殿下の側室になりたいです!
僕は今、夢を見ている。そう直感した。
いつもより格段に高い視点。手摺の上に置かれた自分の手も大きい。大人の手だ。そして、手摺の向こう、眼下に広がる広場には数多の民衆の姿。
「信じられませんわ」
感慨深い呟きが隣から聞こえて、顔を向けた。そこには艶やかな黒髪をなびかせて立つ一人の女性。身にまとったドレスは輝かしいばかりの白。顔はベールに覆われてよく見えない。けれど、その凛とした佇まいには美しさを感じずにはいられない。
僕がその堂々とした立ち姿に見惚れていると、その女性は続けて言った。
「あの日、あの広場から見上げた貴方の隣に、今の私が立っているだなんて」
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それはきっと、一目惚れというものだった。ひと目見た瞬間に恋に落ちた。太陽の光を反射する美しい金髪、凛々しく堂々とした面立ち、華奢ながら引き締まった体躯、誰もが見惚れた美少年に、例外なく私も見惚れた。
周囲の大人たちが歓声と共に叫ぶ名前を、少し照れ臭く思いながら口の中で転がした。
「…………ルキウス、殿下……」
あれから、八年。
緑豊かな庭園を割くように伸びる舗装道。そこを堂々とした足取りで歩くその人に、男も女も足を止めて目を向ける。その周囲に付き従うように行く人もまた美男子揃いだ。しかし、私の瞳は中央を歩く彼しか見ていない。
初めて見たあの日から変わらない金の髪、一層麗しくなった顔の造形、男らしく引き締まった体つき。どこを取っても最高だ。彼の名はルキウス・クランディール。ここ、クランディール国の第一王子にして次期王位継承者である。
興奮を落ち着けようとスゥッと深く息を吸い込む。ああ、どうしよう。顔がにやけてしまいそうだ。ずっと遠くにいたはずの彼と、遂に今日から、同じ学園に通える……!
王都中央学園。十五歳で入学して十九歳まで、四年間。学園に通えるのは貴族の子弟たちに加え、熾烈な学力争いを潜り抜けたごく少数の平民だけだ。熾烈な、とはいえろくに教育を受ける機会のない平民ではそれでも貴族の平均的な学力に届けば良い方ではあるけれど。
「おい」
「…………はぁ」
「おい!」
「…………かっこいい……」
「無視すんなエリィ!」
背後から再三かけられた声が自分に向けられたものだと気がついて、無理矢理殿下から視線を引き剥がして振り返った。
「えっ、リタ。なんであんたがここに……」
リタ。平民に家名なんてない。家が近くて幼馴染。ただそれだけの関係だ。いつもはボサボサの茶髪を今日はきれいに撫でつけている。
「俺も受かったからに決まってんだろ」
「………………はぁ?」
たっぷり三秒は理解するのに時間を要した。それくらい信じがたかったのだ。
「はぁ? ……ってなんだよ。見ろよ、これ!」
そう言ってクイクイと自分のジャケットを主張する。よく見ればそれはこの学園の制服だ。殿下と違って似合っていないから同じ服と気づかなかった。
「リタの分際で殿下と同じ服とか……」
「なんだよ! ここじゃ貴族も王族も平民も平等なんだよ! てかお前……張り切りすぎだろ…………」
そう言ってフイと視線を逸らしてしまう。
「そりゃあ……張り切るに決まってるじゃない。殿下の視界に入るんだから」
今日は紺色のブレザーの制服をきちんと着こなした上でミディアムボブの黒髪を頑張って編み込みにしてきた。今日のために練習した髪型だ。それに化粧もしている。化粧品は高級品だから薄いけれど、しないよりはマシだろう。慣れない身支度に苦戦してたっぷり二時間はかかった渾身の出来である。
だというのに、リタの言葉は無慈悲だった。
「なんだよその髪」
「すごいでしょ、頑張ったんだよ」
「ふぅん……変だけど」
「えぇ!?︎ 嘘でしょ!?︎」
ぽつりと、けれどもはっきりと断言されて崩れ落ちたくなった。愛しの殿下の視界に入るのだ。精一杯のおしゃれをしてきたというのに。それが変な髪型だなんて……。
「おい、新入生か? 一年の教室は向こうだぞ」
突然背後から低い重低音で声をかけられて跳び上がりそうな勢いで振り返った。気がつけばすぐ目の前まで殿下が来ている。だが、殿下が直々に声をかけるはずもなく、私に声をかけたのは護衛らしき男、その一である。
ツンツンした短髪は赤く、筋骨逞しいのが制服越しにもわかる。見るからに体育会系の人だった。
「は、はい! すみませんっ、ありがとうございますっ!」
「別に怒ってないんだが……」
「はは、レオは体が大きいから怖いんだよ。大丈夫? 教室の場所わかるかな?」
横から覗き込むように来たのはその二。柔らかそうな薄く緑がかった髪、深緑の瞳が美しい、眼鏡をかけた見るからに知的な人だ。
「あ、ああああの。はい。わかります! すみません! ありがとうございます!」
勢いのままに捲し立ててほとんど直角にぺこりと頭を下げると、小走りでその場を離れる。殿下が二学年上だからここまで見に来たのだが、リタが来たから立ち去るタイミングを逃してしまった。あれ、そういえば。
「リタはなんでこっちにいたわけ?」
私の後を追うようについて来ていたリタを振り返る。彼だって私と同学年なのだからこっちに用はないはずだ。
「え、なんでって……」
「うん」
「だから……」
「どうしたのよ」
それでも言いづらそうにもごもごしてから、リタは吐き捨てるように言う。
「…………迷ったんだよ! それだけ!」
「え……嘘でしょ……?」
この学園は地理的にかなりわかりやすい方だと思う。少なくとも私たちが住んでいた路地が入り組む町外れよりはよほど覚えやすい。
正面入り口が南側。北側には裏門。入って左へ進めば西校舎。こちらには一年生と二年生の教室がある。右へ進めば東校舎。三年生と四年生の教室がある。真っ直ぐ東西の校舎を越えて奥へ行けば中央校舎があり、大広間や食堂がある。
左と右を間違えるなど、余程の方向音痴でもなければあり得ないし、リタが方向音痴などという話は聞いたこともない。
「うるさい! さっさと行くぞ!」
信じられない以上に心配すらした私に、顔を真っ赤にして怒鳴ったリタは私を追い抜いて行ってしまった。
「はいはい……」
ため息をついて後を追う。それにしても、五人しか枠がない平民枠にリタが滑り込むとは、驚きだ。要領がいいのは知っていたが、ここまでとは思わなかった。
教室に着くと、既に席は七割がた埋まっていた。全部で五クラス、平民はそれぞれのクラスに一人ずつだからリタとは別のクラスになる。席に座る面々はさすが、貴族らしい気品を漂わせていて気後れしてしまいそうだ。
「おはようございまーす……」
聞こえるか聞こえないかくらいの音量で挨拶して教室に足を踏み入れる。校舎のどちらかというと地味な外観と違って内装は豪華だ。床には高価そうな赤い絨毯が敷かれ、席は革張りのソファ、テーブルも十分な大きさがある。空間はゆったりと余裕をもって使われ、僅か十五人しかいない教室では少し広すぎるくらいだ。
物珍しく眺めていると、その中に見知った後ろ姿を見つけた。
「……レジーナ様!」
呼ばれた女生徒がパッと振り返る。緩く三つ編みにした色素の薄い髪に、小さな顔には少しばかり大きい眼鏡をした可愛らしい女の子。薄紫色の瞳が瞬いて、私を見とめるとふわっと笑顔を浮かべて立ち上がった。
「エリィ! 合格したのね! おめでとう。きっと会えると思っていたわ」
互いに歩み寄ってキュッと手を握る。彼女の手はすべすべしていて柔らかい。それに対して私の手は固くてカサカサしているのが恥ずかしかった。
「ありがとうございます。レジーナ様のおかげです」
「ふふっ、私は大したことはしてないわ。努力したのはエリィよ」
レジーナとは図書館で知り合った。聞くところによると子爵家の令嬢らしい。国民なら誰でも入れる図書館だが、いるのは学者ばかりだ。平民はそもそも文字が読めない人間も少なくないし、貴族は自分で買えるから用がないのだろう。私はそこに通い詰めて勉強していて、レジーナもまたそこで読書に勤しんでいた。
「そんなこと……! レジーナ様がいなければ、わからなかったこともたくさんありました」
「そう? でも、同じクラスになれて嬉しいわ。今日は素敵な髪型をしているのね」
「え……? そうですか? さっきリタに変って言われちゃって、解こうかと」
言いながら、髪に手を伸ばすとレジーナが身を乗り出してきた。
「ええっ! もったいないわよ! とても綺麗に結えているわ。誰かにやってもらったの?」
驚きつつも、手をおろす。
「いえ、自分で……けど、変じゃないなら良かったです。ありがとうございます!」
「少しも変なんかじゃないわ。それで……殿下には会えたの?」
レジーナが内緒話でもするように、そう声を潜めた。少しばかり頬が熱くなる。
「はい……! こんなに近くで拝見できる日が来るなんて、夢みたいです……!」
「ふふっ、良かったわね。でも、今からそんなんじゃ……」
「わかってます! 絶対、仲良くなるんですから」
私の決意表明にレジーナはにっこりと笑った。
「応援してるわ。あ、そうだ。紹介しておきたい方がいるの。歓迎会の時に少し時間をもらえる?」
レジーナの誘いを断る理由などない。
「はい! もちろんです!」
そう、二つ返事をしたところで予鈴が鳴った。慌てて手近な席に座る。柔らかなソファに思った以上に腰が沈んで少し驚いた。見たところ私しか驚いていないから、きっと貴族は普段からこういうのに座っているのだろう。
談笑していた他の生徒たちもそれぞれに適当な席に座ったところで、教室の前の扉が開いて大人が入って来た。だらしなく着崩したシャツに、伸ばしっぱなしなのか少し長めの黒髪を雑に首の後ろで括っている。前髪の隙間から覗いた金色の瞳が私を見た気がして……ふと既視感を覚えた。
「よし、全員揃ってるな。とりあえず、自己紹介からする。俺はシン・グレイス」
「あっ」
思わず声を上げてしまってからパッと口元を覆うが、その必要はなかった。声を上げたのは私だけではなかったからだ。教室が一瞬ざわついた。それを予測していたようにシンは笑みを滲ませる。
「そう、グレイス」
そう呟く声は、まるで自嘲するかのようだった。
「本職は宮廷魔道士だけど、今はこのクラスの担任だ。あと、魔道学の授業担当でもある。よろしく。じゃ、次はお前らの番だ。そっちの席から……」
その後、順にクラスメイトが名乗っていったが、まるで頭に入って来なかった。
グレイスとは名門の公爵家だ。名高い公爵家はいくつかあるが、その中でも頭ひとつ抜きん出ていると言っていい。おそらく教室が騒めいたのはその名を聞いての動揺。
だが、私は別の意味で動揺していた。
なんで、シンがグレイスの姓を名乗っているの……?
私がまだ幼い頃、近所に住んでいた兄のような人。いろんなことを知っているお兄ちゃんで、いろんなことを教えてくれた。私もリタも彼から文字を教わった。そのシンが、どうして……。
「エリィ、次よ」
「あっ、はい! ……わっ」
レジーナに声をかけられて、我に返って慌てて立ち上がった拍子にテーブルに足をぶつける。クスクスと忍び笑いが聞こえて、カッと頬が熱くなった。
「え……えと、エリン、です。エリィって、みんなからは呼ばれてます。そ、その……私は!」
ごくりと生唾を飲み込む。ここから始まるのだ。私の学園生活が。こんなところで、俯いていていいわけがない。顔を上げて、深く息を吸い込む。覚えて行け、私の名を。記憶に刻みつけておけ。
「殿下の側室になりたいです!」
シンとした静寂が教室を包んだ。「よろしくお願いします」と頭を下げて着席しても、しばらく静寂が続いた。そこにあるのは驚愕ではない。戸惑いと、呆れ。そういう沈黙だった。数秒後、我に返った次の生徒が話し始める。
後悔などない。これでいい。いじめられたって構わない。馬鹿にされるくらいでちょうどいい。
「……負けない」
誰にも聞こえないくらいの小さな声で呟いて、テーブルの下でグッと拳を握る。私はこれから、王の寵愛を受ける者だ。