1.
終業時間になり、シズクは手早く帰り支度を整えると周りに挨拶して職場を出る。
建物を出ると帰路に向かう学院生達が賑やかに歩いていた。
「アラニシ先生! さようならー!」
シズクに気付いた学院生が遠くから手を振って叫ぶ。
軍を退役し、学院の教師に転職して早3ヶ月、こうしたほのぼのとした光景に始めこそ戸惑ったものの今ではすっかり慣れ、微笑ましく思う。
シズクは彼らに手を振って見送ると、門とは反対側に歩き始める。学院の土地に隣接している軍の中央本部に書類を持っていくように上司から頼まれたからだ。
軍に顔がきくシズクは時折こうしたお使いを頼まれる。
帰宅間際だった書記官に申し訳なく思いながら書類を渡したところで、後ろから声が聞こえた。
「シズク!」
シズクは振り返ると、襟足を無造作に後ろに纏めた赤茶髪の男を見つけ、ため息をついた。
シズクが魔剣隊第5部隊の隊長だった時に副隊長だった元部下で、シズクの退任後に隊長となった人物である。
シズクが軍を離れた今でも頻繁にその姿を目にする。いくら隊長職で中央の会議が多いとはいえ、こうも頻繁に出歩けるほど暇ではないだろう。
「何か用? リュウオン」
呆れた声でシズクは返事をする。
「仕事お疲れ。この後時間あったら飯に行こう。シズクは何が食べたい?」
シズクを待ち構えていたリュウオンは嬉しそうに聞いてくる。
「……私はもう仕事終わりだから時間あるけど、リュウオンは仕事いいの?」
「大丈夫だ。副隊長もシズクに会いにここに来ていることは知っている。なぜか俺の居場所を常に把握してるからな」
シズクは返答に一瞬詰まるもなんとか問い返したが、何の問題もないと快活に笑って答えた内容に、それは隊長としてどうなんだと遠い目をしたくなった。
結局なし崩しにいつも通り大衆食堂に行くことになった。
シズクは席に着くとメニューを広げて何を食べようか思案する。
この前は生姜焼き定食だったから今日は魚定食だな、と決めてリュウオンを見ると目が合う。
「決まったか?」
「うん」
「おばちゃん! 俺はいつもので、シズクは?」
「私は魚定食をお願いします」
「はいよ! 焼肉定食と魚定食ね!」
毎週のように来ているのですっかり常連客になっている。
注文を終えるとリュウオンは改まった顔で聞いてくる。
「なぁ、シズク。次の休みに街へ出かけないか?」
「いいけど……なんで? 行きたいところがあるの?」
男1人では行きづらい店とかあるし、そういえばこの男は見かけによらず甘い物が好きだったなと思っていると、
「行きたいところというか……シズクとデートがしたいんだ」
「……は? デート? さてはまた誰かに唆されたな」
少し照れながら言うリュウオンにシズクは思わず顔をしかめる。
シズクが軍を退役してからというもの、恋人はいないのか、気になる人はいないのかなどとやたらと周りから聞かれるようになったので辟易としていた。
先日ある人と雑談した時に話の流れで、頼れると思っている男はリュウオンだと答えてしまったことを思い出す。
部隊の元同僚でよく仕事の相談に乗ってもらっていた相手だったのでつい口が滑ってしまったのだ。
今一緒にご飯を食べているのだって、シズクの環境がかわって心配している元同僚たちの差し金だと噂できいた。
「はい、おまち! 焼肉定食と魚定食ね!」
デートとはどういうつもりなのか問い質そうとしたところで料理が運ばれて来てしまったため、一旦気を取り直して食事を開始する。
「やっぱここの飯は美味いよな」
とリュウオンは上機嫌だ。尤も元来明るい性格のこの男が不機嫌であることは少ない。
シズクはあらかた食べ終えたところでお茶を飲みながら聞く。
「隊長職はどう? 慣れた?」
「ああ。隊自体は相変わらずだからな。副隊長に監視されているから仕事が捗ってしょうがない」
「そう、それは相変わらずだね。私も彼の能力には世話になった」
少し嫌そうに言うリュウオンにその様子が目に浮かぶようだ。
ふざけたことを言っているがリュウオンの仕事が有能であることをシズクはわかっていたので、しっかりやっているのだろうなと思い直す。
「シズクは教師になって3ヶ月経ったけど、すっかり先生って感じになったな」
「そう? ああでも、部隊にいた時よりは気が楽かもしれない」
「みたいだな。張り詰めた雰囲気がなくなって表情が柔らかくなった」
リュウオンが微笑む。冷たい表情で近寄り難いとよく言われていたシズクはあまり自覚が持てず、首を捻るが納得したことにして話を戻す。
「それで、デートってどういうこと?」
「どうもこうもないだろ。仕事のこと考えてばっかりだと息が詰まるだろ? だから街を見て周って楽しむんだよ」
「なんだ。そんなことか」
リュウオンが息抜きに街に遊びに行きたいってことかと理解し、シズクは拍子抜けするとともにほっとした。
「だろ。男女で街に出かける普通のデートだ」
シズクはデートという言葉にこだわるリュウオンへの返答に困り曖昧に頷く。
代金を払い、仕事終わりの飲み客で賑わう店を出る。
リュウオンはたいして距離は変わらないからとシズクのアパートまで毎回送ってくれる。たわいの無い話をしながら帰路へつくこの時間は、部隊にいたころにはあまり無かった穏やかな時間だ。
シズクはこの時間を心地良いと思う自分の変化に驚きながらも隣のリュウオンをちらと見た。
視線に気付いたリュウオンはニヤッといたずらっ子のように笑って少し距離を詰めてきたので、シズクは思わず避ける。
「なんで避けるんだ」
「ごめん、条件反射で」
リュウオンはむっとしたような顔をするが、シズクは笑いながら答える。
ここ最近で確実に2人の距離感が変わったと感じる。ましてやシズクはリュウオンの上司だったのだ。こんな気軽なやり取りなど出来なかった。
部隊にいた時は常に緊張感を持っていたからあまり冗談に付き合っている余裕がなかったなと昔を振り返る。
リュウオンは以前からこんな感じだったのでやはり自分が変わったのだろうとシズクは思った。
シズクのアパートに着いたところで2人は足を止める。
「じゃあ次の休み、昼前に迎えにくるからな」
「わかった」
「デートだってこと忘れんなよ」
ニカッと笑って去って行くリュウオンをシズクは苦笑して見送る。
部屋に戻ってからやけにデートという言葉が頭から離れずソワソワするが、その気持ちがどういう感情から来るのかシズクにはわからなかった。
次の日の午後。
シズクの受け持つ授業は午前だけだったので、今日は早目に切り上げて帰ろうとしていると、休憩室に友人が訪ねてきていると言われた。
至急の要件と言われたので、早足で休憩室に向かう。
そこには緩やかなウェーブのかかった金髪で、パッチリとした目にアクアマリンのような瞳の儚げな美女が優雅に紅茶を飲んでいた。
貴族の御令嬢で先日これまた位の高い貴族に嫁いだばかりの彼女は、見た目や育ちとは裏腹にかなり気が強く豪快な性格でもある。
「あら、シズク。ご機嫌よう」
「エマ。ごめん、待たせた」
至急の要件とは何だろうと気になりながら足早にエマに近寄る。
「いいえ。予定通りだわ」
スッと立ち上がると参りましょうかと微笑んで
歩き出す。戸惑いながらもシズクはエマに続く。
「至急って聞いたけど何処かに行くの?」
「それは着いてからのお楽しみよ」
シズクは意味深に微笑むエマを訝しむが、押し込まれるようにして馬車に乗り込んだ。
目的地に到着したようで馬車がとまる。馬車から降りたシズクは目を見張った。
そこにあったのはシズクには縁のなさそうな高級ブティックだった。
シズクは驚いてエマを振り返るがすかさず腕を取られ店内に連行される。
店員に恭しく出迎えられ奥に案内される。
焦るシズクは小声でエマに抗議する。
「ちょっと! エマ! 何でこんな所に来たの⁈」
「あら私、シズクが困っているかと思ってお手伝いに来たのよ?」
「ちょっと何言ってるのかわからないんだけど……?」
「デート。するんですって? サイオンジ隊長と」
ハートマークが所々につきそうな言い方でうふふと笑うエマに、これはやられたとシズクは思った。
「違うって。ただ普通に出掛けるだけだから」
シズクは冷やかされるのは御免だと思い否定するが、エマはフフンと鼻で笑う。
「わかってないわね。あの男がデートって言ってるんだから本気なのよ」
確かに何度も念を押されたことを思い出し、シズクは押し黙る。
そんなシズクを気にすることなくエマはワンピースを選び出した。
「シズクは爽やかな水色かミントグリーンが似合うと思うのよね。でもデートだと白かピンクの方がいいかしら。あ、シズク。これとこれと、あとこれも試着してみてね」
思考停止状態だったシズクはもうどうにでもなれと投げやりな気持ちになりエマの言う通りにする。
「やっぱりミントグリーンがよく似合うわね。これにしましょう。店員さん、これに合う靴とアクセサリーを出してくださる?」
エマのおかげでサクサクと決まっていく。シズクはその様子を何とも言えない気持ちで見ていたが、エマからワンピースや靴を渡され再度試着室に押し込まれる。
着替え終わり出てみると今度は化粧道具を持った店員にメイクとヘアセットを説明されながら施される。
ひと通り終えたところで放心状態のシズクの全身をエマがチェックする。
ブルーアッシュの髪はショートボブの長さなので片方だけ耳にかけてバレッタで止め、色白であまり血色の感じられなかった顔はピンクのチークとリップで温もりのある印象になった。
袖がレースになっているミモレ丈のカシュクールワンピースは大人っぽい上品さが出ている。
「さすが私。予想以上の出来だわ」
「そうだね」
「あらやだ、冗談よ。シズクは美人なのだからこういう格好も素敵よ。これはあの男も見惚れるに違いないわ」
「そうだね。……って、やっぱりこれってデートに着ていけ、ということですかねエマさん」
ようやくシズクは我にかえる。当然でしょうと答えるエマは支払いも全てしてくれていたようだ。
シズクは慌ててお金を出そうとするがエマに断られる。
「これは私からのプレゼントよ。面白い……いえ、素敵な報告を待っているわ」
とウインクするエマにお礼を言うが、釈然としない気持ちになる。
「さてと、まだ時間もあるようだしお茶していきましょう。パフェがおすすめの噂のカフェに行ってみたいのよね」
シズクは、今日はエマに振り回される日だなと諦めて楽しむことに切り替える。
「いいね。私も行きたかったんだ」
カフェの店内は女性客でそれなりに賑わっていた。窓際の席に案内され、それぞれパフェと紅茶を注文する。
「シズクにもようやく春が来るのね」
「? 確かに最近すっかり暖かくなったね」
頓珍漢な返答をするシズクにエマは呆れる。
「何言ってるのよ。恋の話よ。こ・い。言っとくけど魚の鯉じゃないわよ。シズクの恋バナ、どれだけ待ち望んだことか!」
エマの勢いにシズクは引きながら困ったように言う。
「恋、ねぇ」
10歳から軍に入り、10年以上恋とは無関係の所にいたシズクにはピンとこない言葉だ。
エマの夫との馴れ初めは一から知っているし、事あるごとに愚痴という名の惚気話を聞かされてきたが、どこか物語や舞台を見ているような心持ちだった。
それが自分のこととなると尚更実感がわかない。このままひとりで生きていくものだとぼんやりと思っていたし、今でも変わらない。
パフェと紅茶がきたため2人はそちらに集中する。
「やっぱり春は苺よね」
エマは上品に苺を口に運びながらうっとりとした顔をする。
シズクもエマに同意し苺を頬張る。
お互いの近況をポツポツと話しながら食べ終えるとふとエマがシズクを見つめていることに気付いた。
「私、顔にクリームついてる?」
少し慌てて口元を拭うシズクにエマは真面目な顔をして言う。
「シズク、私は本当にあなたの幸せを願っているの。だから何でも相談して頂戴ね。どんな手を使ってでも力になるわ」
真剣でどこか切羽詰まったような口調で言うエマに気圧されつつもシズクは笑って返す。
「うん、ありがとう。頼りにしてるよ」
「というわけで、来週もお茶しましょうね。とっても楽しみだわ」
シズクの言葉に安心したようなエマはにっこりと綺麗に微笑むが、シズクはガックリと力がぬける。
「期待に添えないと思うけど、わかったよ」
エマと分かれて自宅に戻ったシズクは、ふぅっと息を吐きハンガーにかけたワンピースを見つめる。
殺風景な部屋が明るく華やいだような気がした。