別杯
朝から雨が降っている。
静かに道の土ぼこりを抑えている。騎者にとってこれ程有難いことはない。
だが、この雨が同時に私達の心を鬱屈させることも否めない。
楼台で私達は何を言うでもなく向かい合ったまま座っていた。
廷はもう荷物をまとめ、椅子の横に置いている。雨が止んだらすぐにでも出発するつもりなのだろう。
視線を動かすと、柳が雨に濡れてつやつやと光っている。はなむけに送るに相応しい、良い柳だ。
ふいに廷が顔を左、彼にとっての右に向けた。その拍子に左耳の古傷が一瞬顕わになる。
廷の視線の先を追うと、この宿屋の一人娘がこちらにやって来るところだった。手には酒瓢と盃を乗せた盆を持っている。
「お待たせしました」
年の頃十二、三歳のその少女はにっこり笑い私達の机に酒瓢と盃二つを置いた。
「失礼、小姐。頼んでいないのだが……?」
私の少し非難めいた言葉に、少女はひどく驚いた顔をした。
「え、そりゃ頼まれてはいませんけど……。だって、小父さん今日雨が上がったら西に発つんでしょ?」
少女は廷に向かって問い掛けた。廷は頷く。
「で、小父さんはそれを見送りに来たんでしょ?」
今度の問は私に。私も頷いた。
西に発つ者はここ渭城まで見送るのが習わしだ。
「じゃあ、何で飲まないんですか? 別れるときに酒を酌み交わさないなんて、そんな馬鹿な話があります? 頼まれなくたって、酒を持って来るの、当然じゃないですか」
少女は訳が解らない、といった顔をした。
私が口を開きかけたのを廷は目で止め、少女に微笑みかけた。
「いや、変なことを言って悪かった。有難く頂こう。」
廷の言葉に、少女はぱっと顔を輝かせて言った。
「はい! 足りなくなったら、すぐに言ってくださいね」
「良いのか?」
少女が宿屋に入って行ったのを確認してから私は尋ねた。
「酒に罪はない」
廷はそう歌うように言って、私の盃に酒を注いだ。仕方なく、私も廷の盃に酒を注ぐ。
互いに無言で、まずは一口。
「酒とは一体、何なのだ?」
私がため息と一緒に呟くと、廷は苦笑して口を開いた。
「何て顔をしているんだ。折角の老酒に申し訳ない」
「無理するな」
「無理? 馬鹿言うな。そもそもお前は何か勘違いしている。別に俺は誰も、何も恨んじゃいない」
私の一言に、廷はキッと私を見据えていった。
その言葉に嘘はないだろう。こいつは、そういう奴だ。私はゆっくりと盃を二杯空にしてから言った。
「馬鹿だよ、お前は」
「何だと?」
「何も、本当に命令通り西に行く必要はない。帝だって、まさか本当にお前が命令に従うなんて思っていないだろうよ」
廷は黙って私を見る。その気迫に負けそうになって、私は一気に盃を空にした。大声で酒の追加を頼み、私は続けた。
「命令通りにしても、何の意味もないんだ。そして、命令に背いたって、何もありはしない」
廷は何も言わず、私をじっと見たまま酒を飲む。
私は声を張り上げた。
「愚直と言うんだ、お前のような奴を」
「ちょっとちょっと、何やってんですか、小父さん」
横からの声に顔を向けると、追加の酒を手にした少女が呆れ果てた顔をして立っていた。
「酒飲んでるのは良しとして、別れの際に喧嘩する人がいますか。本っ当非常識すぎますよ、小父さん」
突然の横槍に私は思わず赤面し、廷はそれを見て小さく笑った。
「酒酌み交わして、励まして、まあお上の悪口なんか言って、ってのが別れの酒の飲み方でしょう? あと、そうですね、上流の人だったら詩読んだりして。とにかく、今生の別れかもしれないってのに喧嘩なんかしちゃ駄目です!」
少女はきっぱりと言って、酒瓢を乱暴に机に置いた。
「有難う、小姐」
廷が笑いながら言うと、少女は少し顔を赤らめて退出した。
――この色男めが。
「さて、別に俺はお上の、帝の悪口を言うつもりはない。命令に背く気もない」
廷はくっと盃を空にした。
「大体、命令に背いた場合、何処に行けと?」
「都じゃなきゃ何処にいようと構わない」
「そして、一狩人として暮らすのか? 身元を明かさないよう一生びくびくしながら?」
皮肉な口調で廷は言った。
「悔しくないのか?」
私は尋ねた。
口に出してから気付いた。私がこいつに一番言いたかったのはこれだったのだと。
そして、答えは判っている気がした。
「全然」
と。
「むしろ優越感さ、感じているのは。帝は俺が怖い、だからあんな命令を出した。解るだろう? 帝は、俺を恐れているんだ」
廷は勢い良く酒を飲み干して言った。
「充分、悪口になっているぞ」
私はそっと盃に口を付け、笑った。
「判った。このことについては何も言うまい。要するに、お前は命令を遂行し、そして堂々と帰還するつもりなんだな」
廷は、返事の代わりにまだ入っている私の盃に酒を注いだ。
そうだ、こいつはそういう奴だ。
「頑張れよ」
廷の盃に酒を注ぎながらそう言ってみた。と、ふいにこいつなら本当に帝の難題をこなしてしまうかもしれないと思った。無論、そんなことは有り得ない。私は酔っているのかもしれない。
だが、脳裏に絶句している帝と静かに礼をして任務完了を告げる廷の姿が浮かんだ。何と愉快な光景だろう。
こいつなら、もしかするかもしれない。修蛇を退治したこの英雄なら。
「帝は、自分で自分の首を絞めたのさ」
廷の言葉に私は笑い、立ち上がった。
「さあ、これで酒を酌み交わし、励まし、お上の悪口を言った。後は、詩だ」
雨はもうすぐ上がる。
そして廷は西へ旅立つ。帝の命令通りに。
西の地の何処かにあるという、酒の泉を探しに。
「良く聴けよ、廷。当代一の詩人の最高傑作を」
私は廷の盃に酒を注ぐと、息を吸って目を閉じた。
世界一の美酒が湧き出ているという幻の泉。
――渭城朝雨浥軽塵
客舎青青柳色新
勧君更尽一杯酒
西出陽関無故人――
見つけるまで、廷は帰って来ない。
<注記>
渭城朝雨浥軽塵 渭城の朝の雨は軽塵を潤し
客舎青青柳色新 旅館から見ると柳は青々としていて新鮮だ
勧君更尽一杯酒 君に勧めよう、もう一杯酒を飲み干せと
西出陽関無故人 西の陽関を出たら昔からのこうして飲み合える友人はいないのだから
(出典・王維「送元二使安西」)