国連の報道の自由に懸念は日本政府批判だけではなかったが、ソレをいつまでも隠す日本の報道姿勢。
2016年、2017年。
2年連続に渡る国連韓国だが、実は今年の国連の懸念は日本政府よりも日本のマスコミの報道姿勢に対する懸念の方が強かったということは全く報道されていない。
今や報道の自由は日本政府に対してよりも日本の報道陣に対して向けられている。
国連が日本政府に対し、情報を提供していないと示す一方、今年の懸念は去年より強い言葉でもって報道者達に向けられた。
それは「日本の報道は政治的中立性が全く確保されていない」ということだ。
2016年のデビッド・ケイの2時間に渡る会議でも触れられていたが、日本の報道姿勢は先進国の中でも「政治的中立性」を全く意識していないものだ。
これは最近ではBBCなども取り上げるようになってきており、米国よりも酷い状況に陥っているとされる。
今年の国連の発表では、特に記者ら個人の報道の自由がテレビ局や新聞社によって侵害されているという文言が盛り込まれた。
理由としては「テレビ局と新聞社は己の思想を世に広めるために、記者達が記事にしたい内容を制限し、特定の思想のものだけを取材するように強制している」という状況だ。
これは日本の司法が昭和44年に明言した報道の自由とは何かに対する考えとほぼ一致するものだが、アレから半世紀が経過し、この考えが再び形骸化しつつあることに世界から批判された形である。
まず報道の自由とは言い換えれば取材の自由である。
つまりは、取材を行う記者達にもまた、取材を行う自由がなければならない。
一方で、取材の自由は日本では殆ど担保されていない。
なぜなら、街中で様々なレポートやリポートがされていても、実際に新聞やニュースで取り上げられるその殆どは政治的批判などに向けられているからだ。(ほぼ国連の懸念の原文そのまんま)
第一が、日本のマスコミは民主主義を勘違いしている部分がある。
民主主義だろうが、共産主義だろうが、国民には様々な権利と共に義務が課されているわけだが、基本的には「国家に対しては奉仕しなければならない」という思想の下、私達は国民としての生活などの各種自由の権利を与えられている。
これは「国籍」の下に全ての国民が平等に与えられた権利なわけだが、当然その裏には「自然権論」など、様々な思想を尊重してそのような状況となっている。
だが、国家に反逆的な思想を展開する、ないし国家に批判的または国家とは全く合わない思想を持つという場合、国家は最悪「国籍」を剥奪できる。
ロヒンギャの者達が「国教とは異なるイスラム教徒」であるということで「無国籍」になっているが、日本国も本気になれば「国籍剥奪は可能」
かつて何度も議論されたが、実は国連において一切制限されていないことがある。
それこそが「国籍剥奪」である。
これは無国籍にして海外に流刑することが結構当たり前に行われる東側諸国に配慮したものだが、そのような行動は米国や英国でも行っており、過去例がないわけではない。(日本人が一度米国移民となり、米国籍を手に入れた上で剥奪され、無国籍となった例もある)
むしろ過去から現在まで例がない稀有な歴史を持つ先進国こそが日本なだけであって、昭和から平成に渡る現在まで何度も議論はされてきた話題だ。
彼ら報道陣は「法の下に平等」を掲げるが、日本国憲法は「国籍保有者」ないし「日本国民」しか保護していないということにお気づきだろうか。
そして国連は「国籍剥奪」について一切批判的な話を主張しないのはご存知だろうか。
ようはそういう事なのだ。
わざわざ日本政府が特定秘密を保護せずとも、国家機密を犯すような危険人物から国籍を剥奪じ、国外退去を命じるということは不可能ではない。
実は与党(自民その他)にも野党(民進、民主その他)にもこのことを理解して「あんまり頭がおかしい連中はそろそろ国外退去の話してもよくね?」なんて言ってるが、日本も入国拒否による実質的無国籍者というのはいる。
そういう締め出しは西側でも欧州においては何度か事例がある。
いかな民主主義であっても、知る権利があったとしても現段階で「国益」に直結するような情報をおいそれと外部に公開は出来ない。
にも関わらず、ここ10年の報道は酷いものだった。
ここ最近、中央官庁では報道記者の完全閉め出しが行われている。
原因は、「盗撮」および「資料などの窃盗」である。
2009年。
民主党が政権を奪取してから、報道陣は水を得た魚のごとくこれまでよりも精力的に活動した。
彼らが中央官庁で何をやったかというと「スキャンダル」と称して盗撮と窃盗を繰り返したのだ。
中央官庁においては、元より「他国に公開できないような国家の重要情報」というのが大量にある。
彼らはそういった所で許可もなしにあれこれ撮影するようになり、さらには資料を盗むようになった。
それがほんの8年前のこと。
流石の自民党政権下では監視も強かったが、政権を担うことに不慣れな民主党はそれを許した。
今の中央官庁の閉め出しは完全にその時の反動である。
しかも笑えないことに、報道記者は「政治的中立」を理由に、民主党批判を展開するためにも、この行動を行ったのだから始末に負えない。
結果的に「もはや性善説を利用した自浄作用に頼ることが出来ない」ということで中央官庁は閉め出しを行ったわけだ。
現在においては開放された一部の区画以外は一切報道記者なども立ち寄れなくなった。
それを彼らは「報道の自由!」「知る権利の尊重!」と叫んでいるが、国連ではこの日本国の対応に、一定の理解を示していることも全く報道しない。
まず1つ、国連が日本の報道に対する「中立性」に懸念を称した時に発したように、基本的に国民は「私生活や各種活動において国家転覆を画策してはならない」というのが常識だ。
民主主義においては、選挙権などが与えられ、平等に政治家として立ち上がることができる。(本当に平等だとは言わないが)
また、政治家として活動するための言論活動も自由だ。(講演をやるとか、本を出版するとか)
元来、本当に現政権に問題があるというなら民主党のように立ち上がるのが正攻法であり、私は民主党のせいで人生狂わされた部類の人間だが、彼らがやろうとした行動だけは一定の評価をしている。
(やろうとしたことだけであって、政権を奪取した後のことは評価していないし彼らに投票もしてはいないとも言っておく)
だが、報道記者たちは当時民主党をまるで神輿のように担いで勝たせたのを自らの功績だと勘違いしたのか、彼らが政治的な立場を強めるのと同時に中央官庁で大暴れするようになった。
そういった行動を監視しなければならない立場であったのを知らなかったのと、官僚主義を崩壊させようと思ったから黙認していたのだった。
この時に勘違いした民主党議員が、この間、内閣府に乗り込もうとして門前払いされて喚いていたが、そもそもが国会議員たりとて簡単に中央官庁には出入り出来ないことすら知らないのが与党だったなんて信じられん。
こういった行動が始まり、報道陣が増長したのはおそらく1990年代あたりから。
小渕総理あたりの頃と思われる。
1980年代の頃はここまで1つ1つの政治活動について、あれこれ批判を述べたりはしなかった。
確かに政権に対する不振や疑問の投げかけはあったが、現状のような「もはや反逆的思想に近いものを新聞記事に転写してオナニーする」ようなことを新聞社は少なくとも30年前には行っていなかった。
その部分について国連は「2年連続で懸念」を表明したのだが、彼らは「履き違えた報道の自由」でもってそれらを「黙殺した上で別の部分だけ強調して発表した」
国連が懸念を表明したのは文字通り「報道の自由というのはね、様々な媒体を集めると最終的に全ての情報がきちんと集まる状態であって、現状みたいに全ての報道陣営が一定の部分だけ切り取るのは自由ではないからね? 知る権利が担保されてないからね?」といっているがそれすら聞く耳を持たない。
実はかつてそのようなことを行って売れなくなり、つぶれかけた新聞社があった。
東京新聞である。
極めて右翼的な内容ばかりで、当時の人間は嫌気がさし、最終的に中部日本新聞に買収されて今日に至る。
中部日本新聞はその頃、関東では唯一のフルカラー新聞、東京中日スポーツを刊行していらが、東京新聞を買収したことで関東では東京新聞という名目で発行するようにもなった。
その東京新聞が今や同じ事を別の思想でもってやっているが、東京新聞以外のほぼ9割以上の新聞社が同じくそれぞれ独立した思想でもってあれこれ述べるようになってしまっている。
しかも全てが「一定の部分を強調してくりぬく」という行為を行い、正確な情報が伝わらない。
これはもう報道じゃないんだよね。
米国よりも日本の方が報道の自由において劣っていると国連が称したのはこの部分だ。
通常であれば、「最低限、それぞれが別々の部分をくりぬくので、最終的に全ての資料を集めればパズルのピースが埋まり、正確な情報が伝わるよう構成される」のだが、米国は雑誌や新聞においてこういったこどが十分可能な一方、日本ではそういうことがない。
何しろ日本人は「右向け右、左向け左」な人種だから、特定の部分だけ視野が狭く強調されると同調してしまう部分というか文化のようなものがあるが、報道姿勢においてそれは実は許されていない。
なぜなら報道には「正確性」というものもの求められるからだ。
全ての新聞社やTV局が一部だけ抜粋して報道するというのは「正確性」と「中立性」が全体から見て確保されていない。
国連はそう言い切った。
それに対する報道陣の回答は「そんなの知るか」であったようだが、正直言って最近は海外の日本に対するニュースの方が正確で速報性もあるから困る。
特に私が好きなのはBBC。
最近はよくネットニュースなどで速報で出る際に引用される。
このイギリスの放送局には日本支部があって、日本人記者が結構いるのだが、少なくとも現状でBBCの報道姿勢は「報道」とは何かを十分理解した上で正確かつ日本が報道しない部分まで深く掘り下げた話を展開している。
世界でもこの報道姿勢は評価されていたりするどころか、「お前が言うようになったら日本の公共放送は終わりなのだが」と思うばかりにNHKまで報道姿勢を評価していて笑えない。
だが厳密にいえばこれが正しい。
御嶽山の噴火においてBBCはわざわざ日本の記者を自衛隊と一緒に頂上まで派遣して報道した。
この際、この記者達は現地での救出活動も手伝い、食料を配布したりした。
一方で日本の報道陣は何をしてたか?
麓で陸上自衛隊の車両を映さないように必死になりながら状況を現地リポーターが伝えるだけだ。
頂上へ向かい、報道するだけなら賛否両論だが、BBC所属の日本記者はきちんと「救出活動」も手伝い、やるべきことをやっているから批判されなかった。
本当に正しい報道姿勢とはこのことであり、言論活動は「公共の福祉と共にある」と主張した司法の言葉をそのまま実践している。
他者の権利を侵すだけで何1つ得がない現状の日本の報道とは全く異なる。
今回の話は中部日本新聞だけの話ではないけれども、どうしても1度書いておきたくて書いた。
ちなみに、加藤登一はほぼBBCと同じ報道姿勢を理解していて、そのことは死ぬ間際に記した著書に記述されている。
「ありのままをありのままに。それを鮮明な写真でもって伝えること」
彼はそれを目指そうと中部日本新聞にて奮闘し、その心は当時の皇后様をも魅了させる何かがあったということ。
中部日本新聞には是非その当時の頃に戻って欲しいばかりである。
さて、一応言うと、今回の話は「政治的中立」「報道とは何か」の両面を意識して書いたつもり。
最終回としてはこの形で締めくくる。