真のカラー新聞発行と、加藤登一の死
1948年初頭。
網目印刷などの手法の完成と合わせ、東京機械製作所と共同開発中であった新型の輪転機が実用段階まで近づいたため、中部日本新聞は試作機の発注を行った。
それまでの間、加藤らは試行錯誤を繰り返し、1946年の憲法公布までに二色カラーの新聞を世に送り出していたが、そこで満足せず、究極の目標としてカラー写真を挙げ、加藤は「陛下のお姿を白黒の状態で発行せねばならなかった非礼を忘れるな!」と社員に言いつけていた。
この頃、加藤の病状はさらに悪化し、それまで社員に指示する時などは常に起立した状態で話していたのが、5分以上話す場合は椅子に座った状態でなければまともに指示出しもできないような程になっていた。
加藤は折り畳み式の椅子を持ち歩き、指示を下す時などは一言「失礼」と添えてから座って話しかけるというようなことを行っている。
流石の社員も加藤に療養するよう申し出るが、加藤は「戦災復興の波がそこまできている今において、それを伝えなければならない我々が足など止めていられるか!」と彼らの助言を一切聞かなかった。
一方で水野や川井には「私はもう長くはないかもしれぬ」と弱音を吐くようになった。
試作機は1946年3月に完成し、中部日本新聞の印刷工場に運び込まれる。
この試作機はこれまでと全く印字する際の仕組みが異なるため、問題点の洗い出しを行うことがメインに据えられた試験機であった。
一応フルカラーも可能なように作られてはいたが、試験稼動のため当面は単色で用いることになっていた。
中部日本新聞はここではじめて試作機を利用した「新聞史における、日本至上初のカラー広告」というものを紙面に出すことになる。(単純なポスターなどの広告においてはすでにカラー広告は存在したが、新聞紙面上というのが重要である)
それまでスポンサーとして何度か広告を出していたオペラに虎之助が話をもちかけ、実現したものだった。
それは写真ではなく、特に色気のない女性の絵に口紅が塗られた広告ではしかなかったが、口紅の色はオペラが指定した現物と遜色ない色合いに調整されており、すぐさま広告業界などでは話題となった。
オペラによる広告を見た様々なメーカーは「私達の広告も出してほしい!」と訴えるようになり、この最初の試作機を使った単色カラー広告が1948年より中部日本新聞には多数掲載されるようになり、彩りに富む新聞として話題になる。
この広告は中部日本新聞のカラー印刷化のための研究開発費などで大量に消費した出費を補える存在となり、後の輪転機発注の足がかりとなった。
経営者達はこの成功によってようやく「加藤の考えは間違っていなかった」と確信を持つに至る。
それまで批判的であった者たちも態度が一変し、「我々はカラー化によって常に一歩先をリードせねばならない」と幹部らは積極的にカラー印刷広告などを売り込み、一方でその利益の殆どを加藤らに還元した。
予算が増額された影響もあって、半年後の1948年9月、この最初の試作機で出た問題点やデータなどを参考に新たな試作機を発注した。
新たな試作機は1948年冬に東京機械製作所より完成品が納入される。
この新たな試作機では二色カラーの印刷が可能となっており、翌年3月に女性の二色カラーの写真を利用したオペラの広告が掲載されると、それに追随するようにそれまで単色カラーで掲載されていた広告が二色カラーへと変化していった。
また、平行して新聞記事にも変化が起こる。
加藤らは「現像などの手間を考えると現状の輪転機だとまだ日刊では難しいな」と結論を出していたが、幹部らが「ウィークリー記事をカラーに出来ないか?」と提案し、
日刊の新聞に新たに「週間記事」と称してその週の出来事を写真付きでフルカラーで掲載するようになった。
これが1949年3月のこと。
同時期に加藤は「新聞印刷界に革命近し--モノタイプとライノタイプ電気印刷法も驚異の的 」というそれまでの自身の研究や現段階の基礎技術などをまとめた本を発表している。
すでにこの時、「日刊」としてのカラー新聞は秒読み段階となっていた。
なっていたのだが……
1949年5月のある日。
加藤は大量の喀血により、体調を崩し出社できなくなった。
すでに体は限界にきていたのだった。
1949年7月。
この時点で加藤は妻や同僚の手をかりねば立ち上がれない状況となる。
何度も高熱にうなされ、医者から「余命半年」を宣告されてしまった。
この時中部日本新聞はすでに軌道に乗っており、それまで批判してきた経営幹部らも加藤と同じ考えでもって精力的に活動を行うようになっていた。
「今なら自分が欠けても問題ないな……」とすでに死を悟った加藤は7月に辞職願を出す。
「休職願いにしてほしい」と頼む虎之助に対し、加藤は病名と余命宣告を受けたことを素直に告げた。
虎之助は「あれほど健康には気を使ってくれといったのに」と目頭から零れ落ちる熱いものを拭うことなく加藤の身に起きた悲劇を悲しんだ。
だが加藤は「できるだけのことは全てやりました。もう私が離れてもこの動きは止まらないし減速もしないはずです」と、すでに殆ど出社できずとも周囲の社員が一丸となって「新聞のカラー化」まで突き進む状況であることに胸を張って誇りつつ、中部日本新聞を後にした。
それから2ヵ月後。
中部日本新聞はついに東京機械製作所と共同開発したフルカラー型の高速輪転機「電光竪型高速度輪転機」を発注する。
史上初の国産フルカラー輪転機である。
印刷可能枚数、毎時13万部。
それをフルカラーで発行可能。
先の試作機2機による広告印刷による調整で歩留まりは殆どなかった。
歩留まりが殆ど無い理由は中部日本新聞が開発した独自の位置調整装置にあった。
これは新聞の一部に穴を開け、その部分に合わせて紙の位置を微調整し、必ず特定の場所に印刷することで印刷のズレを抑制させるもの。
そうである。
今日の新聞にも見られる、真上や真下にあるあのよくわからない謎の小さい穴。
アレを用いて印刷のズレを無くす技術を1949年の時点で完成させていたのだった。
これによって完成した輪転機は凸版印刷が基本の当時としては破格の高性能をもち、実は米国製の高速輪転機に先駆けて中部日本新聞が実用段階にまで達成させた存在だった。
加藤が命を燃やして東京機械製作所と生み出したソレは、終戦後4年ですでに世界と戦える印刷機となっていたのだ。
それらの設計図と説明を加藤の家を訪れる社員らから聞いた加藤は大変満足したものの、以降何度も意識不明となり、それから3ヶ月先の12月に息を引き取った。
最終的に加藤登一は日刊でのフルカラー新聞を見ることなくこの世を去ったのだった。
丁度、完成したばかりの最新鋭機器の輪転機が東京において試験稼動を行いはじめた少し後のことであった。
12月13日。
虎之助の提案により、社葬が執り行われた。
そこでは様々な最新鋭の印刷関連のものが加藤の棺の中に入れられた。
そこには、加藤が意識不明の段階で完成した待望の高い速乾性を持つ次世代のインク、そして最新鋭にして世界と戦える輪転機の試験稼動によってその日の早朝に印刷され、加藤のためだけに特別に作った、その日の朝刊新聞のフルカラー版などが添えられた。
中部日本新聞の1949年12月13日の朝刊全体が白黒であるにも関わらず妙な色合いであるのは、実はその裏で中部日本新聞のために命を燃やした男のために本来はフルカラー版という、彼のためだけに用意されたものが別途存在したからである。
幻のフルカラー新聞はたった一人の男の黄泉への旅立ちのために密かに発行されたのだった。
それから半年後。
試験運転を重ねて完成の領域に達したと判断した中部日本新聞は、最新鋭の輪転機がカラー新聞を印刷する様子を報道陣向けへ公開すると宣言する。
場所は東京機械製作所の工場内であり、全国紙を展開する朝日や読売新聞などの本社から近い場所を選定していた。
1950年2月の話であった。
報道を行う会社が報道陣向けへ技術を公開するというのも不思議な感じがするのだが、この話は大日本印刷や凸版印刷など、大手印刷会社の耳にもすぐさま届き、そればかりか通産省、後の経済産業省のお役人までもが「是非見たい!」と中部日本新聞に掛け合い、そうそうたる面子が揃うこととなってしまった。
虎之助はあくあまで「全国紙を展開する者たちに、我が社の技術を見せつけ、真の意味でカラー新聞発行の日としよう」と考えていたのだが、かねてより中部でのみ発行していた日本で唯一無二のカラー新聞の噂や実物はすでに首都である東京にまで出回っており、その完成版となる存在を見たいと思っていたのは新聞社だけではなかったのだった。
それもそのはずである。
何しろ中部日本新聞が東京機械製作所と共同開発したのは高速輪転機であり、ただの印刷機ではない。
後に凸版からオフセット方式になることを除けば、この時完成した機構の殆どは半世紀以上経過した現在でも用いられるぐらいの存在であり、大量フルカラー印刷の先駆けとなるものだったのだ。
新聞にも使える存在というのは、つまりは「新聞以外の広告チラシなど」にもフルカラーで即時大量生産が行える代物であるわけで、その時点で最も高い性能を有した印刷機であったわけだ。
例えば毎時13万部というのは新聞1面全体を現しているわけだが、これは1台の輪転機でおいて生産可能な部数であって、4ページで構成する当時の新聞においては4台以上使って印刷していた。
これを例えば10台使えば、フルカラーにて毎時100万部以上の広告を打ち出せることになる。
そんな高性能なものはこの時点で日本のどこにも存在しない。
だからこそ、大手の印刷会社は「フルカラー4ページによる史上初の朝刊新聞の印刷」という話を聞くやいなやすぐさま中部日本新聞に見学を申し出たのだった。
1950年4月21日。
別名「真の意味で新聞に色が付いた日」
見学者は夕刻を過ぎたあたりで東京機械製作所の工場内に集められた。
そこで虎之助は印刷機と印刷する新聞について一通りの説明を行う。
印刷するのは翌日の朝刊であり、その朝刊新聞のトップ記事には名古屋市内にある「徳川園」の桜の開花を知らせるもの記事を載せる予定であることと、
トップの一面記事には数時間前に撮影されたその桜の写真が添えられているということ、
そしてこの桜は空爆を逃れ、現在でも徳川園にて自生している「しだれ桜」であることを。
虎之助は8分咲きではあったが美しく彩られた桜のカラー写真を大量に現像したものを見学者に配布すると、
それを見事に網目印刷にて印刷したものを一面に、他にも広告やその他様々な部分がフルカラーとなったものを高速輪転機にて刷るのだと表明した。
公開運転の見学に来た者たちは皆一様に「本当にそんなことが可能なのか?」「どこかで紙が破断するのではないか?」などと不安視していたが、いざ輪転機が稼動してみると歩留まりも無く、紙が破断することも無く見事にそれらが印刷され、新聞という状態となって最終ラインまで送り出されていく姿に感激していた。
加藤が夢見た状況が実現した瞬間であった。
現場には水野や川井、そして虎之助など経営者幹部とカラー印刷を実現しようと加藤らと共に歩んだ者達の姿もあったが、水野や川井は溢れ出る涙を抑え切れなかったという。
後年、1950年代になって水野は何冊か印刷関係と写真関係の本を出版しているが、そこでは「この光景を加藤さんに是非見てほしかった」と悔しさを書籍内で滲ませている。
ちなみにこの日の新聞は90万部ほど刷られ、朝刊として中部にきちんと出回っている。
当初呼び出された者達は「試験運転のためだけの稼動」だと思っていたが、実は試験稼動ではなく、虎之助の言葉を借りるならば「本当の意味でカラー新聞発行の日」だったのだ。
見学者達は「これは今から汽車を用いて名古屋まで運び、購読者に配達します」と聞かされると驚きを隠せなかったという。
かくして、カラー新聞時代が幕を開ける。
中部日本新聞はなんとこれらに関する技術の殆どを公開してしまい、さらに東京機械製作所で製造された最新鋭輪転機を他社が購入することを許可した。
その影響で読売、朝日新聞は1950年にこの輪転機を購入し、すぐさまカラー記事を掲載して追随するようになる。
一方、中部日本新聞はこの輪転機を4台購入しており、それらは1950年中に全て印刷工場に納入された。
1台目は東京機械製作所で公開運転を行ったものであり、公開運転後にすぐさま名古屋まで運び込まれ、続いて他の3台も次々と運び込まれていった。
これにより中部は日本に先駆けてフルカラー新聞が読める地域となり、「全ページフルカラーの新聞が見られるのは中部だけ」と宣伝された。
しかしこのフルカラー新聞を求める声が高まったことにより、中部日本新聞は東京などでも支社を作って新聞を発行するようになるのだ。それが1956年からであるが、この時点でもそのような技術を持っていたのは中部日本新聞だけであった。
いかな輪転機があったといえど、新聞においては写真などの現像なども行わねばならないため、ただちにフルカラー新聞にするということは容易ではない。
加藤が残した遺産というのは、写真の現像や印刷も含めた一連のカラー新聞発刊までのプロセスとその機器、体制の構築であり、輪転機はそれを支えるものでしかなかったからこそ、中部日本新聞は技術公開について積極的だったのである。
また、加藤が「中部日本新聞が倒れては困るが、全ての新聞社が事実を事実とし、彩ある新聞を発行してほしい」と願っていたからこその技術公開でもあった。
しかしカラー新聞のために加藤が生み出した一連の技法やプロセスは、広告媒体など様々な印刷物に影響を与え、最終的には漫画や雑誌などにも影響を与えている。
これは新聞が日刊という、最も厳しい環境でありながら最も発行部数が多いという過酷な環境に立たされていたためであり、それを可能とする存在はそれら以外にもコストを引き下げたり労力を下げるなど、大きな恩恵を享受できたからである。
加藤登一によって大量のフルカラー印刷の歴史が切り開かれたことを忘れてはならない。