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入寮

 恐る恐る、改めてその人の顔を伺うと、パチリと目が合った。


「もしかして、そちらの方はシン様とは既知の間柄ですの?」

「ああ。といっても、付き合いがあったのは八年は前だけどな」


 エレノアはたおやかに微笑むと、私に近づいて来た。ヒール分の高さもあるだろうが、それでなくとも意外と身長が高い。シンと並んで背丈が変わらないのだから考えてみれば当然で、同学年なのに私よりも頭ひとつ分背の高いエレノアは上品な所作でもって軽く会釈した。


「はじめまして。先ほどは名乗れなくてごめんなさい。私はエレノア・マルティン。クラスは違うけれど、よろしくお願いしますわ。エリンさん」


 見惚れていた私は、慌てて背筋を正すと、軽くスカートの裾を摘んでエレノアよりも深めの礼を返した。マルティン。マルティン伯爵家。さすが殿下と話していただけあってこちらも大物だ。肥沃な土地を領地に持ち、この国の食糧事情を支える家柄。


「こちらこそ、よろしくお願いいたしますわ。エレノア様。名高い伯爵家のご令嬢にお会いできて光栄ですわ。私のことは……どうぞ、エリンとお呼びください」


 普段ならエリィと名乗るところだが、彼女相手には愛称が被ってしまう。


「わかったわ、エリン。それで、エリンはシン様とはどういったご関係ですの?」


 エレノアは微笑んでいるが、それはどこか緊張感を孕んだ笑みだった。探るように見つめてくる瞳に、私もまた笑みを返す。


「シン先生には昔、文字の読み書きや算術を教えていただきました。シン先生がいなければ、私はここにいないと思いますわ」

「まあ、一番最初の教え子ですのね。羨ましいですわ」


 エレノアの微笑みからいくらか力が抜けた。これは女の勘だが、おそらく私が恋敵になりはしないかと警戒していたのだろう。私も同種の警戒を抱いていたのをいくらか解く。エレノアがシンとの縁談に前向きであれば、殿下と必要以上に親しくすることもないだろう。


「心にもないことを言うんじゃない」


 シンが呆れたみたいに言って、エレノアが心外そうな顔をする。


「ま。そんなことございませんわ」

「俺が……教えてたのは八年前。まだ、ただの孤児だった頃だ」

「シン様のように才気溢れる方なら、身分など問題ではございませんわ」


 楽しげに笑うエレノアを見ながら、私は内心で驚いていた。シンが孤児だったなんて、知らなかったのだ。考えてみれば当然で、彼はたまたま知り合った近所のお兄ちゃんみたいな人だった。それこそ、名前くらいしか知らなかったのだと今更気がつく。

 きっと今はもう、私よりもエレノアの方がシンのことをよく知っているのだろう。


「よく言う。それじゃ、俺はもう行くよ。まだ仕事があるんでな」

「もうですの? わかりましたわ。お仕事頑張ってくださいませ」

「ああ。んじゃ、またな」


 私もまたそう声をかけられて、軽く会釈を返した。エレノアの前であまり砕けた話し方をするのも憚られたのだ。

 エレノアはシンを見送ると、もう私には目もくれずにさっさとどこかへ行ってしまった。


「……何か食べようかな」


 手持ち無沙汰になんとなく呟く。

 周囲のテーブルにはいまなお豪勢な料理が並んでいる。食べておかねばもったいないというものだ。立食パーティでの食事マナーを頭の中で反芻しながら、私も食事を楽しみにその場を離れた。

 その後、歓迎会が終わるまでレジーナとフィリップの姿を見ることはなかった。無事に空き教室に消えたのだろう。

 各々定刻までに寮に戻るように、との説明で歓迎会が一旦締められた後。真っ直ぐに寮に向かうべく広間を出たところで、背後からレジーナに声をかけられた。


「エリィ!」


 振り返れば、首筋には先ほどまではなかった虫刺されのような痕が見える。何があったか想像もつくというもので、思わず笑みを滲ませて尋ねた。


「レジーナ、旦那様はもうよろしいのですか?」

「もう! 揶揄わないでちょうだい! 置いていくなんて酷いわ」


 ツンとそっぽを向くレジーナを慌てて宥める。


「すみません。なんか、すごい……睨まれてたので……」


 フィリップに。


「はあ……あの人は本当に……いえ、もういいわ。それより学内を見て回らない? フィルに聞いたのだけど、庭園やカフェテラスもあるみたいなの」


 眼鏡の奥の薄紫の瞳をキラキラと輝かせるレジーナだったが、あいにくと私にはやることがあった。


「ごめんなさい、すごく行きたいのだけど、荷解きをしないといけなくて……」


 明日は休みだが、その後は普通に学園生活が始まってしまう。荷解きは急務なのだ。


「まあ、自分でするの?」

「もちろん。私には使用人なんておりませんもの」

「あ、それはそうよね……それなら、私も手伝うわ!」

「えっ? で、ですが……」


 そんなことを次期公爵婦人様にさせていいものだろうか、という懸念は続くレジーナの言葉で払拭された。


「私の侍女は力持ちなのよ!」


 ああ。まあ、自分ではやらないよね……。

 全寮制。とはいえ、住むのは大半が貴族である。庶民のように一つの建物に押し込める、というわけにはいかない。学園の正門を出れば、いくつもの馬車が並ぶ広いロータリー、そこを抜けた先はちょっとした街のようになっていた。


「……なんというか、壮観ですね」


 建ち並ぶ屋敷に思わず吐息を漏らす私に、レジーナは不思議そうに聞き返す。


「そう?」

「はい……なんだか、貴族街に入ったみたい……」

「貴族街はもっと一つ一つの建物が大きいわ」

「へえ……なんだか、想像つかないです……」


 視界に見える屋敷すべて、寮である。一つの屋敷には六人が住み、その中で一人一部屋が与えられる。食堂や浴室は屋敷単位で共用らしい。屋敷専属の料理人や使用人もいるそうだ。これだけでも、いったいいくらかかっているのか想像もできない。


「エリィ、行きましょう?」


 街並みに見惚れていた私は、声をかけられて我に返った。


「あっ、はい。待ってください、今場所を……」

「大丈夫よ。馬車を呼んだから」


 言われて目を向ければ、目の前に立派な馬車が停まっていて、レジーナが手招いている。


「わ、ありがとうございます!」


 レジーナに続いて慌てて乗り込んで、私は再び見惚れた。住んでいたところからここに来る時には寄り合い馬車を使ったのだが、外装はもちろん、内装もまるで違う。赤い革張りの椅子が向かい合い、空間はゆったりと余裕がある。窓にもきちんとガラスが嵌められていて、外の景色がよく見える。


「閉めますよ」

「うあっ! はいっ」


 背後から御者の人に呼びかけられて、慌てて椅子に座ると、パタンと扉が閉められた。しばらく後、カタコトと馬車が走り出す。道も舗装されているからか、ほとんど揺れはない。


「エリィは、馬車は初めて?」

「あ、はい……。こういうのは……。馬車といえば、こう、木箱の中に人が詰められて行く感じので……こんな天井とか、扉とかついてるのは初めて……」


 言いながらキョロキョロと内装を見ていたら、レジーナに笑われた。


「ふふ、そんなに興奮しなくても、これから毎日乗ることになるわよ」

「あはは、そうですよね……。あれ、そういえば行き先」


 私は何も言っていない。なら、この馬車は今どこへ向かっているのか。しかし、レジーナは穏やかに微笑んだ。


「心配いらないわ。エリィの寮は私と同じはずだから」

「え?」


 果たして、たどり着いたのは本当に私の寮だった。戸口にある番地を通知された用紙の記述と見比べる。たしかに同じ。


「さ、入りましょ」

「は、はい!」


 レジーナに促されて、豪華な両開きの扉を押し開ける。


「おかえりなさいませ」


 待ち構えていたかのように使用人と思しき女性に頭を下げられた。少し茶色がかった黒髪を清潔感あるお団子にまとめ、黒地のスカートが上品なメイド服を着ている。


「ただいま。出迎えありがとう。荷物は届いてる?」


 慣れた様子でレジーナが答えるのを呆然と見ていることしかできない。


「はい、既に。お二方のお部屋に運び入れてございます。レジーナ様のお部屋については既に荷解きも完了しております」

「そう。そしたらエリィのお部屋の方も手伝ってちょうだい」

「承知いたしました。エリン様のお部屋はこちらになります」


 先導して女性が歩き出すまで、私は呆気に取られていた。一拍遅れて慌てて二人の後を追う。

 入ってすぐは開けた広間になっていた。両側に階段がついていて、吹き抜けの階上には扉が四つ。それらの扉の真下、広間に面したところにも四つ。おそらく下の階の二部屋が食堂と浴室だろう。案内されたのは入って左手、上階の手前側の部屋だった。

 女性が開けてくれた扉から中へ入る。


「広っ……」


 思わず声に出ていた。五メートル四方はあるんじゃないだろうか。少なくとも私の家より広いことは間違いない。右壁際にはクローゼットがあり、制服や運動着がかけられている。その手前には高価そうなドレッサー。奥にはこれまた大きなテーブルと椅子。机上にはノートや文房具が置かれていた。左手にはベッド。こちらも既に清潔に整えられている。

 そして、部屋の真ん中。その広さに不釣り合いな小ぶりな荷物がぽつんと置かれていた。

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