黒い頭巾の影のかた
必要な物資をととのえ、各所への連絡もすませ、あとは旅立つばかりとなったこの日。当日。
ファニーラはレイルバートとの約束よりもずいぶん早い時間に、王都の外門へとやってきた。身の証をたてて門を出たあとは、警護の兵士や出入りする人々から離れるように、王都を囲む壁に添って歩いていく。
王都一帯および外周に余裕を持って張ってある魔獣避けの結界内であるからか、飛び交う鳥などもどこかのんきだ。耳をすませば、壁向こうで営まれる生活の音も届くだろうか。
まったりとした風情で足を進めていたファニーラは、何百歩めかで歩みを止めた。眼鏡の奥の目を細め、不意に生じて迫りくる気配を振り返らぬまま腕を振る。
「――――ふっ、」
袖仕込みの魔術具から伸びた刃が、横薙ぎの一閃を受け流した。
金属のこすれる音が耳障りな残響と化すより先に、ファニーラは己の立っていた位置から飛び下がる。残影を掠めた投擲ナイフが虚しく空を裂く光景だけが、目に映った。
彼女の移動を予想していたナイフの主が背中に回り込んでいることは、察している。だから、さらにもう一歩。戻るでもなく逸れるでもなく、体を反転させて前へ――襲撃者の懐へ。
「……!!」
もう一度、金属音。
ファニーラの首があった場所を薙いだ右の刃とは別の刃によって、彼女が相手のみぞおちめがけて繰り出した拳が防がれた。
「……あばばば」
刃から変形させた篭手は当たり前のように金属製だ。それを剣の腹で受け止められたせいで、衝撃がおかしな感じにファニーラの手の甲の骨を軋ませた。跳ね返されるように座り込むファニーラの正面には変わらず人影があるが、殺気はない。最初からなかった、が、正しい。
しびれた腕を投げ出して顔を上げたファニーラは、襲撃者へ笑いかけた。
「おはようございます。影のかた。私の技量はお眼鏡に叶いましたか」
「……悪くはありませんでした」
仏頂面で応じる襲撃者、もとい、影のかた。全身をゆったりとした黒一色の衣服に包み、肘先から手首、膝下から足首といった要所を締めて動きの効率化を図っている。フードと口元のマスクも合わせた万全装備のおかげで、せいぜいがとこ背丈と体格くらいしか読み取らせてくれない。声は落ち着いた低さだけれど、変えていないという保証もないし。レイルバートより小柄なようだが、まさか体つきまでいじっていることはないだろう。
ちなみにこの影のかた、ファニーラの関係者ではない。レイルバートの関係者だろう。当の王子本人から確認はとっていないが、状況と相手そのものが予想を裏付けるのだ。
なにしろ、ファニーラがこの影と初の邂逅を果たしたのは、つい昨夜のことである。
「ちなみに結界術具の感想もお伺いできますでしょうか。昨夜はとっととお帰りになられてしまいましたし」
「……っ」
にまにま笑うファニーラを見て、ぐっと息を詰める影のかた。
これくらいの意趣返しなら、許されて然るべきだとファニーラは思う。気持ち良い眠りを妨げられた挙げ句に、防犯用の結界術具を物理的にダメにされたのだ。修繕費は朝の速達で王家に請求してやった。
それもこれも、昨夜のこと。
ファニーラがいつものように、防犯結界を宿の部屋を覆うようにめぐらせて羊に溺れていた深夜過ぎ。外周一層目の悪意持ち遮断をスルーした侵入者が第二層目の結界展開主の許諾なし侵入阻止部分に引っかかって吊るされた。魔力で編んだ網にぐるんと体を巻き込まれ、天井からぷらんぷらーん、だ。
こそ泥ならそこで諦めるものだが、昨夜の侵入者は影のかた。はいそうですかと逃げ帰るわけもなく、魔術具の設置場所を察知して破壊してくれやがったのである。内部からの攻撃を通さないよう細かい網目にしていたというのに、その隙間をすり抜けて飛ばされた針は緻密な操作によって、しっかりと破壊任務を完遂した。
網が発動した時点で目を覚まして様子を見ていたファニーラは、まさかの破壊行動にキレた。侵入者が解けた網から解放され床に足をつくより早くベッドから飛び起きて、第三層目――ファニーラに触れた時点で発動する麻痺毒を部屋に散布させる仕掛けを強制発動させた。もちろん、妖精族には無毒のものだ。が、侵入者にも効きが浅かった。きっと慣らしているんだろう。どマイナーな毒なのに、勤勉なことである。むっかつく。
とはいえ、動きが鈍ってしまった影のかたなど、寝起きのファニーラでも取り押さえるには充分だった。体勢を立て直す前に自由を奪い、いつでも急所をキュッとできるよう乗り上げて用件を問えば、果たし状を持ってきたという。
バカかなこいつ。ファニーラは言った。
街中でこんなレベルの防犯をかけるバカに言われたくない。影のかたは言った。
あんたみたいなのがいるからですよ。ファニーラは言った。影のかたはぐうの音も失った。
ともあれ、と気を取り直して果たし状を改めたところ、第五王子の同伴者としてファニーラの実力を知りたいので翌日これこれの時間にどこそこにおいでになられたし、とのことだったのだ。
普通に手紙とかで通達しろよ。ファニーラは言った。
王子につく一名が決定したのが四半刻前だったので。影のかたは言った。
無能会議ですか。ファニーラはあきれた。
その一名になるために希望者総当たりのデスマ、もとい選抜戦をしていたので。影のかたは言った。
影のかた怖い。ファニーラは思った。
そんなんに勝負挑まれて勝てるかとクレームを申し立てれば、技量を知りたいだけだという。ファニーラが著しく弱いようであれば、現状は第五王子のみとする護衛範囲をファニーラまで広げてくれると。ただ、その準備のために出発時刻を数刻遅らせてもらう必要があると。
それを見込んだファニーラは、レイルバートとの待ち合わせ時間から逆算してこの早朝に果たし状の舞台へ立つに至ったのである。もちろん宿を出る前に請求書は発送した。
そうして手合わせを終えた今。
武器をしまいこんだ影のかたは、不承不承といった体でファニーラの欲しがる答えを口にする。
「……結界術具は、見事なものだったと思います。あそこまで執拗な代物、まず見たこともありません」
「そうですか! 本職のかたにおっしゃっていただけると、今後のやる気が出ますね!」
次はアレしてコレも入れようと、ファニーラはきたる新型開発に胸をときめかせた。それからふと、影のかたを見上げる。実はまだ地面に尻をつけたままだったが、気にしない。
「実力といっても見てのとおり、防御に振ってるんですよ。自分の身は守れますという程度ですから、万が一のときには私はほっといてルーさ……あー、殿下をしっかりお願いします」
「もちろんです」
心得ていますとうなずく影のかたを、いつまでも影のかたとするのも面倒くさくなってきた。
「お名前とお顔は教えてもらえるんでしょうか?」
「殿下からは、ウェズと呼ばれています。顔は……ご勘弁ください」
「大変ですねえ」
日当たりのよい壁の外は、穏やかな光に満ちている。その分、ウェズのフードの奥は影に沈んでいて、瞳の色がかろうじて赤系であると分かる程度だ。
頭上の黒頭巾ちゃんをそうして一瞥してから、ファニーラは立ち上がる。服や手のひらについた土ぼこりや砂を払い落として、乱れた髪や衣服をととのえた。そのままウェズを促して、さっき出てきたばかりの門へと足を向ける。彼(たぶん)がさっさとどこぞへ消えようとしたが、いいじゃないかと引き止めた。素直に従ってくれたのは、たぶん魔術具を壊した負い目があるのだろう。もしかして請求、お給料から天引きされたりして。
「それじゃ、私に気を遣っていただく分の準備時間は必要ないということでよろしいんですよね」
「そうなります」
「となると殿下が来るまで暇ができますね。どうですか、ちょっと戻って食事でも――」
腹ペコで到着する旅人のために、門を入ってすぐのところには食べ物を供する店が点在しているのだ。ついでに旅道具を揃えた店とか、王都中心部に存在する各ギルドの支部も。せっかちさんはこのあたりで用事を済ませて再び門の外へ出ていったりもする。うっかりさんが出戻って準備をととのえなおす光景もよく見られる。
そのなかでもお気に入りの店を思い浮かべながらファニーラが提案したとき、耳にするのはもう数刻後だろうと思っていた声が、朝の空気を震わせた。
「ファニーラさん!」
頭上から。