●夢か現か
エリヴィラはメイドに変装したレティシアの足音が完全に消えてしまうまで、じっと待っていた。
足音が消えてしまってもしばらくは身じろぎもせず、目を閉じている。
レティシアとの短いおしゃべりが楽しかった分、急にさみしくなるのだろう。
静寂に耳をすまし、本当に何も聞こえなくなったのを確認してから、ようやく食事のトレイをテーブルに運ぶ。
席に着き、紅茶の入ったポットを手に取るとまだ中身が熱いのに気づく。
きっと来る直前に淹れてくれたのだ。
エリヴィラのために。
きちんとたたまれた着替えも、温かい食事も、クッキーを包むナプキンに結ばれたおそろいのブレスレットも。
全部、全部、みんなでエリヴィラのために用意されたものだ。
……みんなで。
言葉の端々から、レティシアがいつものみんなとずっと一緒にいることがわかる。
エリヴィラのためにしてくれていることとはわかっているが、それでも……
懲罰室に一人寂しくいる間、グローリアやマリオンがレティシアと共にいるのはうらやましい。
「何も、持ってない時は平気だったのに」
エリヴィラは一人でいることで自分を守ってきた。
独りぼっちは必ずしも悲しいことではないけれど、エリヴィラは傷つかないために一人を選択しただけだ。
本当に欲しかった場所を手に入れてしまえば……一人は辛くなる。
懲罰室と言っても、ここには何でもある。
家具はエリヴィラの部屋にあるものより上等だし、勉強道具はすべてそろっているし娯楽のために読む本も頼めば与えられる。
ただ、友達だけはいないのだ。
毎日エダが来てくれることは彼女の気晴らしになっていた。
レティシアが来てくれたことも、跳び上がるほど嬉しかったけれど……その分寂しさが募る。
料理の前に座ったが、ひどく食欲がない。
冷めないうちにと急いで持ってきてくれた料理も、すっかり冷え切ってしまっている。
「食べなきゃ。元気で居なきゃ」
最後に頼れるのは自分の体力なのだから。
レティシアを助けなければいけないのだから……
「え?」
そんなことを思った自分に、エリヴィラは首をかしげる。
「あれは夢、なんだから」
昨夜の夢のせいだ。
別れ際に気をつけてと口走ってしまったのもそのせいだ。
夢、夢の話。
誰かがいたのだ。
いつの間にか、部屋の中に。
誰だったかはわからない。
所詮夢だから、目覚めてしまえば急にあやふやになってしまう。
誰なのかはぼんやりとしているのに、その誰かの言葉はやけにはっきりと覚えている。
「レティシアを殺しなさいな」
誰かはいきなりそう言った。
「どうして私がっ」
「大丈夫よ。これを使いなさい。貴女に流れる呪われた古い血が使い方を教えてくれる。失われた魔法だから、貴女に疑いがかかることはない。貴女にできるはずがない魔法だから、レティシアが死ぬと同時にあなたの疑いもとけるだろう」
「だから、どうして私がお姉さまを殺さないといけないの!? 絶対に嫌!」
「なら、他の方法にするけれど、いいのかい?」
「いいのかって……」
「レティシアを貴女だけのものにするチャンスだと言うのに?」
「え?」
「レティシアは誰にでも優しい。貴女にさえ優しい」
「ええ、お姉さまはやさしいわ。誰にでも分け隔てなく!」
「そうだね。だから誰も特別になれない」
「………」
「だからこれは、貴女がレティシアの特別になれる、最初で最後のチャンスだよ」
「誰も、二度と死ぬことはできないのだから」
誰も二度は死ぬことができない。
それがひどく甘美な提案に聞こえた。
「準備はしておくよ、そこに置いておこう。誰にも見つからないように……」
エリヴィラはスープに浸して持ち上げたスプーンを口には運ばずそのまま下ろした。
食欲がない。
だけど少しでも食べないと。
体力をつけないと。
それに、体調を崩せばレティシアに心配をかける。
せめてお茶とクッキーだけでも、と冷えた紅茶を一口含む。
野の花や森を抜ける風のような香りの後に、まどろみのような甘み、少しの渋みが最後に残って消える。
淹れたてのこのお茶を、笑いながら飲んでいた時間がひどく遠くに感じる。
クッキーの包みからブレスレットをほどいて、腕につける。
エリヴィラが作った花、グローリアが編んだリボン、色合わせはマリオンが。
レティシアが来る前には、同じクラスに居ながら言葉を交わすことすらなかった三人だ。
今、彼女達はどうしているだろうか。
エリヴィラはクッキーの包みを開いた。
クッキーから出る油でまだらになった包みには、メッセージが書き込まれていた。
グローリアから。
マリオンから。
モーリア先生から。
エダから。
ラウラから。
イルマから。
「……一緒にいるんだ」
メッセージを見てそう悟った。
食事は温かかった。
レティシアは自分が食べる前に運んできてくれたのだろう。
グローリアのメイドの服を着ていたのだから、レティシアは必ずグローリアの部屋に帰る。
だったらグローリアたちは、レティシアが戻るのを必ず待っているはずだ。
そして今頃みんなで温かい食卓を囲んでいる。
笑顔で。
エリヴィラがこんな寂しい懲罰房で、たった一人冷たいスープを前にしている時に。
彼女は立ち上がり、本棚の前に立った。
授業で使うのと同じ教科書が並び、一番下の段には重くて分厚い辞書などが並んでいる。
『そこに置いておこう』
夢の中で何者かが指さした場所だ。
辞書に触れると、それは背表紙だけで中に背の高いビンがいくつも並べられていた。
「どうして?」
震える手でひとつ持ってみると、中の液体は揺れるたびに淡く発光する。
入っている液体に何らかの魔力が込められてるらしい。
「うそ」
初めて触るものなのに、エリヴィラにはなぜかそれの使い方が分かった。
「うそ……やだ」
あれは夢ではなかったのだ。
レティシアは本当に狙われている。
早く誰かにこのことを教えないと、謎の人物は別の方法でレティシアを殺すと言っていた。
だけど……だけど……こんな自分でも信じられないような話を、先生たちは信じてくれるだろうか?
下手をすれば、さらに自分に疑いがかかるかもしれない。
エリヴィラが犯人だと誤解されている間に、レティシアが別の方法で殺害されるかもしれない。
「どうすればいいの?」
なにもできず、エリヴィラはただゆるゆると発光する液体を見つめる。
『だからこれは、貴女がレティシアの特別になれる、最初で最後のチャンスだよ』
何者かの声が、脳裏によみがえる。
『誰も、二度と死ぬことはできないのだから』
「お姉さま……」
自分の声が遠く聞こえる。
「お姉さま、お姉さま。私、私、お姉さまの特別になりたい。私……お姉さま、お姉さまお姉さまお姉さまお姉さまお姉さまお姉さま。エリヴィラはお姉さまの……特別になりたい」
そして、特別になる方法は、彼女の手の中にあるのだ。




