さよなら、蓮の葉
雨が降っていた。夜の街は、濡れたアスファルトに街灯の光を滲ませ、白く輝く車のテールランプが、流れるように視界を横切っていく。湿った風が頬を撫で、シャツの袖口にまとわりついた。
横断歩道の向こう側。傘を持たずに立ち尽くす一人の人影があった。その姿を見た瞬間、時間が巻き戻されたような錯覚に陥る。
──水無瀬沙羅。
十年前に別れたまま、二度と会うことはないと思っていた少女。
雨粒が彼女の長い黒髪を濡らし、肩にまとわりついている。細身の体が少し縮こまるようにして立ち、視線は遠くを見ていた。
「……惟央くん?」
かすれた声が、雨の音に紛れるように響く。僕は彼女の名前を呼ぼうとした。けれど、声にならなかった。喉の奥が詰まり、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
久しぶりに会った彼女は、記憶の中の少女とは違っていた。僕の知っている水無瀬沙羅は、どこか遠くにいた。それでも、変わらずに綺麗だった。
それが、ひどく痛かった。
水無瀬沙羅は、僕にとって特別な人だった。十年前、僕は彼女に恋をした。
小学生の頃、夏の終わりの放課後。校庭の片隅に小さな池があり、そこに蓮の葉が浮かんでいた。彼女はその葉をじっと見つめていた。白いワンピースを着て、水面を覗き込む横顔は、まるで別の世界にいるように見えた。
「何を見てるの?」
思わず声をかけると、沙羅は驚いたように振り向き、それから微笑んだ。
「蓮の葉。綺麗でしょう?」
「……うん」
「どんなに雨が降っても、水を弾いて沈まないの。すごいよね」
僕はそのとき、恋というものの意味をまだ知らなかった。ただ、彼女の隣にいると心が落ち着く気がして、もっと一緒にいたいと思った。
それから何年もの間、僕は沙羅を想い続けた。伝えようとしたこともあった。でも、うまく言葉にできなかった。
結局、僕の想いは届かぬまま、彼女は街を去っていった。
「さよなら」
それが、最後の言葉だった。
「変わらないね、惟央くん」
カフェの窓際の席で、沙羅がそう言った。
雨は止み、曇った空の向こうにわずかに青が覗いていた。
「そんなことないよ。変わったと思うけど」
「そうかな」
彼女は少しだけ微笑む。でも、その笑顔はどこか遠かった。
僕は、彼女に聞きたかった。
どうして戻ってきたのか。十年間、どこで何をしていたのか。
でも、聞けなかった。その代わりに、思い出話をした。小学校のこと。蓮の葉のこと。
沙羅はただ、静かに聞いていた。
「ねえ、惟央くん」
「うん?」
「もし、蓮の葉が泥に沈んでしまったら、どうなると思う?」
僕は答えを探した。でも、見つからなかった。
「……沈まない。蓮の葉は、そういうものだから」
沙羅は、静かに首を振る。
「それでも、沈んじゃうこともあるんだよ」
僕は、言葉を失った。
沙羅の家は、昔と変わらない場所にあった。
古い木造の家。庭には小さな池があり、そこには相変わらず蓮の葉が浮かんでいた。
「ねえ、沙羅」
夜の風が吹く中で、僕は彼女に言った。
「昔、お前が言ってたよな。蓮の葉は、どんなに雨が降っても沈まないって」
沙羅は、少しだけ目を伏せる。
「でも、それは嘘だったんだろ?」
彼女の指が震えるのがわかった。
「惟央くんは、優しいね」
「そうじゃない」
僕は、彼女の隠しているものを知りたかった。沙羅が、この十年間、何を背負ってきたのかを。
「もし沈みそうなら、俺が支える」
彼女は、僕を見た。そして、微かに笑った。
「それなら、少しだけ浮かべるかもしれないね」
朝が来る。世界は静かに、少しずつ色を取り戻していく。
沙羅は、空を見上げていた。
「……惟央くん」
「なんだ?」
「ありがとう」
その言葉は、まるで「さよなら」のようだった。
僕は、彼女の手を取る。
「一緒に、浮かぼう」
彼女の目が、揺れる。それでも、僕は手を離さなかった。
「……浮かべるかな」
「浮かべるよ。蓮の葉みたいに」
沙羅は、少しの間黙っていた。そして、小さく笑った。
それは、初めて見せる本当の笑顔だった。
蓮の葉は、沈まない。たとえ汚れたとしても、沈みそうになったとしても。支える誰かがいれば、それは水面に浮かび続ける。
新しい風が吹く。雨の匂いが遠ざかっていく。
朝日が、彼女の頬を照らしていた。