2・優男な兄と遭遇しただけ
私、アイリス=フェルヴェルフォンはフェルヴェルフォン伯爵家唯一の令嬢として生まれた。
上には兄が3人いるが、2人は自ら王国軍に志願して家を出て行ってしまい、長男のライアス=フェルヴェルフォンだけが伯爵としてこの家に残っていて、ほとんど一人で領地を統治している状態だ。
長男が伯爵の名を継いだことからわかるように、私の両親はすでに他界していた。
私が物心つく前に亡くなっているため、私には彼らの記憶はない。
そしてここ、『フェルヴェルフォン伯爵領』は国内最高峰の山々が連なるフィロテラス山脈の南側とそこから流れるイシェス運河の上流を領内に持つ、比較的豊かな土地である。
領地そのものは広いわけでもなく、典型的な一つの村と広大な畑がある形態だ。
そして豊かな土壌を活用し、うちの領地では高級葡萄の栽培が盛ん……らしい。
というよりフェルヴェルフォンの特産品といえば品質が高い葡萄くらいしかなく、ほかの作物などはようやく自給自足できる程度の量しか生産できていない……らしい。
……さっきからちょくちょく歯切れが悪いのは、このアイリスの記憶の中に領地経営などの情報が一切ないからだ。
おそらく私は、記憶を取り戻すまでの間一切領地の状況に興味がなかったのだろう。
こういうことを考えると、魔王としていくつもの国を支配していたころの感覚がむずむずと騒ぐが……。
そして最後に私自身についてだが。
よくよく冷静になって記憶を取り戻してみると、いかに私が今までダメダメな人間だったかがわかった。
食事は不摂生に肉ばっかり食べるくせに、肌荒れを気にして無意味な美容法をいくつも試したり。
資金関連のことをなにも知らないくせに、無駄にドレスやアクセサリーを大量に買ってもいたし。
ろくに人の言うことすら聞かないくせに、メイドが何かしらの準備を怠れば無駄に怒鳴りもする。
などなど、その傍若無人さといえば枚挙にいとまがない。
(あぁ、もうやだ、転生して意識が戻ってから一日も経ってないのに軽く死にたくなってた……あぁ……やだなぁ)
凄まじい自己嫌悪に陥って物理的に頭を抱える私。
髪を触った時、べたついた蜂蜜が手についてもっと嫌な気分になった。
だがしかし、こんなことでへこたれるわけにはいかない。
そう、魔王として君臨していた時の苦難といえばこんなものの比ではないのだ!!
悔やんで悶々とした気分になっていても何の意味もない、と自分自身を叱りつつ私はこれからの課題を脳内で整理してみる。
(まずは、冷え切った使用人たちとの関係改善からか。そして次にこの目も当てられない身体の惨状をどうにかして改善すること。あとは領地経営の状況を確認して、なにかできることがあれば家のためにちょっとは貢献しなくちゃな!)
確か前世で読んだ『モテる女の秘訣』とやらによると、領地経営や資金繰りなどが上手い女性ほど男性から人気らしい。
なんでも結婚した時に夫がやるべき分を負担できるのだから、これは結婚を視野に入れた恋愛をする上では重要……なはずだ!!
そして評判も大切だ。
いくら外面をきれいに整えていても、それらはよからぬ噂一つで全て台無しになってしまう。
前世ではいくらでも情報操作できたが、今世はいくら伯爵家の令嬢とはいえ影響力は小さいのだ。ただの使用人、といって馬鹿にせず一つ一つ小さなところにも気を配ってこそ初めて真の『良い女』になれるのだ(『モテる女の秘訣』より引用)。
「よし、まずは洗顔からだ……!」
こうして私の、長きにわたる壮絶な戦いが始まったのであった。
~【翌日】~
朝早くに起きた私はまず、自分の力で着替え始めた。
普通はこれが当たり前なのだが、伯爵令嬢ともなるとメイドが着替えを持ってきたりして補佐することが常識となっているため、アイリス自身が一人の力で着替えたことはほとんどなかった。
脂肪が厚いせいか、思うように腕が通らなかったりして四苦八苦したものの、どうにか黒いワンピースを一人できることが出来た。
もちろん、昨日の悪夢のようなヘアケアはしていない。というか二度としない。
着替え終わり、腰まで伸び切った髪を埃だらけのタンスから探し出した紐で結う。髪形は手軽なポニーテールに変える。前世の私もよくしていた髪型で、割とお気に入りだ。
思わず鏡を見てかっこつけようとしてみるが、どのような角度から見てもブス、ブス、ブス……とだんだんブルーな気持ちになってきたため、急いで鏡の前を後にする。
まだ起床を知らせる村の鐘が鳴っていない時間帯のため、廊下や庭にはメイドもコックも誰の姿も見えない。ドスドスという轟音を響かせつつ(※本人は気づいていない)、自室がある3階から階段を下りて庭にある井戸へと向かう。
だが庭についたころには、私はもう疲れ切って肩で息をしていた。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……ッ! やばい、たかが3階を下りるだけで疲れるとか、運動不足にもほどってものがあるんじゃないの……? ハァ、ハァ……」
まさにデブ特有の災難。
あまりの疲労に、朝っぱらから一日分の力を使い切ったと錯覚するレベルでベッドに戻りなくなったけれどここで戻ってはなんというか苦労が無駄になる気がする。
そんな悶々とした思いを抱えながら、私は汗びっしょりになりつつも井戸へとたどり着く。
なぜ寝間着から着替えてしまったのか若干後悔しつつ、短い腕を伸ばして木製の桶を滑車に取り付けて水をくむ。
おそらく健康な皆さんには想像もつかないと思うが、『普段からあまり動かずに怠惰な生活を行っていたデブにこれらをやらせること=ほとんど死刑宣告』なのだ。
もはや滝のように粘ついた汗を流しながら、やっとの思いで冷水の入った桶をつかむ。
「うぉお……気持ちいい……」
井戸から汲まれたばかりの水が、火照った私の手を一気に冷ましてくれる。
そのあまりの極楽さに思わずうっとりしつつ、私は水を掬って洗顔を始める。
今はろくに洗顔剤もないが、とりあえず冷水で顔を洗えるだけでも僥倖だ。
ばしゃばしゃ、と首周りにも水をかけて、すっかり皮脂汚れを落とし切って爽快な気分になった時だった。
「あれ、もしかしてアイリスかい?」
ふと耳に届いた、優しく柔和な声。
同時に何か、果物系の甘い香りが後ろから漂ってきた。
後ろを振り返るとそこには同じ屋敷に住む件の兄、ライアスが眠たげな瞳のままバスローブ姿で駆け寄ってきた。
私と同じく金髪を持っているが、私とは違って艶がありほどよく手入れされているのを感じる。
瞳は本当に私と同じ一族の生まれか疑うほど大きく、美しい翠色をしている。
妹でありながらも、思わず恋情を抱かずにはいられない相手だ_______いや、別に親類と結婚するつもりはさらさらないけど。
「あ、おはようございますお兄様。こんな早い時間から起きてるんですね......」
「まぁ、早起きは健康にいいからね。というよりアイリスがこんな朝早くに起きてるだなんて……、いったいどういう風の吹き回しだい??」
なんか遠回しに馬鹿にされたような気分になるが、おそらくライアスに悪気はないのだろう。
なにか不思議なものを見るような目で、私の姿をじろじろと見てくる。
「いえ、なんでもないです。ただ、ちょっとした事情があって私はこれから健康にならなくちゃいけないので」
「けけけ、健康っ!? ま、まさかアイリスの口からそんな言葉を聞く日がくるなんて!?」
「えちょ、私そんなに低く見られてますか!? 淑女たるもの、身辺を整えることは基本ですよね?」
「しゅ、淑女だって!? アイリス、どうしたんだ何か変なものでも食べたのかい!?」
さっきまで眠そうにしてた姿はどこへやら、目を見開いて駆け寄ってくるライアス。
女の私よりも細くて綺麗な手を、私の両頬にあてて至近距離で目をのぞき込んでくるその姿に、思わず胸がドキッとしたが、直後にその手をぶんぶんと振り払って距離を置く。
やばい、これは無意識で異性を誘惑するタイプだ_______
「いっ、いえお構いなく!! ほっほら、お兄様も顔を洗いに来たのでしょう!?」
「いやだって、本当にどうしたの? いつもの君とは全然違うけど?」
マジで心配している顔をされて若干凹む私だったが、たしかに記憶の中では私は傍若無人で浪費家でわがままな典型的悪役令嬢だった。
ライアスが急に変貌した私を怪しく思うのも無理はない。
「いいんです、いいんですお気になさらず。お兄様の好きなように解釈してください!」
「う、うん……? そっか、そこまでいうなら追及はしないけど……」
まだ訝しむような視線を投げかけてくる兄に背を向け、そーっと立ち去る私。
(うーん、実の兄にこれだけ疑われるんだから、他人から見たらもっとなのか……?)
微妙に疑念を抱きつつも、さっぱりした気分を味わいつつ庭を後にする。
そしてさっきよりもキツイ昇り階段を苦労して登り切り、自室に戻る。
顔だけは冷たい水で洗ったせいか大して汗は出ていないが、それ以外の全身は汗びっしょり。
水浴びでもしたい気分だったが、あいにくメイドたちもまだ起きていないのですぐに用意させるのも難しいだろう。
「ハァ、ハァ……まったく、この程度で疲れるなんてこの先が思いやられる……」
ため息をつきつつも、キャビネットの中からタオルを探し当てて、服を脱いで汗を拭く。いくらかすっきりしたため、タオルは首にかけて別の服を取り出す。
気温から考えて、今の季節は初夏といったところだろうか。
まだ陽が射していなくても暖かかったので、これからどんどん暑くなることも考えて、風通しが良くて薄く白いワンピースを選ぶ。
さっきの黒いワンピースは汗でビショビショなので、袋に入れて部屋の入り口に置いておいた。
「これでよし、と。さてさて、まずは容姿から______と行きたいけど、今は領地経営の状況を把握するのが先ね。ダイエットは徐々に始めるとして、後でライアスを訪ねて帳簿を見せてもらわなきゃ」
ダイエットは継続してこそ効果の出るもの、だから現状では手っ取り早く済ませられる方を先に選択しようと決意する。
そして私は机の引き出しの中から羊皮紙を取り出し、羽ペンとインク瓶を用意して今後の計画を書き始めたのだった。
なんだか地の文が長い、と書いてて思いましたが皆さんはどう感じるのでしょうか?
意見を聞きたいですね...!
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