第十九話 香水
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何者かにメモリーレムが奪われてから、三日目の朝が来た。
レイは今回の失敗を上層部にきつく責められたようで、本部から戻るや否や、記録庫に閉じこもった。悔しさや屈辱、何も出来なかった不甲斐なさを打ち消すかのように、暗号の陣についての書物を読み漁っていた。誰が声をかけても、返事はするが心ここにあらずとでも言うかのように、その顔は何かを考え続けている。
「学校、行ってくるね」
ミユウは記録庫のドア越しにレイに声をかけた。日の光の下で本を開いていたレイの横顔はどことなく青白く、頬は痩け、無精髭を生やしている。もともと細い身体は、ますます細く感じた。
「ご飯くらい食べてね」
レイはふと本から顔を上げると、今気がついたかのようにミユウを振り返り僅かに笑んだ。
「ああ、ミユウ。気をつけて行っておいで」
そう言うと、再び本に目を戻す。ミユウは何かを諦めるかのように小さく息を吐き顔を下に向け、そっとドアを閉めた。
圭がガレージから自転車を出していると、後ろから「圭くん」と呼ぶ、軽やかな声が聞こえてきた。振り向くとミユウが自転車に跨って立っていた。圭は眉を上げて「おお」と小さく声を上げた。
「おはよう」
「おはよう、自転車買ったんだ?」
「そうなの」
ミユウは嬉しそうに返事をすると、ゆっくりと漕ぎ出した。圭はミユウの後に続いて自転車を走らせる。
「昨日、買ったの」
隣を走るミユウは嬉しそうに言った。
「自転車なんて、初めて」
「え?初めてなの?」
圭は心底驚いてミユウを見ると、ミユウは「うん」と前を向いたまま返事をした。
「すごい!初めてにしては上手いね。普通、なかなか乗れないよ?」
「そうなの?でも、カージスより簡単よ」
ミユウは笑いながら答えたが、顔は正面を向いたままだ。
「カージス?」
圭が訝しげにミユウを横目で見た。ミユウは「え?」と素っ頓狂な声を出した。
「カージスって、何?」
「え?えっと、ほら、えっと……ああ、あれよ!ほら、一輪車!」
ミユウは何かを取り繕うように慌てて言った。圭は、一輪車と聞き「ああ」と声を上げる。
「確かに、あれよりは簡単かな。でも、カージスなんて、初めて聞いたよ。前に住んでいたところで、そう言ってたの?そう言えば、どこから来たんだっけ?」
ミユウは少しぐらついた。
「だ、大丈夫?気をつけて!」
圭は慌てて声をかける。
「だ、大丈夫。や、やっぱり、話しながらの運転は難しいわねぇ」
心なしかミユウ声は高く、微妙に顔が引き攣っているのを見て、圭は小さく吹き出した。
「なに?」
ミユウは鋭く言った。
「いや、ごめん。瀬川さんってさ、かわいいよね。気取らないって言うか、鼻に掛けない感じって言うのかな。いいよね。そういう所、結構好きだな」
圭は笑い声を上げた。ミユウはちらりと圭に顔を向けた。圭は慌てて「前、見て」と声をかけた。ミユウはそれに従い、顔を前に向ける。
「あ、ありがとう」
ミユウの頬が仄かに赤く染まっている。それを見て、圭は自分が言った言葉に、はたと気がついた。
(これじゃあまるで告白だ!!)
慌てて否定しようかと思ったが、それもまた失礼だと思い、どう言うべきか悩んだ末、「いや、その……。はい……」と返事をした。
圭までが顔を赤らめ、その先は二人とも黙ったまま黙々と学校まで自転車を走らせた。
学校へ着くと、圭は「寄るところがあるから」と言ってミユウと別れ、少し遅れて教室へ向かうことにした。自分の顔がまだ熱を帯びているのを感じていたからだ。この所、クラスの男子から厳しい視線を送られている。最近、毎朝ミユウと共に登校し、委員会や何か用が無い限り、帰りもほぼ一緒だ。その事を羨む男子は少なくない。赤い顔で教室へ行けば、余計何を言われるか分からない。
圭は、ひとまず屋上へ向う事にした。屋上の風に当たって、熱を冷ましてから教室へ行こうと思ったのだ。
屋上には誰もいない。
大きく伸びをすると鞄を足下に投げ、金網に寄りかかった。顔を上げ、目を細め空を見上げる。青白い満月になりそうな月が見える。
圭が月を眺めていると「おはよう、圭くん」と、熱のこもった声が耳に飛び込んできた。
圭は素早く顔を出入り口に向けると、出入り口に保健医の井上沙也加が立っていた。
柔らかくウェーブの掛かった長い黒髪を纏めもせず片側に寄せ、性格がきつそうな印象を与える釣り上がった大きな目に、細い眉。冷酷そうな唇が意地悪く口角を上げ、いかにも嫌な女に見える。前を開けた白衣の下には、胸元を強調するかのように数個のボタンが外された赤いシャツ、長い足を自慢げに見せつける短い黒のタイトスカート。足首を細く見せるかのような十センチ近くある黒いハイヒールを履いている。どう見ても、学校関係者とは考えにくい格好である。圭の目には、決して美人には見えなかったが、モデル体型がカバーしているのか、男性教師や一部の男子生徒に人気がある。
圭は顔を歪め「おはようございます……」と、溜め息混じりの声で挨拶をした。離れているのに、沙也加の香水の香りが圭の鼻を掠める。
沙也加は腰をくねらせ圭に近づいてきた。
「圭くん、最近ちっとも保健室来てくれないんだもの。今、屋上行くところ見えて、追いかけて来ちゃった」
沙也加は圭の隣に立つと、妖艶な笑みを浮かべ、圭の腕に自分の腕を絡めてきた。高いヒールを履いているせいか、僅かに圭より背丈が高い。わざとらしく圭の腕を自分の胸に押し当ててきたので、圭は腕をそっと解こうと、沙也加の腕に手を乗せた。すかさず沙也加はその手を取り、真っ赤な唇を圭に近づけてきた。圭は慌てて顔を横に避け、容赦なく腕を振り解く。
「学校ですよ、ここは」
圭は冷たく言い放つ。
「だからぁ?」
沙也加は圭に逃げられ、つまらなそうに口を尖らせ、長い黒髪をうっとうしそうに後ろに払いのける。
「だから、って。あなた、教師でしょう?」
圭は呆れながら言った。
「教師?私、教師とはちょっと違うもの。保健医。保健の先生って名前は付いてるけど、名前だけよ。授業もクラスも持ってないし」
毎度同じみの言い合い。圭はあからさまに大きく深い溜め息をつき、足下に置いた鞄を掴むと、出入り口へ向かった。
「どこ行くのぉ?」
沙也加は圭の身体に絡みつくような声で呼び止める。圭はありったけの迷惑顔で「教室です」と言って、乱暴にドアを開けると屋上を出て行った。
身体の火照りを冷やすために向かったはずの屋上で、今度は嫌悪感という名の火照りが圭を襲う。圭は沙也加の香水の匂いに少し咳き込んだ。自分の制服に付いたのか、自分の鼻の記憶なのか分からないほど、匂いがきつい。これではまた一馬に何か言われるな、と溜め息をついて足早に階段を下りた。
教室へ入ると、だいぶ生徒も揃っていて、女子生徒がミユウを囲むようにして話しをしている。圭は一部の生徒に退いてもらい、自分の席についた。
圭を待っていた一馬は、一目散に圭の席に来ると、鋭く鼻を利かせた。一馬は圭の耳元に顔を近づけると「朝からお盛んで」と言ってきた。
圭は怒りと恥ずかしさで顔を赤くして一馬を睨み付け、
「ばぁか。お前は大馬鹿野郎の最低男だ」
と、暴言を吐いた。
顔を赤くした圭をからかうように、いやらしい笑い声を上げた一馬は、心のこもっていない「すまん」という言葉を数回言い、顔の前で手を合わせる。
「この通り、もう言いませんから。英語の宿題、写させて?」
一馬はノートを写しながら「それにしても」と言った。
「沙也加ちゃんも、熱心というか何というか。……圭、本当、香水きついぞ?」
「俺だって、好きでこの匂いな分けじゃないよ」
「まぁな」
一馬がノートを写し終えると同時にチャイムが鳴り、担任が教室へ入ってきた。
担任が出席を取っていると、隣でミユウが鼻をくんくんと鳴らしていて、圭は何だか嫌な予感がしたが気がつかない振りをしていた。ミユウの顔が真横を向くのが目の端で見て取れたが、圭はそのまま気がつかない振りをし、真っ直ぐ前を向く。
「圭くん」
ミユウは囁くように圭の名を呼んだ。
圭の耳がぴくりと動き、ゆっくりとミユウに顔を向けた。
「圭くん、朝、香水つけてたっけ?」
「……いや。なんで?」
圭は顔を硬直させながら聞いた。
「何か……」
ミユウは少し何かを考えるかのように黙る。その沈黙が、何故か圭の心臓を握り締めるような苦しさを与えていた。
「どうか、した?」
圭はミユウを横目で見ながら訊く。
ミユウは、はっとした顔で圭を見て、「ううん。何でもない。良い匂いね」と言って微笑んだ。その微笑みを見て、圭の心臓は一気に血の気を帯び、正常に動き出した。圭はミユウに微笑み返し、前を向いた。
ミユウは横目で圭を見つめていた。
(この匂い、どこかで嗅いだことがる……。あまり良い記憶では無かった気がするけど。何の匂いだったかしら……)
ミユウは机の上に置いた両手をぎゅっと硬く握り締め、匂いの記憶を辿ろうとした。「瀬川」と名を呼ばれても気がつかないほど、真剣に。
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