1.勇者の召喚
夏の暑さも落ち着いてきたころ、拓斗はいつものように教室で授業を受けていた。高校生になって初めに自分の頭の限界を感じた科目である、倫理の時間だった。
教師は楽しそうに偉人の名を呼び、彼らのエピソードを語る。そのどれもが拓斗にとっては理解不能で、果たして授業を聞いているのか夢を見ているのかわからなくなるほどであった。そしてそんなときはたいてい教科書を両手にもって開いたまま机に突っ伏していた。そのためその日も、教科書を手にしたまま異世界へと召喚されることとなった。
「ぶほっ」
急に寝床になっていた机がなくなり、タクトは地面に顔から打ち付けられた。落ち葉の中にまばらに草が生えているおかげか、衝撃はそれほどではなかった。痛みが治まってくるとともに、タクトは自分が置かれている状況の異様さに気づく。あたりは深い森で、夜の闇がすぐそこにあった。そしてタクトの目の前には、西洋風の鎧を着た兵士が剣を構えていた。暗い中でも怪しく光るその剣は、今まさに何かを斬らんと振り上げられたところであった。しかし兵士はその剣を振り下ろすことはなく、
「自分の腕を使って召喚したのか。狂っているとはきいていたが噂通りだな、宮廷魔法使いリリス」
「尊大な誉め言葉だな。諦めの悪さはいかなる時でも役に立つ美徳だぞ」
兵士が声をかけたのはタクトの後ろにいた女であった。
ところどころ破れたローブに身を包み、髪は乱れ、呼吸も苦しそうな様子であるのに、リリスはその瞳にまだ強い意志を宿していた。
タクトはその碧色の瞳に目を奪われた。自分が置かれている状況がいったい何なのか考えることすら忘れさせるほど、その瞳は彼にとって魅力的に感じられた。どことも知れぬ場所で、誰とも知らぬ者たちに囲まれた中、唯一理解し共感できたのがその瞳であったからかもしれなかった。
その思いを知ってか知らずか、リリスはタクトの方へ目をやり、
「勇者様、少しお力をお貸しください」
「はい」
心が勝手に口を動かすことがあるのかと、呆然としながらタクトは答えた。
リリスは半歩ほどの距離しか離れていないタクトの方へ近寄るのにも苦労する様子であり、タクトは自然とリリスの方へ手を差し伸べた。そうしてリリスの右手の中指がタクトの左手へと触れ、そのまま手を握った。タクトは細くて長いきれいな指だ、などと思っていたが、よくみると血がついており、兵士との争いの過酷さを物語っていた。
「吸収」
リリスがそうつぶやくと、タクトは体から力が抜けていくのを感じた。意識が飛ぶ寸前、リリスの足元には大量の血が流れているのを見つけた。自分のことよりも、彼女の身が無事であることを祈りながらタクトは目をとじた。
「勇者から力を吸い取ったのか?ひどいことしやがる」
兵士はそういいつつ、警戒を強めた。
兵士とリリスのいた国は、悪政によって民が暴動をおこし、革命が起きた。その国でリリスは史上最年少で宮廷魔法使いとなった天才であったのだが、革命軍にとっては最も大きい障害となるであろうと伝えられていた。これまでの戦いで互いに多くの犠牲を払いながら、ようやくあと一歩のところまでリリスは追い込まれていたのである。
そんなリリスがとった行動は、宮廷魔法使いにのみその術式が伝えられている勇者召喚の儀であった。それは人間の肉体を贄として、異世界から勇者を呼び出すというものだった。
リリスは普段から異世界の知識に興味があり、いつかはと思っていたのだが、国が平常であった時にはその贄を用意することはかなわなかった。しかし追い込まれた彼女は、自らの左腕を贄とすることでその儀式を遂行させてみせた。
本来人間一人分の肉体が必要なため、呼び出された勇者は不完全な状態であった。それは彼の肉体そのものを呼ぶことはできず、その知識と記憶をもった精神のみこちらの世界に呼び出した、幻影としての召喚になった。
リリスにとってはそれで十分だった。彼はリリスの左腕にもともと宿っていた魔力を引き継ぎ、さらに彼本来の精神に宿る魔力ももっていた。それをリリスはすべて吸収し、その魔力でもって回復魔法を行使し傷もふさいだ。召喚の贄として失くした左腕は元に戻せなかったが、こうなれば彼女にとって目の前の兵士など恐れるにたりないものだった。
「形勢逆転だ。安らかに眠れ」
リリスはせめて苦しまぬようにと、一瞬で兵士の肉体を消滅させた。