日本至上初のカラー新聞は1946年11月に交付された日本国憲法の表紙を飾る天皇旗だった――
川井の発案は、後に日本初のカラー印刷可能な輪転機を世に送り出す東京機械製作所に持ち込まれた。
持ち込んだ理由は当然、「カラー印刷可能な国産高速輪転機」を作ってもらうためである。
1946年の春頃のことであった。
川崎にある東京機械製作所では来るべき次世代型の業務用印刷機の開発が行われていたが、中部日本新聞の三銃士のメンバーが持ってきた案と米国製のものを小改造して生み出した試作型輪転機の現物のデータを見て驚きを隠せなかった。
というのも、彼らがもってきたデータは明らかにそういった工業機械を専門とするメーカーと肩を並べるものであったからだ。
東京機械製作所の者たちは「一体開発にどれだけお金をかけたのですか?」と加藤らに尋ねたが、加藤らは「暗闇の中をひた走り、日々努力を費やしここまできたのだが、もはやこれ以上の開発には貴社や貴殿らのような者たちの協力なくして不可能だ」と、答えをはぐらかしつつ協力を求めたという。
実はここで東京機械製作所は思いもよらない存在に遭遇する。
それは川井が東京機械製作所に協力してもらい、新たに開発しようとしていた輪転機が自分達が考えた構造とは全く異なるコンパクトな形状をしていたことだ。
当時、次世代を目指して作られていたカラー対応輪転機には2種類存在した。
1つは川井が独力で到達した、複数の輪転機を連結し、1つの存在とする方法。
これは従来の輪転機の構造において印刷を行う部分を連結すればいいので、コスト的にも連結した分の上乗せで済み、さらには既存の輪転機と共有構造にできるという利点もあった。
だがこの輪転機は印刷時のズレの問題を解消できないという独特の問題があった。
高速で動く輪転機の場合、単純に輪転機を繋ぎ合わせただけの構造では当時の技術だと精度が悪く、紙がの位置が前後に微妙にズレてしまうことなど日常茶飯事で、
よって同じ部位に何度もインクを重ねる当時のカラー印刷の手法では、きちんと印字するのに限界があり、歩留まりが発生してしまうのだ。
加藤らはこれを改善する目的で東京機械製作所を訪れたのだったが、米国や欧州などの技術書類を取り寄せていた中部日本新聞の工務部はもう1つの結論に到達していた。
そのもう1つとは、既存の輪転機の真上に個々の色を印刷する製板などを配置する、つまりは印字を行う機構を作り、真上からまるで滝を下るようにして紙が印刷されるという手法であった。
なぜこのような手法を採用したのかというと、この方法の場合「複数ページをカラー」にできるからだった。
それまでの横繋ぎのものだと、1つのページを印刷するのに4台分の面積を消費してしまう。
これでは将来、フルカラー新聞で全てのページがカラーとなった場合に対応できない。
川井は整備性を犠牲にすることで、全てのページをカラーにする方法をすでに考案済みなのだった。
もう1つの手法の場合、複数の輪転機を繋ぎ合せるというのはそのまま最終的に新聞の状態として完成してラインを流れてくるということになり、後はそれを箱詰めして配送すれば良いのだ。
印字のズレに関しても印刷時の機構を1つの輪転機に仕込むことによりある程度改善可能である。
中部日本新聞のメンバーは後の日本の輪転機のデファクトスタンダードになる存在の基礎部分を1946年の春頃においてすでに考案することに成功していたのだった。
東京機械製作所はカラー印刷三銃士の技術的理解と知識に大いに驚く一方、このもう1つの方式はもはや専門のメーカーでないと実現不可能と結論を出した加藤ら3名に対し、「共に開発しましょう」と協力して活動を行うことに決めた。
後に完成の目処が立ち、試作機を発注するのが1948年のことである。
一方、東京機械製作所と本格的なカラー印刷用の輪転機を開発する傍ら、加藤らは虎之助ら経営者達からある伝令を受けた。
それは、「1946年11月の日本国憲法公布を日本史上初のカラー新聞の日としたい」という経営者らによる命令である。
終戦からわずか1年と3月において、日本はまだ死んでなどいないと表明するため、世界に先駆けてその高い技術力を誇示する場として虎之助らはその日を選んだのだった。
読者の皆様は1度は見たことがあるのではないだろうか。
NHKなどの昭和史で出てくる日本国憲法の公布時の資料に、天皇旗のようなものがカラーで印刷された存在を。
これがまさかの「朝刊新聞」だったなんて全く知られていない。
出てきたとしても「公文書館より」などと、どこが発行したかは大体の状況で伏せられている。
その代物こそ、加藤らによる新聞の「カラー化」の第一歩だったのだ。
技術的には不可能ではなかった。
インクさえ存在すれば現状でも小改造を施した例の川井が作った輪転機によって大量印刷することはできなくはない。
ただしそのインクがこの4月~5月頃の段階ではまだ出来上がっていなかった。
加藤や川井らは悩みに悩みぬく。
既存の方法では解決できない。
何か解決方法はないものかと各国の資料を集め、何度もテストを行っては失敗の繰り返しであった。
丁度この頃である、川井と加藤の体調が悪くなっていったのは。
寝る間も惜しまずに活動したことで、加藤は咳が止まらなくなり、川井は視力が落ちてきた。
そんな夏も過ぎたある日のこと。
ついに川井ら製板部は東京機械製作所の尽力もあり、後に日本の新聞印刷のスタンダードとなる印字方法を発案することに成功した。
それは「目の錯覚」を利用したものだった。
網目印刷である。
これまでの印刷方法は、色に色を重ねるという、インクが乾く前に別のインクを混ぜて印字するという方法であった。
そのため、滲むことなど日常茶飯事で、酷いときには湿った新聞が破断してしまうこともある。
しかし各国の印刷技術の資料を取り寄せた川井や東京機械製作所は、上記手法に到達した。
この網目印刷とは簡単に言うと「拡大すると実は細かい別の色の大量の点々の集合体」という、インク同士を一切混ぜないで用いるものであった。
目を凝らせば「明らかに別々の色」と感じるのだが、全体を見ると1つの色のついた絵や写真として認識できるのである。
この方式ではある手法が使えるようになる。
それは、連結された輪転機の間にインクの高速乾燥機を間に挟むことで次の印刷までの間にインクが乾き、滲まないというものだった。
モザイク画など、絵の技法を参考にして編み出されたソレによって、インクの性能不足を補うことに成功したのだった。
この方法によって印刷されたカラー写真などは以前ほど鮮明ではなく、加藤の満足の行くものではなかったものの、少なくともコレで「まるで魔法のようにすぐ乾く速乾性のインク」が誕生する前の段階の現時点での速乾性の高いインクで十分に「カラー印刷」による「新聞」が可能なことが証明された。
加藤らはすぐさま何度も実験を行った。
だがそこでも失敗の連続であった。
乾燥機を挟めたことにより、シワなどが生じ、紙が破断して輪転機が停止してしまうのだ。
本来は「天皇陛下のお姿をカラーにして納め、中部から日本の復興を全国へ証明する」というのが虎之助らによる会社命令であったが、何度やっても成功しないため、加藤らは「できても最大二色、安定的稼動ならば単色カラーが望ましい」と幹部らに妥協を迫る。
元来、一番妥協をしたくない人物によるその発言は「現状でのカラー新聞は憲法公布までに間に合わない」ことを意味しており、加藤は悔しさを滲ませながら経営者に若干の軌道修正を迫った。
虎之助は「2色までならどうにかできるのか?」と加藤に迫り、加藤はその言葉に頷く。
その様子を見た虎之助は。
「ならばせめて陛下への畏敬の念と平和への祈りを込め、菊花紋章と紅の色を刷れないか?」と加藤に提案した。
中部日本新聞の社長が加藤に命じたのは、日本人ならパスポートなどで見ることができる天皇旗をイメージしたものを、朝刊の1面に使うことである。
加藤は「見事やり遂げてみせます」といい、咳き込みながらフラフラと虎之助らのいる会議室を後にした。
その姿に幹部らは「加藤はカラー新聞を待たずに死ぬ気か?」と不安になった。
彼が何らかの病を患っていることを理解していたのだった。
その不安は後に的中することになる。
実はこの時、加藤はあまりにも続く咳によって何度か吐血し、病院に訪れている。
病名は「結核」であった。
しかし、虎之助らにその病名は伏せていた。
会社から病気療養を命じられた場合、新聞のカラー化が出遅れ、朝日や毎日に追い越され、中部日本新聞が間違いなく負け、淘汰される姿が予想できていたからだった。
そもそもこの当時の「結核」は不治の病とされるもの。(治療は不可能ではなかったが非常に厳しい)
よってすでに加藤は覚悟を決めていた。
これからの日本はより資本主義の色合いが強くなる一方、強者によって淘汰されていくことになる。
その状況に対して理解していた加藤は、「なんとしてでも全国紙によって独占されることを防がねばならない」と己を鼓舞し、体を押して作業場に向かっていくのだった。
この頃になると、中部日本新聞は戦地より復員してきた者たちによって人員増強が図られることになる。
加藤は少しだけ余裕を持つことができるようになっていた。
戦地より戻った中部日本新聞の社員は穴だらけでコゲついた社屋をみて嘆いた。
「これではもう我が社は駄目か」と思い、印刷工場と訪れると目を疑った。
印刷工場はまるで戦地で見た連合国の生産工場のような豪華絢爛、潤沢な設備を有していたからだ。
当時の社員をして「日本一、いや世界でも有数の印刷工場ではないのか……」と驚きを隠せなかった。
現場を見ると、数年前と変わらず、周囲を激励しながら積極的に活動する加藤らの姿があった。
そして周囲からは「名古屋は爆心地となっており、焼け野原であった」と言われ、気にかけていた戦前に調達した輪転機が全て残った状態のまま「ゴゴゴゴゴ」と稼動し、さらに最新鋭の高速輪転機まで増強されて新聞製作が行われている状況を確認する。
印刷工場を出入りする新聞記者の一部は見たことが無いような大きなカメラを持ち歩いており、加藤に「美しい写真が撮れましたよ」などと話していた。
その姿を見て復員した者たちは確信する。
周囲の生産工場は未だに廃墟のような様子である。
彼らもまた「戦って」いたのだと。
実は復員してきた者たちの中には、日本国内に留まった者を恨むまたは恨めしく思う者は少なくなかった。
戦地で食事にも苦慮し、激戦を潜り抜けたような者たちにとっては、日本で悠々自適に暮らしているかもしれないと思うと嫉妬の炎が心に宿るのだ。
しかし周囲が廃墟となった名古屋市内の状況、そしてその中で一部がコゲついているが全て無事な輪転機、「日本が滅ばなかった以上、ここでのうのうとして全国紙に負けるわけにはいかん!」と咳き込みながら鼓舞する加藤。
「非国民」という言葉はたちまちどこかへ吹き飛んでいった。
復員者達はすぐさま中部日本新聞に復帰すると、加藤らのサポートを行うようになる。
その中には負傷し、障害を負った者もいたが、加藤はその姿を見て「よく生きて戻ってくれた!」と目に涙を滲ませながら喜んだという。
コレは余談だが、戦時中、当然にして加藤らは非国民扱いされた。
戦況が悪くなり、空爆が繰り返されるようになると加藤らの活動は市民へは理解されず、石を投げられることなど日常茶飯事である。
新聞の売り込みなど「その紙や紙を印刷するモンを別のことへ使え!この穀潰し共!」などといわれて追い返されるのが当たり前であった。
それでも加藤らはめげずに「我々がいなければ何の情報も無く苦慮することになる!」と傷だらけで戻ってきて項垂れる販売部の営業を奮い立たせようとした。
加藤は妻に対し終戦後「戦地へ向かった者たちは私をどう思うだろうか」と普段殆ど小言を言わない男であるにも関わらず、不安を漏らしたことがある。
だが妻は「工場をみた者ならきっとあなたを理解してくれる」と背中を押したが、実際に戦地に向かった者たちは不満1つ漏らさず中部日本新聞へ復帰したのだ。
もちろんその裏では「職がまともになく再就職は簡単ではない」という実情もあったが、復員した者たちのほうは他の戦後まで日本に残り続けたものと異なり、加藤に対して批判的な意見は述べなかったという。
何らかのシンパシーのようなものを感じ取ったのかもしれない。
かくして1946年11月、日本国憲法公布の日、加藤らは何度も印刷中断に陥るものの、約80万部もの2色カラーの新聞を発行することに成功した。
その新聞の美しさはすぐさま口コミで話題となり、翌日、翌々日にも「この日の朝刊新聞がほしい」と連絡が届き、まさかの前日の朝刊新聞の増刷という前代未聞のことが起こる。
新聞業界ではおそらく、それまで過去に例のない珍事ではないかと思われる。
最終的に印刷された数字は不明だが、90万部近くとされている。
読売新聞や朝日新聞の幹部らは大いに驚き、縁のあった者は虎之助の下へ訪れて様子を伺うものすらでてくる状況であった。
一方加藤は「写真でもなければなんでもない」とその出来に満足しておらず、周囲が褒めてもむしろ怒り散らす様子であったという――