ただそれだけを胸に
ただの平民だ。いくら要領がいいとは言っても、それだけで侯爵家のご令嬢と接点など持てるはずがない。次に会ったときに本人に問いただそう。なんなら寮の部屋は向かいなのだから、帰って声をかけてみようか。
そんなアレやコレやの心に引っ掛かることがありながら、工学の授業に集中できるはずもない。私は授業が終わるとフィリップと合流するというレジーナとは別れて大急ぎで帰寮した。自室へ行って荷物を置いて、カーテンを開けて窓の外を見るが、向かいの部屋に人の気配はない。
大事な時に限ってどうして、と理不尽な苛立ちを覚えながらカーテンを閉めようとした時だった。
視界の端に、異質なものが映った。何気なく視線を向けて、思わず二度見した。
普段は馬車が行き交う道を、颯爽と馬に乗って駆けてくる人がいる。長い髪が、まるで馬のたてがみのように風を切ってたなびく。
なんとも絵になる光景に視線を奪われていると、その人は唐突に止まって馬を降りた。そしてこちらの方に……この尞へと近づいてくる。ここに住む誰かに用でもあるのか。けれど、今日はまだ私しか帰っていないはずだ。
興味を引かれて部屋を出たとき、ちょうど玄関の扉が開いた。私の部屋は二階だが、吹き抜けになっているから一階の玄関もよく見える。
入ってきたのは先ほど馬に乗っていた人だった。先ほども思ったが、やはり髪が長い。濃い茶髪は、結っていても床につきそうなくらいだ。そして背も高い。それなりに高い玄関扉を潜るのに、少し屈むくらいには高い。狐を思わせる、細い瞳がチラリと私を見た。
そして、そのままこちらへ向かってきた。
男はスタスタと階段を上ってくると、私の目の前まで来て立ち止まる。背が高すぎて、圧倒される。私の頭の先が彼の肩ほどの高さしかない。
「ルキウス殿下の部屋はどこだったかな?」
「へっ。え、えっと……で、殿下に御用ですか? まだお帰りになっていなくて……」
「そうか」
そう呟いたきり、男は黙り込んでしまった。
何の時間だろうこれ。もしかして殿下の部屋の位置を聞くまで動かないつもりだろうか。だが、彼が何者かもわからないのに部屋を教えていいものなのか。
混乱していると、階下から救いの声が聞こえた。
「おや、ルーウェン様。こちらへいらっしゃるとはお珍しい。ルキウス殿下に御用ですかな?」
見下ろした先にいたのは、ハンスだ。シルバーグレイの髪をした老紳士は、凛と背筋を伸ばして立っている。右目につけたモノクルもお洒落だ。彼もこの寮に住む使用人の一人であり、ロレンスの従者である。
実のところ、あまり言葉を交わしたことはない。ハンスという名前も他の人たちの会話から察しただけだったりする。
ハンスは見知った様子で階段を上ってくる。どうやら既知の仲らしい。不審者ではなかったことにひとまず安堵していると、ルーウェンと呼ばれた男はようやく私から視線を逸らしてハンスに向き直ってくれた。
「少し試してみたいことがあってね。ルキウス殿下にも是非ご意見を伺いたいんだ。魔法陣の中で魔力を循環させる方法に関して」
何事か語り出したルーウェンを遮るようにハンスが片手を上げた。
「残念ですが、ルキウス殿下はこちらへはお戻りになっておりません。お急ぎのようでしたら言伝を預からせていただきますが」
「ああ、今聞いた。ここで待つか考えていたところだ」
考え中だったんだ! 下手なこと言わなくて良かった。
「お待ちいただいても構いませんが、いつお戻りになるかはわかりません。出直していただいた方がよろしいかと」
「それもそうだな。では、失礼するよ」
ルーウェンは私にはもう目もくれずに、スタスタと階段を降りていく。長身を屈めて扉をくぐると、髪の先を少し引き摺って出て行った。呆然とそれを見送っていると、ハンスが私を見て微笑む。
「少々変わったお方で戸惑われましたかな」
「は、はい……。あの、馬に乗って来られたのが見えて出てきたんですけど、まさか声もかけずに近づいて来られるとは……」
ちょっとした野次馬根性だったのに。
「ああ、なるほど。左様でございましたか。ルーウェン様は馬車を好まれませんので、いつも馬で移動されるのですよ」
「そうなんですね」
馬に乗るのにあの長い髪邪魔じゃないのかな……というか、馬に食べられたりしないのかな……。なんて考えていると、再び玄関扉が開いた。一瞬ルーウェンが戻って来たのかと思ったが、入って来たのはルキウス殿下だ。
「おや、おかえりなさいませ」
「おかえりなさいませ。殿下」
ハンスに続いて私も頭を下げる。
「ただいま。二人してそんなところで、話でもしていたのか?」
「今しがたルーウェン様が参られたのです。お会いになってはおりませんか?」
ハンスの答えに、殿下は首を傾げた。
「いや……会っていないな。行き違ったのだろう」
「左様でしたか。もう一度来られるかもしれませんね」
「……どうだろうな。まあ、心配りは不要だ。どうせ勝手に入ってくる。僕は今日はもう出掛ける予定はないから、もし見かけたら案内してやってくれ」
「承知いたしました」
ハンスが恭しく頭を下げる。殿下は自室に戻ろうと踵を返しかけたが、ふと足を止めると私を振り返った。
「そうだ、エリン嬢。今から少し時間はあるか? 良ければ話でもどうだ」
言葉にならない衝撃は頭の中どころか体中を駆け巡って、私は思わず数歩前に出ていた。
「は、はい! あります! 作ります! 私で良ければ喜んで!」
「ははは。なら僕の部屋……では寛げないか。食堂で待っていてくれ。すぐに行く」
「はい。承知いたしました。お待ちしておりますわ、殿下」
羞恥で熱くなった頬をパタパタと仰ぎながら食堂へ向かい、待つこと十数分。殿下はいつもと変わらない様子で現れた。
「待たせたな」
「いいえ、問題ございませんわ。殿下とお話できる機会をいただけて大変光栄にございます」
私の座る椅子はいつもと同じ、扉に最も近い席だ。殿下は普段であれば、私からは一番遠くなる奥の席に座るのだが、今回は私の向かいの椅子に腰掛けてくれた。
「……その言葉遣いも随分と板についたようだ」
「ありがとうございます。そのように言っていただけて安心いたしました」
優雅さを意識して微笑むが、内心はとても平静ではいられない。少し話でも……が、ただの雑談であるはずがない。お忙しい殿下がわざわざ時間を割いたのだ。何か用件があるに違いない。どきどきしながら待ち構えていると、殿下は落ち着いた様子で口を開いた。
「七位だったらしいな。まずは、おめでとう」
「……ありがとうございます」
私としては目標に届いていなくて微妙なのだが、とりあえず礼を言っておく。
果たして、殿下の話は単刀直入に来た。
「君が……平民にしては優秀なことはわかった。あの三人が君に信を置くのなら、僕も相応の信用はできる。その上で聞きたい。君は……僕の側室になって何を為したいんだ?」
何を為したい、か。殿下は真っ直ぐに私の目を見ている。真剣に問うている。だから私も真剣に答えた。
「私は、殿下をお慕いしております。貴方様のお力になりたい。欲を言うならば寵愛もいただきたい。それが叶うのならば、側室でなくとも構いません。何が為したいか、で言うなら、私は……貴方様の為したいことを為す力となりたいです」
怖くて、怖くて、たまらなかった。これが私のすべてだ。ただそれだけを胸に、ここまで来た。誰に無理と言われても、書物の内容がさっぱり理解できなくても、ただそれができる可能性に、人生を賭け続けた。
それを……殿下本人に否定されたりしたら、今度こそ立ち直れないかもしれない。




