これが私の慣れ親しんだ言葉
そうして私があらゆる質問を終えて満足する頃には、まる一時間が経過していた。
「エリンちゃんは心配性だな。そこまで完璧にしなくても、向こうだって出自をわかってて誘ってるだろうし、気にしないよ」
「そうよ。エリィの立ち居振る舞いは充分美しいわ。誰が見ても平民だとは思わないわよ」
「あはは……ありがとうございます」
ロレンスとレジーナがかけてくれる言葉に、私は愛想笑いを浮かべた。
褒めてくれるのは嬉しい。嬉しいのだけれど、どことなく居心地の悪さを感じる。もしかしたら、貴族の端くれくらいには見えているのかもしれないけれど……端くれ程度じゃ、全然足りないのだ。
翌日。朝食を終えた私は陽の光を浴びようとバルコニーに出ていた。
朝日を浴びながら、ぐううっと伸びをする。今日は午後にお茶会の約束があるが、それ以外は特にない。午前中は自習して、お茶会の後で少しロレンスに勉強の質問をしに行こうか。
「エリィ」
「え?」
不意に、聞き慣れた声がした。それも、頭上から。空を振り仰ぐように見上げると、目の前にストンっと人影が着地した。
「よっ」
「ひゃあああ!?︎ ……って、リタ!?︎」
幼馴染のリタは、着崩した制服に茶髪も見慣れたボサボサ頭だ。初日に会ったときには撫で付けていたのに。それにしても……こうしてすぐ目の前に立たれると意外と身長が伸びたんだなあと思う。今はもう私より頭ひとつ分くらい大きくて、思わず一歩後ずさった。
「お前ここの部屋だったんだ。俺さ、向かいの部屋なんだよ」
「えっ、向かい……って。そこ?」
ここには同じ間取りの屋敷が並んでいるから、すぐ目の前には隣の屋敷のバルコニーがあるのだ。
「そ。そこ」
「あっはは、すごい。偶然。ていうか、髪くらい整えなよ」
「あー、最初のうちはやってたんだけど、めんどくさくって。お前こそ、そのめんどくさそーな髪型よく朝からできるよなあ」
私の髪型は今朝もミディアムボブの黒髪を編み込んでいる。学園に来てからは毎日こうだ。いつ殿下の目に触れるかわからない以上は仕方ない。
「んー、でも毎日やってると結構慣れるよ。あっ、それより! なんで上から来たわけ? 屋根にでも乗ってたんじゃないでしょうね」
「別にいいだろそれくらい。屋根跳んでくの気持ちいいんだよ」
「と、跳んでく……?」
屋敷と屋敷の間は、どんなに短く見積もっても五メートルは離れている。そんな川の飛石を渡るみたいに言われても、実際問題できるわけがない。
私が内心で首を捻っていると、リタはニッと得意気に笑った。
「見てろよ」
「えっ」
言うが早いか、リタが跳んだ。真上に数メートルは飛び上がったかと思うと、器用にもバルコニーの手摺りの上に着地して、そのままストンとバルコニーの中に降り立って戻ってきた。
「どうよ」
「すっ……すごい! すごいすごい! どうやったの!?︎ 魔法!?︎ でも魔法陣なんてどこにも」
「ちょっ、ま、待てって!」
ぐいっと肩を突き放されて、ハッと我に返った。ものすごく迫ってしまっていた。
「あ、ごめん。それで、どうやったの!?」
「魔法陣はここ」
リタが屈んでズボンの裾を捲ると、足首のあたりに魔法陣が描かれていた。何かインクで描いたようだが、綺麗な円形だ。
「これ自分で描いたの?」
「おう。紙に描いてさ、ペタッと貼り付けて移す感じで。これが……なんつーか、跳躍力……違うな。下向きに力を放出する感じのやつなんだって。これを跳ぶ時と着地の時に発動してやるんだよ。それで高く跳ぶのと、着地の時の勢いの減衰がかかるってわけ」
リタが得意気に説明するが、自分でもよくわかっていないのだろう。説明がいやに感覚的だ。
「へええ。これ、私にもできる?」
「まあ、練習すればできるだろうけど……結構難しいんだぜ? タイミングとか出力の調整とか。あ、けど、ある程度の魔力濃度がないとぴょんぴょん跳んだりは無理かも」
「ある程度……かあ」
ただでさえ低い方の私には無理だろうか。いやでも、学園で測った時はまだ殿下に魔力量の測定をしてもらっていなかったし、今やったらもう少しできそうな気もする。それとも、その程度の差じゃ変わらないんだろうか。
とはいえ、リタみたいにぴょんぴょん跳びはねるとはいかなくても、やってみたくはある。リタに頼んで教えてもらおうか。なんかちょっとコイツに頼るのは癪な気もするけど。
「……元気出たみたいだな。なんか浮かねえ顔してた気がしたけど」
「え? そう?」
「辛気臭え顔してたって。もしかして、また虐められてんのか?」
ちょっと小馬鹿にするみたいに、笑い混じりにリタは言う。
「そんなことないわよ。みんな優しくて……褒めてくれるし、意地悪なこととか…………」
いや、結構言われたな。フィリップにはそれはもう冷たい視線を向けられたし、ロレンスにだって身の程を弁えろ的な圧をかけられた気がする。
「言われたのかよ」
「さっ、最近は言われてないし!」
フィリップは最初から「可能性はある」とか言っていた。ロレンスだって今はもう褒めてくれる。レジーナも、サフィアも、私が平民だからって馬鹿にしたりしない。
「……ははっ、すげえよなあ。エリィは」
「あんたまで何? 気持ち悪いんだけど」
「酷っ! 最近はってことは、たった一週間で認めさせちまったんだろ」
「……違うよ。認められてなんてない……って、思うんだけどさあ。正直よくわかんないんだよね。ねえ…………リタ」
「ん?」
「私さ、殿下の側室になれると思う?」
私の唐突な問いに、リタは即答した。
「思わない」
その当然みたいな態度に、笑いが込み上げてきた。そうだ。これが普通の反応。これが私の慣れ親しんだ言葉。
「あっはは、だよね。うんうん、そう思うよね」
「はあ? なんだよ。ようやく諦める気になったか?」
「なるわけないじゃん。見ててよリタ! 私、五月の試験で上位五位以内に入るから」
「…………っははは! また大きく出たな! できるわけねーじゃん!」
くしゃりと笑ったリタを私は自信満々に見返す。
「できるよ。だって、私は殿下の側室になるんだから。じゃあ、私忙しいから。さっさと私のバルコニーから出て行って!」
「うるせえな。わーったよ」
リタに背を向けて、私は自分の部屋に戻る。そうと決まれば、まずは勉強だ。とにかく努力あるのみだ。小さく拳を握って、私は勉強机に向かった。
⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
意気揚々と部屋に帰って行ったエリンを見送って、リタもまた大きく跳躍すると向かいにある自分の部屋のバルコニーへと着地した。
「ほんと……めんどくせー奴。もっと自信持てばいいのに」
「リタ。また、朝のお散歩?」
部屋の中から聞こえた声にリタはギクリとする。カーテンの陰から現れたのは、見慣れた金色の髪。金というよりオレンジに近い明るい髪をサイドテールにまとめ、褐色の肌をしたどこか異国風の女は、これでもれっきとした侯爵令嬢である。
「…………勝手に部屋に入らないでください。ジョアンナ様」
いまだに敬語を使うのは慣れず、どこか歯が浮くような気分でリタはもう何度目かの苦情を入れるが、ジョアンナは少しも悪びれない。
「それより、あの子がキミの意中の人で合ってる?」
「ッ……だったらなんだよ」
言い当てられた焦りで敬語は早くも頭から飛んだ。
「あたしの恋敵だなって。ねえ? 自信持てばいいのに、ってことは、ホントは信じてるんだ? あの子が成績優秀者に入れるって」
「……そっから聞いてたんですか。盗み聞きなんて趣味が悪いですよ」
「聞こえてきたのよ。それで、信じてるの?」
「別に……信じてるってんじゃないけど。まあ……なんとかするんじゃねえの、とは……思ってますよ」
「へえ? なのに、できるわけない、なんて言ったの? 素直じゃないのね」
「……エリィは、逆境でほど力出す奴だから。今まで否定され過ぎたんだ。やるだけやって駄目ならどうせ諦めるって、みんな言ってた。努力するあいつを嗤ってた。それでも、少しもめげないどころか、むしろやる気を出す始末。ここに来て、通用するってわかって、力抜けてそうだったし、これでいい……んですよ! ほら、さっさと部屋から出てってください」
「はいはい。そろそろ朝食にするから、早くおいでね」
降参するみたいに両手を上げてジョアンナは部屋から出ていく。彼女はリタが学園に入れるように色々と手引きしてくれた恩人であり、同時にこの女生徒しかいない寮に捩じ込んでくれた張本人でもある。
もうかれこれ二年の付き合いになるが、ジョアンナが何を考えているのかはリタにもよくわからない。侯爵令嬢様だと知ったのも入学後だ。
「……エリィに変なチョッカイかけなきゃいいけど」
望み薄だろうなあ、と思いながらリタも朝食に向かうべく部屋を出て行った。




