3.
シズクはアパートがある通りに差し掛かった時、正に思い返していた人物と鉢合わせたことに驚き素っ頓狂な声をあげた。
「り、リュウオン⁈」
「うわ、びっくりした。シズクか」
リュウオンはさほど驚いた様子もなく応じる。
シズクはさっきまで考えていたことを思い出し、訳もわからず顔が赤くなる。
そんなシズクの様子を見てリュウオンは不思議そうな顔をするが、シズクを誘った。
「せっかく会ったんだから飯行こうぜ」
「え、ああ、ううん。ごめん、お腹空いてないんだ。さっきエマとケーキ食べてきたところで」
シズクは咄嗟に肯定の返事をしそうになり慌てて取り繕う。
リュウオンは心底残念そうに、ならしょうがないなと言い、今度は家まで送るよと歩き出した。
シズクもつられて歩き出すが、エマから言われたことが頭をよぎり、思わず足を止める。
「どうした? シズク」
振り返るリュウオンを見てシズクに不安が押し寄せる。
そんなシズクを見て流音はしまったなと呟いた。
「この間言ったことは気にしないでいいから。ただ少し考えて欲しかっただけで困らせるつもりはないんだ。だからそんな不安そうな顔をしないでくれ」
困ったように言うリュウオンを見て、シズクは話をする覚悟を決めた。
「違うの、リュウオン。考えても行き詰まってしまったから、今の私の気持ちを聞いて欲しい」
シズクはリュウオンの目を真っ直ぐに見つめて言った。
リュウオンは一瞬目を見開き驚いた顔をしたがすぐに優しく微笑む。
「わかった。じゃあどこか座れるとこに行くか」
「あ、うちに上がって行って。すぐそこだから」
シズクの提案にリュウオンは微妙な表情を浮かべシズクが良いのならと戸惑いながらも頷く。
お邪魔しますとリュウオンは控えめについてくる。
「そこの椅子に座ってて。お茶入れてくる」
リュウオンは、短くお礼を言い椅子に座ろうとした時、目の端にミントグリーンが映った。あの時のワンピースだと目を細め、気持ちを落ち着ける。シズクが何を話しても受け入れるつもりできたが、いきなり家に上げてもらえるとは思わず緊張していた。
お待たせ、と戻ってきたシズクは2人分のお茶を置いてリュウオンの向かいに座る。
暫く沈黙し、お茶を飲む。
シズクは誘ったはいいものの何から話そうか迷っていたが、おもむろに口を開く。
「リュウオンは私の出自をどこまで知ってる?」
「…ある程度は知っている。その…両親のことも」
リュウオンは言葉を選びながら慎重に答えたが、シズクは全て知っているのかと驚いた。
「すまない。以前に自分の上司がどんな人物か調べたんだ。詮索するつもりはなかったんだが……」
申し訳なさそうに言うリュウオンに少し慌てて首を振る。
「隠しているわけではないし、昔馴染みならみんな知ってるから謝らないで。
知っているなら話は早いかもしれないけど、両親のことがあるから、私は貴族の結婚には相応の相手がいいと思っている。私には不相応だと。それに、リュウオンの気持ちは嬉しいし、私もリュウオンのことを大切な人の一人だと思っているけれど、愛だの恋だの、私にはわからないの」
シズクは一息に自分の気持ちを伝えた。
手に持ったコーヒーカップを見つめながら話を聞いていたリュウオンは、ゆっくり顔を上げる。
その目は真剣な光をたたえていた。
「シズクの気持ちはわかった。貴族の結婚云々は一旦置いておくとして。こう言う聞き方はずるいと思うけど、シズクは、俺のこと嫌い?」
「……嫌いではない」
それは良かったと言ってリュウオンはシズクの手を取り自分の手を重ねる。
「好きって言ってもらえるように努力する。だから婚約者になってくれ」
「え……っと、意味がわからないです」
シズクは目を白黒させるが、続くリュウオンの発言に思考が完全に停止した。
「貴族の相応の結婚相手ってシズクがさっき言っていたが、俺にとって結婚相手はシズクしかいないんだ。父上からもシズクが頷けば結婚を認めると確約をもらっている」
完全に固まってしまったシズクをリュウオンは面白そうに見つめる。少しずつリュウオンの言葉の意味を理解してきたシズクは今度は頭を抱える。エマが言っていた外堀を埋めるとはこのことかと遅まきながら気付いた。
リュウオンは立ち上がりシズクに近寄る。
「シズク」
リュウオンに耳元で名前を呼ばれてシズクはハッと声のした方を見上げる。
リュウオンは熱のこもった目でシズクを見つめる。窓から射し込んだ西陽に照らされ、リュウオンの瞳が煌めくように見える。
「もう一度言う。シズクが好きだ、愛している。俺と結婚してくれ」
シズクは自分がこの目に弱いことを思い出し、心の中で苦笑する。
「本当に私でいいの?」
「シズクがいいんだ」
「……わかった」
シズクは不承不承ながら頷きリュウオンから目を逸らす。リュウオンが稀にするこの真剣で有無を言わせない力強さを感じるこの目に魅せられてしまうのだ。
リュウオンはふっと表情を和らげ微笑む。
「じゃあ今日から婚約者と言うことで。さっそく2週間後の休みに家に来てほしい」
「嘘でしょう⁈」
「父上とは面識があるだろう? シズクと話がしたいと言っていた。貴族とは言ってもうちは武人一族で格式ばらなくていいから気軽に来てくれ」
思わぬ予定にシズクは面食らうが、さも決定事項のようにつらつらと話すリュウオンに今度は唖然とする。
リュウオンの父親といえば軍のトップ、元帥ではなかったか。リュウオンと良く似た赤茶髪だが、顔立ちはリュウオンの人懐こい顔とは正反対に、冷酷な笑みを称えた美貌の持ち主で影では魔王と渾名されている。
もちろんシズクは隊長職を賜っていたので面識はあるし、何度か会話を交わしたこともあるが、おいそれと気軽に会いに行ける人物であるわけがない。
ましてや先方から話がしたいと言われているなど不安が募るばかりだ。
「プライベートの父上はそんなに怖くないぞ」
と言ってリュウオンは笑いシズクを励まそうとするが、プライベートの方が目的がわからず余計に不安が増し、シズクの表情は強張るばかりだった。
その日はやって来た。何度か修羅場をくぐって来たシズクでも流石に緊張している。 高ランクの魔物を相手にするよりも緊張しているかもしれない。
リュウオンは迎えに来ると言ったが丁重にお断りした。元帥に会いに行くのに、その息子が同伴とは何とも落ち着かない気持ちがしたからだ。
リュオウンの家の前に着いたシズクは門の前で一度目を瞑って深呼吸をする。
よしっと心の中で気合いを入れてベルを鳴らした。
すぐに使用人と思わしき女性が出てきて部屋まで案内してくれた。
「旦那様はこちらでお待ちです」
そう言われてシズクは立ち止まると、使用人はドアをノックしお客様がお越しになりましたと声をかける。
どうぞと返答があり部屋の中からドアが開く。
リュウオンがいたようだ。リュウオンはシズクを見ると微笑み中へ入るよう促す。再度気合いを入れ直して中へ入ると、元帥がソファに座ったままこちらを見ていた。
「いらっしゃい、アラニシ殿。こちらへ」
と向かいのソファに座るよう促される。シズクは失礼しますと言いながら俯き加減に腰掛ける。慣れないシチュエーションにすっかり気合いが吹き飛んでしまった。
「リュウオンは席を外しなさい」
「わかりました。終わったら呼んでください」
リュウオンはちらとシズクを見てから静かに退室して行った。
「こうして見ると君の母親によく似ているな。シズク嬢。教師の仕事は慣れたかな?」
母のことを知っていることにも驚いたが、懐かしい呼び方にシズクは驚き元帥の顔をまじまじと見つめてしまう。10年前はよく部隊の同僚からシズク嬢と呼ばれていたのだ。
「はい。お陰様で順調です」
「それは僥倖。では、さっそく本題なのだが、リュウオンのプロポーズに了承したそうだな」
覚悟していた内容ではあったが一瞬返答に詰まってしまう。
「……ええ、そうです」
「そうか! それはめでたい。きちんと君の意見も聞いておこうと思っていたが、心配いらなかったか」
そう言ってワハハと笑う元帥の顔を見て、顔が似てない親子だと思っていたが笑顔は似ているのだなとぼんやりと思った。いつもの魔王のような雰囲気が全くない。
「君の父親と私は同期でな、自分に何かあったときは君のことを頼むとも言われていた。しかし娘は嫁になどやらんと言っては私を始め息子を持つ親たちや部下を牽制していたものだ」
元帥は懐かしむように話すが、初耳のシズクは驚く。シズクの父親は妻と息子がいたはずだ。いくら結婚前のことだと言えどシズクは庶子である。実の親子だと隠してはいなかったが公言もしていなかったし、シズクの扱いは部下にしては過干渉だったが、娘にしては他人行儀だった。
「知っての通り我が一族は貴族であっても実力主義だ。君が嫁に来てくれるのなら願ったり叶ったり。私の立場上、表立って君のことを気にかけるわけにはいかなかったが、これからはそんな心配もなくなる。これで亡き親友にも顔向けができるな」
シズクは元帥の言葉に胸が詰まり、視界が滲んだ。慌てて下を向く。
元帥は我が息子ながら良くやったと呟きながら目を細めてシズクを見る。
「シズク嬢。倅が成長出来たのは君のお陰でもある。礼を言う」
「勿体ないお言葉です。私の方こそ何度彼に救われたことか。感謝するのは私の方です」
シズクが慌てて顔を上げて答えると、元帥がとても優しく微笑んで言った。
「そうか。ではこれからも二人が支え合う仲であることを祝おう」
タイミングよくノックの音が鳴り、元帥が返事をするとリュウオンが入ってきた。
「話はまだ終わってないぞ」
「区切りはついたでしょう」
リュウオンは悪びれる様子も見せずシズクの隣に座る。
リュウオンに続いて使用人がお茶を入れてくれる。
使用人が出て行ったところでリュウオンが口を開く。
「父上、私たちの結婚を認めてくださいますよね」
「もちろんだ。発表は1ヶ月後、婚約期間は1年とする。新居はどうする?先代の別邸が空いているから自由に使って良いぞ。まあ、それよりも結婚前までにシズク嬢の心をしっかりと掴んでおくことだな」
「当然です」
元帥は上機嫌ながらもリュウオンを挑発するようなことを言うが、リュウオンは意に介さず答えた。
シズクは何やらとんとん拍子に話が進んでいるようだと半ば他人事のように親子のやり取りを眺めていたが、話が終わったようでリュウオンが立ち上がる。
「シズク。家まで送る」
「シズク嬢、またいつでも遊びに来なさい」
シズクは元帥に丁寧にお礼を言ってリュウオンと退室する。
行きは緊張で余裕がなく廊下の調度品など目に入らなかったが、異国情緒のある置物が飾られている事に気づく。サイオンジ家の祖先は確か東の国出身だったと聞いたことがある。
建物はこの国の様式だが、至る所にその名残が感じられる。
先ほどから何も言わずに少し前を歩くリュウオンにシズクは黙って付いていく。
2人は門を出たところで、1台の馬車が停まっているのに気付く。中から出てきた人物を見てシズクは少し驚いたが、リュウオンはやっぱりなと言って呆れた顔をする。
「どうやらシズクの迎えのようだな。また連絡する」
そう言ってリュウオンはシズクに近づくとシズクの頬に軽くキスをした。
驚いて頬に自分の手を当て固まるシズクのもとにエマが辿り着き、優雅に挨拶する。
「ご機嫌よう。シズクは私が送って行くわ、リュウオン。それから、おめでとうと言っても良いのかしら?」
「ああ、ありがとう。シズクを頼む」
にやにやと笑うエマにリュウオンも微笑む。
シズクはエマに押し込まれるようにして馬車に乗りこんだ。
急な展開について行くことを早々に諦めていたシズクはやっと一息ついた。一気に疲れが押し寄せてきたのを感じる。
「ね? 外堀、埋まっていたでしょう」
「エマは全部知っていたの?」
「いいえ? ただ父親に話を通すくらい当然しているとは思っていたわ。何なら式の日取りも決まっているのではないかしら」
「流石にそれは……ありそう」
げっそりとした顔をして窓の外を見るシズクにエマはそうでしょうと言ってクスクスと笑う。
「あの男、私にも協力してほしいとわざわざ頭を下げにきたのよ。あくまで私はシズクの味方をするって事で引き受けたけど」
楽しそうに話すエマだったが、一旦間を開けシズクを優しく見つめる。
「本当はシズクの気持ちが追いつくのをまっても良かったのだけれど、シズクが満更でもなさそうだったから後押ししたのよ」
「私が、満更でもない……?」
エマの言うことが理解できず、シズクは怪訝な表情になる。
「ええ、そうよ。少なくとも私にはそう見えた。この前、シズクも言っていたでしょう? 彼とは一線を引いているつもりって。嫌いならキッパリ拒否すれば良いのよ。憎からず思っている相手だから誘いは断れない、けれど近付き過ぎるとお互いが辛い思いをすると感じていたのでしょう? シズクは自分の気持ちがわからないといったけど、私には頑なに閉じ込めているように見えたの」
「そう……なのかな」
と言いシズクは自分の手元に視線を落とす。
「シズクはいつも感情を押さえ込もうとして理性的に考えすぎなのよ。まあ、行く先はすでに決まってしまったのだから、ゆっくり自分の気持ちと向き合っていけば良いんじゃない? 案外ちょっとしたきっかけで気付くものよ」
エマは先程とは打って変わり軽い口調で言いながら、シズクにウインクする。
丁度シズクのアパートの前につき、馬車を降りる。エマはじゃあねと言ってにこやかに手を振り去って行った。
シズクは精神的に疲れて何もしたくないと思ったが、何とか着替えを済ませベッドに倒れ込んだのだ。
年齢を入れ忘れましたが、2人とも25歳の同い年です。