こちらとあちらの距離感
身分証のほうは出発日までにファニーラ滞在の宿まで届けてくれるということで、商業ギルドでの用件は終了だ。
ふたり並んでギルドを後にし、そういえばと周りを見渡すファニーラだが、相変わらず道行く誰も第五王子に気づく様子がない。
「認識阻害の魔術って、常時かけてて大丈夫なんですか?」
魔力の消費とか。魔力経路の疲労とか。
せっかくだから軽食でも、と、ふたつ向こうの通りにある市場へ足を向けながら尋ねたところ、レイルバートいわく「少し面倒です」らしい。
効果範囲は顔周りで使う魔力も少ないが、発動中に術から意識を逸らすわけにはいかないのがネックだという。
ファニーラも、それはたしかに面倒だと思う。
自分はこれまで生きてきて外見を隠す必要を感じたことなどなかったが、目の機能を晦ますために眼鏡をかけているという事情がある。これは魔術具なので、一週間に一回、魔力を補充すれば、かけていることを忘れてしまっても問題ないものだ。
「そういうの作りましょうか? 眼鏡じゃなくてヘアピンとかできますよ」
「え、ファニーラさんの手作りですか……」
そうつぶやくレイルバートの表情がうれしそうで和むが、注目してほしいのはそこじゃない。
「……殿下は」
「ルーです」
「はいはい。ルーさんは、なんだか学生のころと印象が違いますね」
「うーん?」
意味ありげに笑うレイルバートの意図が、ちょっと分からない。
「そう言うほど、個人的なお付き合いはしていませんでしたよね」
「あー。たしかに、まあ、購買部で見かけてたくらいですね」
人当たりのよい笑みを浮かべて目的のものを手にして、これください。はいどうぞ。お代です。まいどあり。一連の流れは、他の生徒と同じ。
しかし、いや、だから分からない。
「私がやらかしたことはたしかですけど、ちょっと権力を使えばアレも没収して心強いお身内と気楽に旅ができたのでは?」
「俺がファニーラさんといて、緊張しているように見えますか?」
「いいえちっとも」
それも分からない。
そうだ。
購買部主任と生徒であっただけの、かつ竜核火事場泥棒ついでに未返却のファニーラへ、レイルバートがここまで好意的に接してくれる理由が分からない。
芋虫もどきとでぃーぷきっすして頭が溶けたわけでもあるまいし。
それを言語化して問おうとしたとき、ふたりの眼前が大きく開けた。
ギルドの通りから市場の大通りへ抜けるために歩いていた路地が終わったのだ。
まだ遠いと思っていたにぎやかさが、一気に耳朶を打つ。両側を壁に挟まれていた視界は開けて、青空の下に色とりどりと屋台が並ぶ。往来を闊歩する人々の姿は数え切れないほど。親子連れ、カップル、子供たち。様々な組み合わせや、あるいはお一人様。誰しもが思い思いに、この昼下がりを満喫しているようだ。
いつ見ても心躍る光景に、ファニーラはさっきまでの疑問を忘れることにした。
「まあ、旅についてはもう決まったことですし。ルーさんとも気兼ねなくやっていけそうで安心しました。旅立ち祝いにおいしいもの食べていきましょう!」
「はい。でもその前にちょっと立ち寄りたいところがあるのですが、いいですか」
「はい? どうぞ」
バンザイの形に持ち上げたファニーラの腕をレイルバートが軽く掴んだ。彼はそのまま、ファニーラがついていきやすい歩調で迷いなく進んでいく。どこかおすすめのお店でも知っているのかと考えたファニーラは、軽く疑問符を浮かべたものの、素直にそれに従った。
少し進んだところで、ファニーラが抵抗しないと知ったレイルバートが、彼女の腕を掴んでいた手から力を抜いた。解放されるかと思ったけれど、そうはならない。レイルバートの手はそのままファニーラの腕を滑るように流れて、互いの手のひらが合うように動いた。
そろり、ゆるり、レイルバートの手がファニーラの手を包んでいく。
野良猫が逃げやしないか、こわごわと窺うような仕草だ。
繋がれる手を眺めていたファニーラは、ふとレイルバートを振り仰ぐ。
「……っ」
ファニーラの動きに気づいたふたつの緑が、びくんと虹彩を大きくした。朱が走る目尻と合わせて動揺は明らかであるものの、レイルバートの手が止まることはない。それどころか、ままよとばかり、これまでののろのろとした動きを振り切って、ぎゅうと一気に握り込んできた。
かと思えば、ファニーラを見下ろす視線は弱々しい。怒られるんじゃないかと怯える子犬の伏せた耳としっぽの幻が見えた、気がした。
繋がれた手に一度視線を落としたファニーラは、すっぽり包まれた自分の手指の動く範囲でレイルバートの手を握り返す。
レイルバートの瞳が、また大きくなった。
「小さい私だと、エスコートは難しいですもんね」
ファニーラは彼の同年代である子女よりもずっと低い位置にある自分の頭頂部へ空いた手を乗せ、水平に動かした。案の定、ぶつかる先はレイルバートの胸筋下、たぶん横隔膜あたりである。これで街歩きのエスコートスタイルなどしてみろ、前世的ダッコチャン人形ファニーラの爆誕だ。ついでにレイルバートの腕が死ぬ。
レイルバートとファニーラの実年齢差が見事に逆転する今の状態だが、別に気になることもない。というか、目新しさのほうが勝っていた。
だからどうぞこのまま行きましょうとファニーラは笑ったのだが、レイルバートは別の意味にとったようだ。消えたと思った伏せ耳がまた出てきた。
「そういうつもりでは、ないのですが」
「別に身長をバカにされたとは思ってませんよ」
「してません!」
「だから、思ってませんって。ほらほら、大声出すと注目が」
「あ」
はっと口を押さえるレイルバートに、大丈夫ですから行きましょうと促せば、彼も気を取り直して止めていた足を動かした。
ややあって、ふたりは市場の一角にたどり着く。ここでも他と同じように屋台が立ち並び、それぞれの買い物あるいは冷やかしを楽しむ人々に満ちていた。
立ち止まったレイルバートが、ファニーラを振り返る。しっかりと鍛えられてそれでも繊細さを感じさせる指が、今はなんの屋台もないあたりを示して持ち上げられていた。
「十二年前に、ここにお店を出していたこと。貴女は覚えていますか」
「じゅうにねん、まえ」
ちょっとまってくださいね、とファニーラは記憶を掘り出しにかかった。
日、月、であれば苦労しないが、年単位になってくるとファニーラの場合、自分と同程度の寿命を持たない種族とのすり合わせが難しくなってくる。あっ、そういえば王太子との『そのうち』もちゃんと確認してない。まあいいや。
「第三王女の生誕祭です」
レイルバートが補足情報を出すと同時に、ファニーラの記憶も引き出しから飛び出した。
第三王女殿下といえば、第五王子第六王子からは五歳下になるお姫様で、王族兄弟の末っ子姫だ。
王家の恒例行事として、王族の直系は生後一年を数えた日に王都で生誕祭が開かれる。なんで一年後かって、準備がいろいろ必要だからだ。王太子から第六王子までそれは欠かされず、もちろん末姫のときもレイルバートが言ったように祭りが催され、盛大な祝福が都を賑わせたものだ。
今日の光景など目ではないほどの屋台やら見世物やらが大通りに溢れ、大通り以外でもそこそこ広さのある通りであれば漏れなく色とりどりの屋根で埋まった。今、ふたりが立つここも、もともと市場として使われているだけあって、屋台てんこもりとなるには絶好の立地だったのだ。
その一角に、そう、まさにレイルバートが示す場所に、当時のファニーラもこぢんまりとした露店を開いていた。
「……あ、はい! たしかに出ました! 東の飾り細工と日用品と乾物を出してましたね。魚の削り節が新しい味だって、けっこう喜んでもらえたんでした」
メインは王女の生誕祭に合わせて飾り細工のつもりだったが、主婦層にえらいウケたのが削り節だった。需要と供給のリサーチの大切さを再確認したあの日である。
手を打ち合わせたファニーラを見て、レイルバートがうなずく。
「……そのとき、迷子に飴をくださったことは覚えていますか?」
「迷子に飴」
はにかむような笑顔と何かを期待するような口調でファニーラもある程度察したが、これもやはり照合が必要な案件ではある。再び記憶掘り出しのほうに意識をやって――きっかけが提示されていたおかげか、数秒ほどで済んだ。