王子様は商人見習いの職を得た
王都の商業ギルドは、国内各地の支部を束ねる統括本部だ。その長たる彼、アーゼス・クロスは今年三十三歳にして二十歳の嫁をもらった新婚ホヤホヤのおっさんである。母方の叔母の娘から熱烈アタックをくらいつづけること十七年、折れたのが五年前。ギルド長としての諸々が重なって、正式に籍を入れたのが今年である。身重の奥さんは、出産後元気になり次第ギルドの事務員として再雇用予定。
たしか十年前には年の差をガチ悩みしていたのに、今となってはそういったことを嬉々として酒の席で語るのだから、吹っ切った人間は強い。
騎士団にも一時所属していた彼の体躯は、今日もファニーラがふたりよじ登れそうなくらいたくましい。短く切った赤髪と太い眉、愛嬌のある瞳が人の好さを思わせる。とはいえ、百戦錬磨の商人たちを相手取るのがアーゼスの本職だ。見た目に惑わされると痛い目を見る。
逆に、きちんと身の程わきまえて堅実なお仕事をしているギルド員には、当たり前に友好的だ。
今日いきなり同伴者として現れたレイルバートに対しても、それは変わらなかった。
「これはどうも、王子殿下。拝謁の栄をたまわり恐悦至極。王太子殿下にはお会いしたことがありますが、第五王子殿下とは初めまして、ですな」
アーゼスは認識阻害の結界を解いているレイルバートへにこやかに語りかけ、略式ながらも丁寧に臣下の礼をとる。レイルバートも軽くうなずいた。
「ご丁寧にありがとうございます。これからしばらく、ただの『ルート』として過ごす予定ですので、そのようにしていただけるとこちらも気が楽です」
「ほう。ファニーラ?」
「です。とりあえず座りましょう」
今日訪れた用件について大まかな連絡はしていたが、詳細はこれからだ。
アーゼスが改めて茶の支度を要請する間、ファニーラとレイルバートは彼と向かい合うソファに並んで腰を下ろした。
新しい一杯とおかわり二杯が到着し各人が落ち着いたところで、ファニーラが口火を切る。
「ええと、まずは私の件からですね。連絡したとおり、第五王子殿下の旅のお供を言いつかりましたので、行商ルートについての相談です。原則、先に挙げていた予定のとおりに動きますが、こちらの都合で日程の前後や入れ替えをすることが多くなると思います。あるいは、私本人ではなく知人に頼んで行ってもらうこともあるかと。アーゼスさんの分かる範囲で、変更不可能なところはありますか?」
「いや、今のところはないな。おまえの予定についてはこっちから連絡しとくが、お供の件はそのまま伝えていいのか?」
「表向きには王子ではなくルートさんなので、「ルーです」はいはい。なので、ごまかしてもらえるとうれしいですね。断れないおうちから弟子だか見習いだかを預かったとか」
「おまえ王子に雑だな」
「うれしそうだからいいんじゃないですかね」
「うれしいです」
「ほら」
「まあ、それでいいならいいか」
一瞬あっけにとられてもすぐさま現状を受け入れるアーゼスだって、十分に雑……いやいや、懐が広い。
「それからその関係で。ルートさん「ルーです」はいはい。彼にギルドの身分証をお願いします」
「ああ、分かってる。すぐにもできるぞ」
「身分証ですか?」
ツーカーで話を進めるギルドコンビの会話に、レイルバートが割り込んだ。本人に関わることでもあるし、ついでに説明もしておくつもりだったファーニラは「はい」と彼を振り返る。
「不慮の事態ではぐれたりしたとき、身に危険があっても王族としての証を立てられないことがあるかもしれませんよね。身分証があれば、近くの街のギルドへ駆け込めば、ある程度は保護してもらえます。自分たちの連絡手段を紛失したときも、ギルドなら登録している商人へ身分証経由で簡単なメッセージを送れますから、便利ですよ」
ハハキトクスグカエレ。とか。
「なるほど、それは助かりますね」
「それから商業ギルドでは身分証とセットで、証の刻印を魔力経路に刻むことになってます。指先ですが、大丈夫ですか?」
「痛みますか?」
「いえまったく。アーゼスさんは上手ですよ」
「慣れてるからな」
注射を嫌がる子供のようなレイルバートの表情がかわいらしく、つい、ファニーラは口元をほころばせた。
証を刻む指はどれでもいいが、ファニーラは親指に刻印している。普段は誰の目に触れることもなく、魔力を通したときに浮かび上がる仕組みだ。魔力の波動は個々人で違うので、登録者本人であるという証明にもなるし、契約印としてもよく使われている。
それらを説明した上でレイルバートに尋ねれば、彼も親指を選択した。アーゼスが刻印の内容を確認する。
「名前はルート。ファニーラ・ビット付きの見習いでよろしいですな?」
「はい」
「じゃあ、ルーさん。どっちでもいいので親指を出してください」
「ファニーラさんに?」
そうです、とうなずいて、ファニーラは己の右手を持ち上げた。親指を立て、他の四指をにぎりこむ。いわゆるサムズアップである。
「言い方が悪いかもしれませんが、私の管理下扱いなので。まず、私のを転写します」
「は、はい」
ほんのり頬を染めたレイルバートも、ファニーラと同じ側の手を持ち上げた。指の形も揃えてくる。
「じっとしててくださいね」
「はい」
そっと親指の腹を触れ合わせたファニーラは、いつものように魔力を流して刻印を活性化した。ふわりと生まれたやわらかな熱が、波が引くようにレイルバートの指へと流れていく。
ぱちぱち、流れ星を見る子供のように目をまたたかせたレイルバートは、熱が移行したあと、窺うようにファニーラと視線を合わせてきた。
「離します」
「はい。……うさぎだ」
感慨深げに親指を眺めるレイルバートの瞳には、デフォルメされたうさぎの頭部分のマークが映っている。
「はい。私の刻印はうさぎです」
「好きなんですか?」
「ええ、まあ」
ファニーラ・ビット。ファニー・ラビット。
この世界で、うさぎはうさぎだ。他国語にも、うさぎを表すラビットという単語はない。だからこれは、まだ前世を思い出してもいなかったころのファニーラが、本当にただ、うさぎがかわいいからという理由で決めた図案だったりする。
それからはアーゼスの作業だ。
転写しただけではただファニーラの写しであるだけのうさぎ刻印に、レイルバートもといルートの名前とファニーラ管理であることを刻んでいく。
ピリピリします、と、くすぐったげにレイルバートは笑った。
ファニーラも当時には同じ感覚を覚えたな、と、懐かしく表情をほころばせて作業を見守った。