僕が彼女を愛するほど、彼女は僕を愛していない
殿下の話を聞きながら、私の心はどうしようもなく浮き立っていた。ここにあるものはまさに未知の代物なのだ。実現できたなら、それはきっと歴史に名を残すほどの偉業になる。無謀な挑戦なのだろう。何の意味もないのかもしれない。それでも、誰より先に挑んだ軌跡がここにはあるのだ。
「このような先の見通しがない部活動に、なぜ殿下は所属しておられるのですか?」
不思議そうに尋ねたレジーナに私は地団駄を踏みたくなった。どうしてわからないのか。なぜそんなにも退屈そうな顔をしているのか。だって、こんなにも。
「ロマンがあるじゃないですか!」
「ロマンがあるだろう?」
ハモった。レジーナが目を瞬いて、ふふっと笑う。
「お二人とも、仲がよろしいですのね」
「あっ、いえその……! 私などが殿下と言葉を合わせるなど、大変、失礼を……」
「くくくっ、構わないさ。エリン嬢は、合格だな」
「えっ、合格? 何がですか?」
動転して尋ねた私に、殿下は笑顔で答えた。
「入部試験だ。入部条件は二つ、一つはこの環境に適応できること。もう一つは、この活動に意義を見出せることだ」
「やっ……あ、その、ありがとうございます」
思わず歓喜の叫び声を上げそうになり、慌てて取り繕う。
「入部する気は?」
殿下からの勧誘。そんなの二つ返事で「ある」に決まってる。決まってるのだが。
「その……私では、活動費が、払えませんので」
現状において私の所持金はゼロである。家族には受験勉強の間もかなり助けられたし、これ以上の迷惑をかけられない。きっと言えば少しは持たせて貰えただろうが、ここは教本も食費も基本的な学業と衣食住に関わるものはすべて、平民ならば提供してもらえる。というか本来はそれらすべての額が学費に含まれるのだが、平民はそれが免除される。つまるところ、所持金ゼロだろうが行き倒れることはあり得ない。
「エリィ! よければ、私が支援するわ」
レジーナの声に、私は伏せていた顔を上げた。
「いや……さすがに、それは」
とてもありがたいけれど。きっとそれくらい払ったってレジーナは痛くも痒くもないのだろうけど。
「気にしないで。私はエリィのお友達だもの。友達が困っているのなら、助けるのは当たり前よ」
ありがたい申し出だとは思った。でも、私はどうしても頷けなかった。なんでだろう。甘えてしまえばいいのに。プライドも何もないのに。彼女は私にはない地位とお金を持っていて、私は何も持っていなくて、持つ者が持たざる者に施すのは、何も不思議なことはない。なのに。
「……それは、遠慮します。私は、お金を出してもらうためにレジーナと友達になったわけではありませんから」
「そんなことは思っていないけれど……本当に遠慮しなくていいのよ?」
なんとなくそれは、越えてはいけない一線な気がした。私とレジーナがなんとなく気まずくなっていると、それまで傍観していた殿下が口を開いた。
「なら、成績上位者を目指すといい。学年で上位五人に入れば、学園から活動費を支給して貰える。上限はあるが、それならば充分に足りるだろう」
レジーナがパッと笑顔になる。え?
「エリィ!」
「さ、さすがに上位五人は……」
無理だ。無理に決まっている。ただでさえ平民は貴族のような教育を受けていない。裕福な商家の出とかならまだしも、私はレジーナに教えてもらったとはいえほぼ独学だ。幼い頃から教育を受けている貴族と張り合えるはずがない。
「エリィならきっと大丈夫よ! 頑張りましょう!」
薄紫色の瞳を輝かせるレジーナを見返して、表情の読めない殿下を見て、私はそれで覚悟を決めた。この学園を受験した時だって充分に無謀だったのだ。
「はい。頑張りますわ」
胸を張って、レジーナの瞳を正面から見返した。逆境でこそ、胸を張るべきだ。堂々と立ち向かって見せるべきだ。それは自分への鼓舞でもあり、周囲を黙らせる圧力でもある。そう教えてくれたのは、シンだった。
殿下の部活動案内は、残念ながらそこまでとなった。レジーナが入部試験に落ちたから……ではなく、殿下が忙しかったからだ。どうやら昼休憩のついでに声をかけてくれたらしく、慌しく行ってしまった。
そういうわけで、私とレジーナはその後再度学内を一周見物してから帰路についた。
「遅かったね」
帰尞して早々、玄関先でフィリップが待ち受けていた。
「ただいま戻りましたわ。遅くなり申し訳ございません」
レジーナがにっこり笑って言う。口では謝罪しているが、少しも謝意は感じない。ちなみに全然遅くもないと思う。まだ時刻は十六時を少し過ぎたところだ。
「……ジーナ、先にシャワー浴びる?」
「え? 先に使ってしまってよろしいのですか?」
「ルキウスはどうせ遅くなるし、別にいいでしょ。君の汗の匂いも好きだけど、早くさっぱりしたいんじゃない?」
言いながらフィリップは鼻先をレジーナに近づける。美男子だから絵になっているが、でなければ変質者にしか見えない。レジーナは呆れたみたいに苦笑する。この程度は慣れっこなのだろう。
「そ、そうですね。では、お先に使わせていただきますわ。エリィ、また夕食の時に」
「はい! 今日はありがとうございました」
「こちらこそよ」
また後でね、と言い置いてレジーナはパタパタと自室に向かって行った。
「で?」
フィリップはレジーナに向けていた優しげな顔とは打って変わって、カケラも興味のなさそうな目で私を見下ろす。長めの前髪の奥に見える瞳が、よく見れば少し紫がかっていた。
「ここで話していいんですか?」
「…………食堂で話そう」
フィリップと共に食堂に移動すると、そこは無人だった。フィリップに目線で促されて、私ははっきりと断言する。
「レジーナの意中の方は、フィリップ様です」
「……違う」
「違くないです。どうしてそう思われるんですか?」
「見てればわかる。僕が彼女を愛するほど、彼女は僕を愛していない」
いや、それはそうだろう。フィリップは少しばかりでなく愛が重すぎる。それと同じだけを彼女に求めればそれはその通りだ。
「ともかく……レジーナは他の殿方に心移りなどしておりません。それで良いではないですか」
「…………でも、レジーナは君といる時の方が楽しそうに笑う。まさか……」
フィリップが目を眇める。
「いや、だって私たちは友達で……」
「よく考えれば、同性だからって恋愛感情を抱かないわけじゃない」
はい?
「あり得ません! 私が好きなのは殿下です!」
「知ってる。君の気持ちはどうでもいい」
「レジーナが私に片想いしてるとでも言う気ですか?」
「可能性は否定できない」
言い返そうとして、言葉を飲み込んだ。冷静に考えて、彼の言っていることは私には否定できないと思ったから。片想いというのはレジーナの主観で、その真偽は私たちにはわからない。無論、あり得ないことだ。レジーナは確かにフィリップを好いている。だが、彼女がものすごい演技派で私を欺いたのだとしたら。その可能性だって、否定はできない。あくまで可能性は。
「奥様のことを、信じて差し上げないのですか?」
「信じてるよ。彼女は不貞はしない。でも、僕がどうしようもなく彼女に惹かれたように、彼女にもそんな相手が僕以外にいるのかもしれないだろう」
もうこれは、何を言っても無駄かもしれない。それこそレジーナ本人から愛の告白でもされない限り、いや、例えされたとしても疑い続けるのではないのだろうか。恋とは、愛とは、そんな風にパートナーを疑うことだっただろうか。