天皇陛下の拝見とその理由。
1950年10月。
突如として天皇陛下が中部日本新聞を訪問した。
これは異例中の異例の行動であり、実は天皇陛下が名古屋を訪れていたのは別の理由であった。
この背景にはあまり日本史では語られない当時の皇后様の影響が多分にあったといわれる。
戦時中、立場上天皇陛下と共に表立って行動できなくなった皇后陛下は、元来より国民を愛する性格と、戦後より、昭和天皇のより強くなった国民に対する奉仕の感情を理解し、自身も精力的に日本の復興活動に従事する。
その中で皇后様は1946年に公布された日本国憲法における中部日本新聞の記事における天皇旗を大層気に入っており、かねてより興味を抱いていたのだった。
しかもそれだけではなく、どうやらその後も印刷される中部日本新聞のカラー印刷されたウィークリー記事の絵画などを個人的に収集していたようなのである。
この一連の中部日本新聞を東京にいた皇后陛下がどうやって入手したのかは全くもってわかっていないのだが、少なくともこれによって国体の開催前、中部日本新聞にある依頼をしているのだ。
それは「日本画家」が描き中部日本新聞で記事として掲載されていた作品を、中部日本新聞の技術で複数印刷したものが欲しいということであった。(皇室内に飾るならばその画そのものを求めればいいはずだが、なぜか中部日本新聞が複数印刷したモノを求めたのだった)
虎之助は当初その話を宮内庁から手紙にて知らされた際「いたずらか何かか?」と首をかしげたが、信じられないことに宮内庁の者がすぐさま直接訪れ、「予定は公開されていないが10月の国体の後、そちらに両陛下が出向くことになっている」と聞かされ、顔面蒼白で作業にあたることになってしまった。
ただ見学に来るということだけではなく、中部日本新聞の技術を生かした印刷物が欲しいというのは本当の意味で異例中の異例で、こちらから謙譲するのではく「所望される」というのは明治維新後、天皇制となった後も聞いたことが無かった虎之助は状況をすぐさま飲み込むことができなかったという。
ただしコレに関しては戦後状況が変わった日本国の象徴天皇制の下では特段問題となる行為ではなく、今日の日本においてもそういった「お願い」という形で要求することは今日でも例がある。
近年話題となった「生前退位」もそういった「お願い」の1つであるが、物品を「お願いする」という例は殆どない。
皇后様の心を振るわせるものを印刷し、世に送り出していたことに水野や川井、そして虎之助や驚きを隠せなかったが、「加藤ならば手紙の時点で行動を開始しただろうな」と当日までに何度も試行錯誤を繰り返して印刷物を作った。
当日、事前に宮内庁の職員から聞かされたとおり、陛下は国体の合間を縫って中部日本新聞を訪れた。
丁度国体の開会式のすぐ後の話であったが、それらの後の予定についてはその時点で発表されていない。
中部日本新聞に訪れた両陛下ではあったが、特に皇后様のほうが意欲的に見学されており、印刷工場内部の状況や印刷物についての質問を技術者に対して行うほどであったという。
これはつまりは皇后様の意向によって中部日本新聞まで訪れたことを意味しており、戦後の天皇史を語る上では見逃せない極めて貴重なエピソードである。
それまで昭和天皇を献身的に支え続け、昭和天皇の意向に沿うよう内助の功として活動し続けた皇后様が唯一昭和天皇に妻としての我侭を言った例ではないだろうか。
実に人間的な人間らしいエピソードであるが、天皇陛下自体もどうやら例のカラー印刷された日本国憲法の記事を拝見されていたようで、「これからもあのような新聞記事を作ってください」と、その旨を中部日本新聞の社員に伝えていた。
かくして突如訪れた特別な訪問者に多少困惑しつつも、以降も中部日本新聞は技術面で新聞業界をリードし、様々な面で功績を残した。
功績を残したのだが……正直最近の新聞や報道業界の状況は宜しくないといわざるを得ない。
次回が最終回となるが、それについて少々まとめてみようとは思う。