稀代の悪女
教室を出て、ロータリーに向かうとこの時間でもチラホラと馬車が停まっていた。特に寮付きの馬車が決まっているわけではないらしく、適当な御者を捕まえて番地を伝えると快く乗せてくれる。
柔らかい椅子に背を預けると、どっと力が抜けた。相変わらず馬車とは思えない快適さだ。初日から色々あったなあ、と思いながら正面に座るレジーナに視線を向けると、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
どこか儚げな姿に、少し迷って声をかける。
「……事態が、どう転んだとしても、私は味方でいますから」
振り向いたレジーナが軽く目を見開いた。
「ありがとう。でも、いいのよ。貴女にはこの学園での大事な目的があるでしょう? 私のことは別に、邪魔になったら切り捨ててくれても」
「それはだめです。というか、レジーナがそれを言わないでください。レジーナにだって、目的があるはずです。そのためなら、使えるものはすべて使うべきです。私では、あまり役に立たないかもしれませんが……」
でないと、フェアじゃない。私だってレジーナを利用しているのだから。
「…………目的、なんて、ないわ。私は、エリィみたいに強くないもの。ずっと流されてきて、今だって自信がなくて。フィルに……自分の気持ちも伝えられない。だって……だって絶対にフィルの方が私のことを好きなのよ! 私は、フィルが私を好いてくれるほどフィルのことを愛せないから、自分の気持ちに自信が持てなくて」
いや、あの熱量で愛するのは無理だろう。
「好きって、競うものじゃないと思います。私にはちゃんと、二人が両想いに見えてましたよ」
「……そう。ねえ、エリィなら……」
レジーナは何かを聞こうとして、言い淀む。
「私なら、ですか?」
「……ううん。これを聞くのは、ズルいわね。決めたわ。ありがとう」
静かに決意を滲ませる眼鏡の奥の薄紫の瞳を見返して、かっこいいなと思った。上品で、髪の毛もふわふわしていて、いかにもお嬢様といった風なのに。
「レジーナは、強いですね」
素直に称賛の心持ちでそう言ったら、レジーナは驚いたように目を見開いて、それから苦笑いした。
「エリィほどでは、ないわよ……」
「え」
自分がちょっと逞しい人間だという自覚はあるけど、なんでそんな引き気味に言うんだ。
「それに……私が強そうに見えるなら、エリィのおかげだわ」
「いやいや。私は何もしてませんよ」
「ううん。本当に……エリィのおかげよ。私、フィルとちゃんと話すわ。それで……どうなったとしても、もう貴女のことは巻き込まないから」
「レジーナ」
まだそれを言うのかと、咎めるように名前を呼ぶとレジーナは正面から私を見返した。
「エリィは優しすぎるわ。私は……魅了魔法で公爵家の嫡男を誑かして、子爵家の出でありながらその正妻の座に収まった稀代の悪女なのよ。味方をして、いいことなんて一つもないわ」
開き直ったみたいに言い放ったレジーナを、負けじと私も見返して笑った。
「それなら私だって、平民の出でありながら王の妾になるんですから、悪女の友人としては充分ではございませんか?」
「ふふっ、そこまで言うなら王妃になって見せてちょうだい」
「え。いや、でも殿下には婚約者が」
「フィルにだっていたわ。私はその座を奪ったのよ。私の友人を名乗るのなら、それくらいはしてもらわないと」
言われて初めて、その可能性に思い当たった。公爵家の嫡男だ。幼い頃から決められていた許嫁がいたって何も不思議はない。すべての段取りを立てた上で、というのはその許嫁との婚約破棄も含まれていた。
「……そうですね。婚約者の座を奪うくらいの気持ちで、私もいますよ」
それくらいでないと、どうせ側室にだってなれない。私が欲しいのは殿下の心であって、彼を支えられる場所であって、側室という地位ではないのだから。側室を持つ気がないらしい殿下を、それでも側室を持つ気にさせるなら、そんなのもう正妻すら上回る存在になるしかない。
きっと私もレジーナも半分は強がりで、半分は結構本気で、視線を交わした。でもこれは、微塵も冗談なんかじゃなかった。
帰寮したのは十七時を少しまわった頃だった。道中でフィリップの姿を見ることもなく、玄関の扉を開けると待ち構えていたアンナが真っ先に駆け寄って来た。いつもはきっちり結えている黒のお団子から数本毛先が飛び出ている。
「レジーナ様……! おかえりなさいませ。エリン様、奥様を連れ戻してくださりありがとうございます」
「アンナ、ごめんなさい。心配をかけて」
「いえ……フィリップ様が、レジーナ様のお部屋でお待ちです」
ヒュッとレジーナの喉が細く音を立てたのが聞こえた。レジーナの予想に反して、フィリップは探しには行かずに待つ方を選んだらしい。
「……わかったわ。すぐに行くわ」
振り返らずに歩き出したレジーナを見送って、私もひとまず荷物を置きに反対方向にある自室へと向かった。
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レジーナが自室に入ると、フィリップは寝台に座って待っていた。レジーナに気がついて顔を上げると、柔らかく微笑む。
「おかえり、ジーナ」
「……ただいま、フィル」
レジーナが続ける言葉に迷った僅かな間に、フィリップは立ち上がるとレジーナに近づいて言った。
「何も言わなくていいよ。だいたいわかってるから」
レジーナの目が驚愕に見開かれる。
「ッ……い、いいわけが」
「いいんだよ。君はちゃんとここに戻ってきた。明日からも君は僕の隣にいる。それで充分だ」
フィリップの手がレジーナの頬を撫でる。繊細な陶磁器にでも触れるように、ゆっくりと指を滑らせる。
「…………良い、わけが、ございませんわ。私は……フィルに」
「何もしていない。それでいいでしょ」
言い含めるみたいに言ったフィリップに、レジーナはぐっと奥歯を噛み締めた。彼が全部わかっていることを、その瞬間にレジーナは察してしまった。
「……違っていてくれればと、思っていました。ごめんなさい、フィル」
レジーナの手が持ち上がって、そっと、頬を撫でるフィリップの手に触れた。
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ばたん! と大きな音が聞こえて、自室でふかふかの寝台に倒れ込んでいた私は飛び起きた。
何事かと扉を開けて部屋の外を見ると、吹き抜けを挟んでちょうど真正面にあるレジーナの部屋の扉が開け放たれていた。先程の音は扉を乱暴に開けた音だろう。そして。
「ッ……レジーナ!」
階段を駆け降りる姿を見とめて声をかけるも、レジーナはそのまま玄関の扉から外に飛び出していってしまう。慌てて後を追おうと私も階段を二段飛ばしに駆け降りて玄関の扉に取り付いたところで、背後から肩を掴まれた。
「待って」
鬱陶しく思いながら振り返ると、フィリップがいた。今しがたまで、レジーナと話していたはずの。
「ッ……フィリップ様、レジーナと何が」
「レジーナのことは放っておいて。後で僕が行く」
「後でって」
言いかけて、無視できない違和感に言葉を飲み込んだ。今、フィリップはレジーナのことを。
「レジーナは今冷静じゃない。少し頭を冷やせば、どうせ自分で戻ってくる」
「……なんで、ジーナって、呼ばないんですか?」
それだけじゃない。レジーナが飛び出して行ったのに、今のフィリップはいっそ奇妙なほどに淡白に見える。まるで、憑き物が落ちたような。魔法が、解けてしまったみたいな。
「…………わかってるんじゃない? まったく……やられたよ。レジーナが、まさか自分で魅了を解いてくるなんてね。君の入れ知恵?」