眼鏡をかけた知的な美男子と巨大な本棚
別に自信なんてない。多少はサマになっているだろうが、王族と並べるかと言われれば否だろう。ちゃんと訓練を受けたわけでもない。レジーナだって教えることに関しては素人だし、勉強の合間に、たかだか数年で身につけた付け焼き刃がこの先も通用するなんて、そんなに甘くはないだろう。
それでも、そんなことが諦める理由になるはずがない。だから私は胸を張って答えた。
「はい。例え今はまだ足りずとも、私ならば足るだけのものを身につけられますから、ご心配には及びませんわ。なんでしたら、ロレンス様がご指導くださいませんか?」
ロレンスは苦笑して、目を伏せた。それを見て私もいくらか肩の力を抜く。
「はあ……その度胸はどこで身に付けたんだ」
「生まれつきです」
「それはまた羨ましい」
「それで……教えてくださいますか?」
「え?」
「礼儀作法とか食事のマナーとか、あと普通に勉強も教わりたくて。もちろんロレンス様のお時間が許す限りで構いませんから」
ここぞとばかりに畳み掛けると、ロレンスは感心を通り越して呆れたみたいに笑って頷いた。
「……仕方ないな。夕飯の後、エリンちゃんに浴室の順番が回ってくるまでで良ければ」
「……ってことは、これから毎日お時間いただけるのですか!?︎」
「まあ、お互いにここにいれば」
「ありがとうございます!!︎」
よっしゃ、と心の中で拳を握る。半ば以上勢いもあったのだが、よもやここまで上手くいくとは思わなかった。この寮に捩じ込んでくれたレジーナとフィリップ様々である。
そうと決まれば時間を無駄にはできない。まずは何を教えて貰おうかと考えを巡らせていると、殿下も食堂に来た。殿下が立っているのに私が座っているわけには、と立ち上がろうとすると片手で制される。
「今日はこれだけか。では、いただくとしようか」
結局、夕食を終えて各々が部屋に引っ込んでもフィリップとレジーナは戻って来なかった。
二人のことは心配だが、とはいえ気にしていても仕方ない。私は私でやることがある。
「ロレンス様、今よろしいでしょうか?」
そう、朗らかに言ってロレンスの部屋の扉をノックした。ちなみに部屋の場所は一階の奥、フィリップの部屋の真下である。
「どうぞ、入っていいよ」
返事を聞いて「失礼します」と扉を開ける。
「扉は閉めて構いませんか?」
「ああ、うん。いいよ。ここには変な誤解をする人はいないから」
扉を閉めて、改めて部屋の中を見渡す。間取りはやはり私や殿下の部屋と同じで、置いてある家具も変わらないように見えた。だが、この部屋にはちゃんとそれ以外の物があった。
部屋の中央にはテーブル。それを囲むように二脚の椅子。ロレンスはその一方に座っている。加えて、壁には大きな本棚。何やら難しそうな書籍がズラリと並んでいる。印刷技術が確立されつつあるとはいえ、いまだに高級品の本をこれだけ個人で所有しているとはさすが侯爵家嫡男。
「今日は時間もあまりないかと思いますので、今後のことについてお話させていただきに参りました。よろしくお願いいたしますわ。大したお礼はできませんが、私にできることがあれば何でもいたしますのでお申し付けください」
「……とりあえず、座って。そんなに堅苦しく話さなくていいよ。あと、お礼はちゃんとしてもらうから。僕の仕事手伝ってね」
「はい! 私にお手伝いできることでしたら喜んで」
椅子に座らせてもらって、改めて正面に座るロレンスを見る。
眼鏡をかけた知的な美男子と巨大な本棚……実に絵になる光景だ。私が殿下に恋していなければうっかり惚れていたかもしれない。というか改めて考えれば、殿下は言わずもがなフィリップやレオンも客観的に見れば充分に美男子だ。
この寮に捩じ込まれた私……相当に妬まれているのでは……。
「それで……貴族の作法と勉強、どっちを教わりたい?」
ロレンスに尋ねられて、はたと我に返る。それは正直どっちも……なのだが。
「ひとまず、勉強の方をお願いしたいです。五月の試験で、上位五名に入りたいので」
ロレンスの視線が、何かを思案するように右下に流れる。
「…………それは、はっきり言うけど、難しいと思う」
「試験が難しいのですか?」
「いや、その逆。最初だから、さほど難しい問題は出ない。だから、上位五人に入るなら最低でも全教科満点を目指すべきだ。そもそも、それなりの家の出であれば学園で学ぶようなことは既に学習済みってのも珍しくない。だから最初の試験は満点も多い。さすがに、全教科となると限られはするけど」
「……だから、平民の私では難しい、ですか?」
「うん。君がどれだけできるかは知らないけど。さすがに幼い頃から家庭教師が付いてた人には敵わないでしょ」
「そうですね。でもそれなら、今から追いつきます。どの範囲を覚えればいいですか? 頻出問題とか、毎年の傾向とかわかりますか?」
ロレンスは呆れたみたいに苦笑した。
「……君の辞書には諦めるって言葉は載ってなさそうだね」
「そんなことは……ございません。私にも、諦めたくなる瞬間はありますわ」
「へえ。例えば?」
例えば……無謀な夢だと諭された時とか、本を読んでいてもさっぱり意味がわからない時とか、やりきった感を感じちゃった時とか。
けれど、それを言葉にすればまた諦めたくなりそうで、私は首を横に振った。
「それを私に言わせるのは野暮ですわ」
「……それもそうか。傾向ね……僕も自分が受けた時のことしか知らないんだ。知り合いにも聞いてみるよ。さて……そろそろ浴室が空く頃かな」
「あっ、そうですね。長居してすみません。私はこれで失礼いたしますわ。また、よろしくお願いします」
ゆっくりと立ち上がって、できるだけ優雅に礼をする。ロレンスが不意に手を伸ばして、スカートの裾を掴む私の指先に触れた。下から軽く押し上げるように位置を直される。
「もう少し上……うん、この方が綺麗に見える。あと、頭は下げすぎ。髪が崩れてしまうよ」
手の位置、腕の角度、この瞬間の感覚を頭に叩き込む。
「……はい。ありがとうございます」
翌日の朝食の席では、既にレジーナとフィリップはいつも通りのおしどり夫婦に戻っていた。それはつまり、あの瞬間の魔法が解けたフィリップを見たのは、私とレジーナだけということで、この先ずっと彼の魔法が解けることはないのだろう。それはやっぱり、寂しいことだと思った。
馬車で揃って学園まで移動して、いつもは校舎が違うからすぐに別れるところ、なぜかフィリップが私たちに付いてくると言い出した。
「フィル、付いてこられなくても平気ですわ」
「僕が安心できないから」
「ですが……フィルがいては逆に目立って」
「目立つくらいでいい。ほら、行くよジーナ。ああ、あと君も」
ついでのように声をかけられて、私も二人の後について歩き出す。そうして間もなく、どうしてフィリップが付いてくるなんて言い出したのかがわかった。
突き刺さるような視線が、昨日よりも圧倒的に多い。そして隠す気もなさそうに囁かれる言葉は、レジーナの魅了魔法を疑う声だった。レジーナの言った通り、どこかから漏れたのだろう。それにしてもさすがに早過ぎはしないかと思うが。
周囲の視線と声を無視して、西校舎の前まで来た時レジーナが立ち止まった。
「ここまでで、大丈夫ですわ」
「教室まで行く」
「さすがにそこまでされては、私が見くびられますわ」
「…………そう。わかった。じゃあ、またお昼にね。ジーナ」
フィリップが自然な動作でレジーナの手の甲に口付けて、踵を返そうとした時だった。




