏や二色卵のお吸い物なども用意する。


 続々と完成していく料理を膳によそっていた小春は、うーんと首を傾げた。


(この料理で坊ちゃんが満足してくれるかしら?)


 小さい頃の暁臣は、ふんわりした食感と甘い味付けが好きだった。作った料理は縁起がよく宴にも持ってこいだが、彼の好みにあっているかというと疑問だ。

 舌もすっかり大人になっているだろうからおいしく感じるかもしれないけれど、暁臣を歓待するのであれば彼のための料理も作ってあげたい。


 ちらっと竈を見ると、蒸し器から湯気が上がっている。

 籠には卵がいくつか残っていて、おやつに出した栗羊羹のあまりの栗の甘露煮も手つかずで残っている。


「あの、わたしも一品作っていいでしょうか?」

「今からだと遅くなっちまうよ。もう膳を出して宴をはじめるからね」


 カネが言う通り、座敷には主人も奥方も暁臣も集まっている。

 使用人も同席が許される無礼講なので、各自の膳を運んだら女中も席につくことになっているのだ。


「わたしは後から参加します。完成した料理を持って行くので、先に飲み食いしていてください」


 そんなに言うならと、女中たちは小春を残して配膳に向かった。


 さて、と腕をまくり上げて、小春は調理に入った。


 卵を二つ割って溶きほぐし、お吸い物に使った出汁で伸ばして、甘露煮の汁も加え、塩と薄口しょうゆで味付けする。

 蓋つきの茶碗に栗を入れ、子どものひと口大に切った椎茸や鶏肉、かまぼこを重ねたら、卵液を菜箸に伝わせて流し込む。泡が立たないようにそうっとだ。

 あとは蒸し器に入れて、菜箸をかませて隙間を開けたまま蓋をして弱火で三十分。


 作業を終えた小春は、ふうと息をついて円座に腰かけた。

 座敷の方からは楽しそうな笑い声が聞こえてくる。


(坊ちゃんも笑っているかしら)


 あの美しい顔で微笑まれたら心臓が飛び出しそうだ――


「――小春。小春、起きて」


 低い呼び声に目を開けると、先ほど思い浮かべた美貌が目のまえにあった。


「ひえっ、坊ちゃん!?」


 小春は飛び上がった。調理を待つあいだに寝こけてしまったらしい。

 慌てて竈を見るとちょうど火が消えていた。


「小春が座敷に来ないから心配してきたんだ。何かあったのか?」

「いいえ! 坊ちゃんに食べていただきたい料理があって作っていたんです」


 立ち上がった小春は、おそるおそる蓋を開ける。

 もくもくと上がる湯気の向こう、ほっこり蒸しあがっていたのは栗入りの茶碗蒸しだった。


 出来上がりを見て、小春はほっと胸を撫で下ろす。


「よかった、成功だわ。卵液に火が通り過ぎるとぼそぼそした食感になっちゃうんですよ。ちょうどの加減で火が消えてくれたようです」


 幼い頃の暁臣は、なめらかに蒸しあがった茶碗蒸しが好きだった。

 普通はぎんなんの実を入れるが、倉橋家では栗の甘露煮のみつをいれて甘い味付けにするのだ。


 布巾で取り出した茶碗蒸しに、匙をつけて暁臣に差し出す。


「どうぞ、坊ちゃん。わたしからのお祝いです」


 受け取った暁臣は、礼儀正しく正座して匙を持ち、料理を口に入れる。

 その途端、雪のように白かった頬が紅潮した。


 怖いくらい美しく成長してしまったけれど、おいしいものを食べた表情は昔のままで嬉しくなる。


「とてもおいしいよ。ありがとう、小春」

「どういたしまして。たくさん作ったので座敷にも持って行きますね」


 小春特製の甘い茶碗蒸しは、宴に色を添えた。



 ――宴が済んだ真夜中。自室で寝る支度をする暁臣のもとへ、二匹の鬼が舞い戻った。

 耳打ちされた暁臣は「そうか」と安堵の息を吐く。


 外に目を向ければ夜桜が揺れている。

 永遠の約束をした、あの夜のように。


「……もう離さないよ、小春」


 ◇ ◇ ◇


 小春が入浴するのは屋敷の皆が寝静まった真夜中だ。

 最後なので湯はぬるい。春先の寒さに熱い湯が恋しくなるが、体を見られないためにはこうするよりない。

 差し込む月明りに照らされた体には、骨の模様が浮き上がっている。


「最近、毎日こうだわ」


 これが小春の秘密だ。


 小春は人間と妖怪がしゃどくろのあいの子であり、油断するとこうして妖気が表ににじみでてしまう。

 菖蒲の葉で撫でると消えるが、こんな場面は他人に見せられない。

 縁談がなかなかまとまらないのも半妖だからだろう。半妖の体は不安定で、小春は妖気に当てられるとがしゃどくろに変化してしまう。


 難しいと納得はしている。だけど、寂しい。


 全身を菖蒲の葉で清め、洗った髪を拭きながら浴場を出ると、廊下の床几に腰かけていた人物が顔を上げた。


「坊ちゃん……」


 着流しに身を包んだ暁臣だった。

 肩には二匹の小鬼がのっていて、きゅるんとした瞳で小春を見つめてくる。


 少し不安になった。自分の正体を見透かされているような気がして。


「小春に聞きたいことがある」


 腰を上げた暁臣は、戸惑う小春の行く手をさえぎるように立った。逃げられない。


「聞きたいこととはなんでしょうか?」

「父上と母上から、小春の縁談がまとまらない理由を聞いた。半妖だから下手な相手に嫁がせてつらい思いをさせたくないそうだ。このままでは一生独り身かもしれない。小春は、それでいいのか?」


 よくない。とっさに言い返しそうになった口をつぐむ。


 小春だって結婚に憧れている。

 さちのように相手が見つかったらどんなに嬉しいか。だけど、半妖の生まれが邪魔をする。


「わたしだって結婚したいです。でも、半妖の体でいったい誰に嫁げるというんでしょう。坊ちゃんの奥方となる方がうらやましいです……」


 震える声で吐き出す。

 本当はこんな弱いところ、ねえやと慕ってくれる暁臣にだけは見せたくなかった。


 涙がこぼれそうになってうつむく。と、暁臣が体を傾ける気配がした。


「それなら、俺と結婚しないか」


「え?」


 首をもたげた小春の目に、暁臣のあやしくも優しい表情が大きく映る。


「俺は陰陽師になる。半妖に偏見はないし、小春が妖怪に化けたらすぐに人間に戻してあげられる。それに――ずっとそばにいるって約束しただろう?」


 そんな約束をした気がする。

 幼い頃、泣く暁臣をなだめるために。


 いけないと思った。

 暁臣にお似合いなのは、女中風情の自分ではなく立派な家で愛されて育ったご令嬢だ。


(突っぱねないと。坊ちゃんの幸せな未来のために)


 小春は涙をぬぐって、まるで冗談を言われたように笑った。


「そうでしたっけ? たぶん、小さな頃のおままごとでのことですね。すっかり忘れていました。もう遅いので失礼します」


 平静をよそおって暁臣から離れ、廊下を進む。

 これでいい。暁臣を大切に思うなら身を引くべきだ。


 たとえ苦しくても。


(大好きです。坊ちゃん)


 その思いは胸に秘めたままで。



 ――歩き去る小春の背中を見ながら、暁臣はため息をついた。


「素直じゃないな。小春は昔からそうだ。自分さえ我慢すればいいと思っている」


 前鬼と後鬼もきゅうと鳴いて小春を心配している。


 気にもかけるだろう。彼女は単なる半妖ではない。

 その辺の妖怪がひれ伏すくらいの大妖怪の血統を継いでいる。人間でいうところの皇女なのだ。

 それに気づいているのは暁臣だけである。


 暁臣がわずか七歳で陰陽寮に身を寄せ、厳しい修行に耐えてきたのは、小春を守る力や立場を得るためだ。


「俺から逃げようとしても無駄だよ」


 暁臣は小春が思っている以上に深く彼女を愛している。

 それが明らかになるのは、翌朝のことだった。


 ◇ ◇ ◇


 暁臣の告白を受けた小春は、夢のような心地で女中部屋に戻った。

 想いに応えられない切なさで寝付くのが遅くなり、翌朝はカネに叩き起こされた。


「いつまで寝てるんだい! 大変だよ!!」

「わああ、すみません。わたしったら寝坊して」

「そうじゃない! 暁臣坊ちゃんがあんたを嫁にするって宣言されたんだ」

「どういうことですか!?」


 飛び起きた小春は、寝間着のまま座敷におもむいた。


 黒い洋装の暁臣が、同じく身支度をととのえた主人と奥方に向き合っていた。


「ぼ、坊ちゃん……」


 寝ぐせ頭で駆けつけた小春に、暁臣はうっとりするような笑顔を向けた。


「おはよう、小春。父上と母上に結婚することを報告したよ」

「したよ、ではありません。わたしが坊ちゃんの妻なんて畏れ多いです。旦那様、奥様、坊ちゃんの話は信じないでください」

「小春は恥ずかしがっているんです。結婚については幼い頃に約束しました」


 暁臣と小春、それぞれの言い分を聞かされた二人は困り顔だ。


「親としては暁臣が決めた相手と結ばれてほしいが……。小春が嫌がっているうちはなあ」

「小春が家にいてくれると嬉しいけれど、本人が乗り気でないうちはねえ」


「わかりました。もう一度、口説き落とします」


 きっぱりした宣言に、小春の信念ががらがらと突き崩されていく。


(昨晩みたいに坊ちゃんに言い寄られたら心臓がもたないわ)


 小春のかわいい坊ちゃんは、とびきり魅力的な青年に成長してしまった。

 会えないあいだも一途に想われていたと発覚した今、暁臣に迫られたら受け入れてしまう未来が見える。


 小春のなかではまだ、坊ちゃんは坊ちゃんなのに。


 朝餉が運ばれてきて話は中断した。

 女中たちにうながされて身支度に行く小春を、暁臣は名残惜しそうに見送った。


 ◇ ◇ ◇


「どうしよう……」


 気もそぞろで洗い物をする小春のもとへ、さちが早足で近づいてきた。


「小春ちゃん、坊ちゃんに求婚されたって本当なの?」

「うん。わたしは、坊ちゃんには他にふさわしい人がいるからと断ったの。だけど、坊ちゃんは口説き落とすって。どうしよう、おさちちゃん……」


 震える小春をまえに考えたさちは「逃げましょう」と提案した。


「とりあえず倉橋の屋敷から離れて、落ち着いて考えたらいいわ。女学生用の下宿をやっている知り合いがいるから、しばらくそっちに身を寄せなさいよ」

「ありがとう、おさちちゃん!」


 わずかな手荷物を風呂敷で包み、さちに連れられて裏口を通って表に出た。

 帝都の北東、ちょうど鬼門の位置にある倉橋家からずいぶん歩いて、たどり着いたのは深川の辺りだった。


 さちは、裏長屋の入り口に立った顔に刀傷のある男に近づいていく。

 明らかに下宿をやっているような風貌ではない。


 小春は違和感を覚えたが、さちの親切に頼っている身なので黙った。


「この子をあずけたいんだけど、いくら?」


 男は小春の顔と体つきを見て、さちの手に金銭を握らせた。

 さすがにおかしい。


「下宿に泊めてもらうんですから、お金を支払うのはこちらではないですか?」

「下宿だあ?」


 男は珍妙な声を出したあとで、小春が勘違いしていることに気づいて嗤った。


「ここは女郎屋だぜ。おめえは売られたんだよ」

「売られた? どういうことなの。おさちちゃん!」


 小春は荷物を放り出して怒鳴った。

 さちは無表情になってケッと毒づく。


「あんたみたいな垢ぬけないのが坊ちゃんに求婚されるなんて許せない。あの人には、あたしみたいな綺麗な方が似合うわ」

「おさちちゃん、まさか坊ちゃんを誘惑するつもりなの?」


 日本橋にある大店の息子との縁談があるのに。

 絶句する小春を、さちは下品に笑い飛ばした。


「それの何がいけないのよ。倉橋でいい暮らしをするのはあたしよ」


 許せない。小春のなかで何かが弾けた。


 体の内側がふくらむ感覚がして――実際、小春の体は大きくなっていった。

 巨大な人骨、がしゃどくろの姿になって。


「きゃああああああああっ!」


 通りにさちの悲鳴が響き渡った。


 がしゃどくろに変化した小春は、長屋の屋根にしがみつきながら、はるか下で腰を抜かすさちを見て悲しくなった。


(昔と同じだわ)


 怖がりで閉じこもりがちだった暁臣に外の世界を見せたくて二人でこっそり屋敷を出たら、運悪く人さらいに遭遇して巨大化したのだ。


 なぜか小春は他の妖怪や妖魔をひきつけた。

 暁臣は周りを遠ざけるので手いっぱい。

 もとに戻すには力及ばずで、結局、駆けつけた倉橋家の御用人に助けてもらった。


(あの後、坊ちゃんは陰陽寮へ入ってしまわれた)


 本当は気づいていた。

 暁臣が小春を助けられる男になろうと努力してくれたことに。


 彼の妻になる覚悟が決まっていなかったのは、彼の懸命な想いを知りながら見ないふりをしていた小春のわがままだということも。


「いたぞ! がしゃどくろだ!」


 暁臣が着ていたのと同じ洋装の団体が走ってきた。


 帝国陰陽機関、通称・陰陽寮に所属する陰陽師たちだ。

 呪符や布を巻いた刀を手に、小春を討伐しようとしてくる。


「動くな! 動けば斬るぞ!!」


(やめてください。わたしは何もしません!)


 どくろの顎を動かしても声は出ず、がちがちと音が鳴るばかり。

 文字ではどうだろうと骨だけの指を地面に伸ばせば、攻撃だと勘違いされて刀を振り下ろされた。


(っ!)


 小春は一刀両断されるのを覚悟した。

 しかし、刃が骨に当たる寸でのところで二匹の鬼が刀を弾き飛ばしてくれた。


「きゅうっ!」


(前鬼さん、後鬼さん! ということは……)


 ぽっかり空いた眼窩で辺りを見ると、野次馬のあいだを縫って駆けつけた暁臣が打刀を抜いた。

 円を描くようにひと薙ぎし、引き寄せられた妖怪たちを蹴散らして、小春の肩に飛び乗ってくる。


「小春、もう大丈夫だ。すぐにもとに戻してやる」


 愛おしそうに頬骨を撫でられて泣きそうになった。


 むかしは右往左往して何もできなかった暁臣が、成長して目のまえにいる。

 小春の方がずっと大きいけれど、彼の方がずっとたくましく見えた。


 暁臣は、刀を天に向かって立て、もう片方の手で印を結び、目を閉じる。


「ひふみ よいむなや こともちろらね――急々如律令」


 ふわっと足下から心地いい風が吹いた。

 小春の体は光を放ち、気づけば人間の姿になって暁臣に抱きかかえられていた。


「この者は倉橋であずかる。この場の浄化はわが師、陰陽属仙道の門下が執り行うこととし頭への報告もこちらで出す」

「待て! その女は危険だ。いつまた人を襲うか知れない妖怪だぞ。そんな者を引き取ってどうするつもりだ!」


 二匹の鬼に吹き飛ばされた陰陽師は文句たらたらだ。


(そうよね。半妖の女なんて危険だわ)


 小春が身を固くすると、暁臣は離さないと言うように抱く力を強めた。


「彼女は俺の妻だ。……未来の」

「は、あ? つま?」


 あ然とする陰陽師を尻目に、暁臣はふっと微笑んで踵を返した。


「片付けよろしく」


 妖怪騒ぎとは別の意味で騒々しくなる現場を離れ、暁臣は家路をいそぐ。


「さちが連れ出したということはわかっている。残念だが、女中はやめて結婚話も破談になるだろう」

「坊ちゃん、もう大丈夫です。ひとりで歩けます」


 暁臣は柳のしたで足を止めて下ろしてくれた。見下ろす瞳は優しい。


「ん? どうした」

「本当にいいのですか、わたしが相手で」


 小春の胸にはまだ迷いがある。

 彼の手を取って本当にいいのか。彼を幸せにできるのか。半妖の身で。


 しかし、暁臣は少しも気にしていないような顔で微笑んだ。


「俺は、小春に見合う男になれるように必死に修行してきた。家を離れているあいだ、小春が別の男と結ばれたらと思うと苦しかった。けれど、小春はきっと俺を待っていてくれると信じていた」


 そうっと手を取られる。

 繋いではじめてわかったが、暁臣の手はきびしい修行のせいで傷だらけだった。


(わたしの手と同じ)


 暁臣は、小春の手を自分の頬にそえて、じいと見つめてくる。


「小春が手に入るなら俺はなんだってできる。小春は俺がだれかと結婚していいの?」

「……いやです。わたし坊ちゃんがほしいです。半妖の身だけど、諦められません」


 小春は涙ぐんで答えた。ぐずぐずの声に暁臣は耳を澄ましている。


「好きです、坊ちゃん。大好きです」


 うわ言のように伝えれば、暁臣はくすっと喉を震わせた。


「俺はいつまで坊ちゃんなのか……。まあいい。俺も大好きだよ、小春」


 額をあわせて目を閉じた。

 大切な人と想いを通じ合わせられた感動に包まれながら、小春は幸せな未来を創造した。



 ――二人が祝言を挙げるのは、この日からちょうど一年後。

 紆余曲折ありながら小春に名前で呼んでもらえるようになった暁臣は、まわりが仰天するほどの愛妻ぶりを見せつけるのだが――それはまた別の機会に。

ハイスぺ年下ヒーローと実は妖怪世界の皇女の和風シンデレラ短編

いかがでしたでしょうか?

好き!もっと書いて!と思われた方は、ぽちっと評価していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ