表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

さよなら、蓮の葉

作者: 響野水葉

雨が降っていた。夜の街は、濡れたアスファルトに街灯の光を滲ませ、白く輝く車のテールランプが、流れるように視界を横切っていく。湿った風が頬を撫で、シャツの袖口にまとわりついた。

横断歩道の向こう側。傘を持たずに立ち尽くす一人の人影があった。その姿を見た瞬間、時間が巻き戻されたような錯覚に陥る。


──水無瀬沙羅。


十年前に別れたまま、二度と会うことはないと思っていた少女。

雨粒が彼女の長い黒髪を濡らし、肩にまとわりついている。細身の体が少し縮こまるようにして立ち、視線は遠くを見ていた。


「……惟央くん?」


かすれた声が、雨の音に紛れるように響く。僕は彼女の名前を呼ぼうとした。けれど、声にならなかった。喉の奥が詰まり、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

久しぶりに会った彼女は、記憶の中の少女とは違っていた。僕の知っている水無瀬沙羅は、どこか遠くにいた。それでも、変わらずに綺麗だった。

それが、ひどく痛かった。


水無瀬沙羅は、僕にとって特別な人だった。十年前、僕は彼女に恋をした。

小学生の頃、夏の終わりの放課後。校庭の片隅に小さな池があり、そこに蓮の葉が浮かんでいた。彼女はその葉をじっと見つめていた。白いワンピースを着て、水面を覗き込む横顔は、まるで別の世界にいるように見えた。


「何を見てるの?」


思わず声をかけると、沙羅は驚いたように振り向き、それから微笑んだ。


「蓮の葉。綺麗でしょう?」


「……うん」


「どんなに雨が降っても、水を弾いて沈まないの。すごいよね」


僕はそのとき、恋というものの意味をまだ知らなかった。ただ、彼女の隣にいると心が落ち着く気がして、もっと一緒にいたいと思った。

それから何年もの間、僕は沙羅を想い続けた。伝えようとしたこともあった。でも、うまく言葉にできなかった。

結局、僕の想いは届かぬまま、彼女は街を去っていった。


「さよなら」


それが、最後の言葉だった。



「変わらないね、惟央くん」


カフェの窓際の席で、沙羅がそう言った。

雨は止み、曇った空の向こうにわずかに青が覗いていた。


「そんなことないよ。変わったと思うけど」


「そうかな」


彼女は少しだけ微笑む。でも、その笑顔はどこか遠かった。

僕は、彼女に聞きたかった。

どうして戻ってきたのか。十年間、どこで何をしていたのか。

でも、聞けなかった。その代わりに、思い出話をした。小学校のこと。蓮の葉のこと。

沙羅はただ、静かに聞いていた。


「ねえ、惟央くん」


「うん?」


「もし、蓮の葉が泥に沈んでしまったら、どうなると思う?」


僕は答えを探した。でも、見つからなかった。


「……沈まない。蓮の葉は、そういうものだから」


沙羅は、静かに首を振る。


「それでも、沈んじゃうこともあるんだよ」


僕は、言葉を失った。



沙羅の家は、昔と変わらない場所にあった。

古い木造の家。庭には小さな池があり、そこには相変わらず蓮の葉が浮かんでいた。


「ねえ、沙羅」


夜の風が吹く中で、僕は彼女に言った。


「昔、お前が言ってたよな。蓮の葉は、どんなに雨が降っても沈まないって」


沙羅は、少しだけ目を伏せる。


「でも、それは嘘だったんだろ?」


彼女の指が震えるのがわかった。


「惟央くんは、優しいね」


「そうじゃない」


僕は、彼女の隠しているものを知りたかった。沙羅が、この十年間、何を背負ってきたのかを。


「もし沈みそうなら、俺が支える」


彼女は、僕を見た。そして、微かに笑った。


「それなら、少しだけ浮かべるかもしれないね」



朝が来る。世界は静かに、少しずつ色を取り戻していく。

沙羅は、空を見上げていた。


「……惟央くん」


「なんだ?」


「ありがとう」


その言葉は、まるで「さよなら」のようだった。

僕は、彼女の手を取る。


「一緒に、浮かぼう」


彼女の目が、揺れる。それでも、僕は手を離さなかった。


「……浮かべるかな」


「浮かべるよ。蓮の葉みたいに」


沙羅は、少しの間黙っていた。そして、小さく笑った。

それは、初めて見せる本当の笑顔だった。

蓮の葉は、沈まない。たとえ汚れたとしても、沈みそうになったとしても。支える誰かがいれば、それは水面に浮かび続ける。

新しい風が吹く。雨の匂いが遠ざかっていく。

朝日が、彼女の頬を照らしていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ