1946年初頭の時点で復活していた国産カラーフィルムと後に世界をリードしうる次世代インクの開発
翌1946年初頭。
中部日本新聞の技術者達は信じられないことに寝る間も惜しんだ努力により、三色カラー可能なリバーサルフィルムの開発に成功していた。
ただし最初に試験的に作られたフィルムは残念ながら加藤の希望に沿うものではなかった。
コダッククロームより取り寄せた資料により完成したそれは、コダッククロームほど品質はよくなかったが、さくら天然色フヰルムに匹敵するレベルであったという。
加藤よりフィルムを渡された新聞記者達は自身が見た光景と現像されたソレが相違ない色合いで表現されていることに息を呑み、加藤の賛同者が増えていくことになった。
虎之助含めた経営者達も「これを新聞の1面にできたならば売り上げ倍増は間違いない」と加藤を否定できないような状態となっていく。
しかし残念ながら、それで撮影した写真は新聞に使えるものではなかった。
加藤に「ちょっと使ってみてくれ」と記者達に渡されたフィルムで撮影したものは現像に2週間以上もかかってしまう。
おまけにこのフィルムは大量生産できず、歩留まりも激しい。
リバーサル式のカラーフィルムの価格が既存の白黒フィルムの10倍以上もする理由を加藤や水野、として川井らカラー印刷三銃士は早々に理解することとなった。
加藤と水野は早々に別の方向性へとシフトする。
それは水野が米国の映画会社から取り寄せた技術書類を用いたものだった。
撮影技術に詳しい水野は、1920年代より米国が実現化させた三色カラーによる撮影と現像方法において他の方法を認知していた。
映画好きで映画監督も目指していた頃もあった水野はカラー映画という存在を認知しており、その技術が単純な1本のフルカラーのリバーサルフィルムによるものではないことを知っていたのだ。
その方法とはネガフィルムを利用したテクニカラー方式である。
1920年代にて米国が考案した方法である。
イギリスが1906年に開発したキネマカラー方式をさらに発展させたものだが、両社は根本的な仕組みが異なっている。
キネマカラーとは、フィルム自体は単色だが黄色と赤などの2色のフィルムを交互に1コマずつ並べたものを1本のフィルムにし、特殊なフィルターを通し撮影したものを流すと目の錯覚でカラー作品のように見えるというもの。
フィルターを通し、さらに黄色と赤の単色フィルムによって感光させると、それぞれの色がフィルムに焼きつき、それを交互に1コマで流すことによってあたかも色がついているように見える。
実に紅茶を頭に満たして作ったような代物である。
正しい意味での英国面らしい発想である。
この手法は後にファミコンやスーパーファミコン、さらには一昔前のパソコンの液晶モニターでも同様の方法が用いられており、色を表現する世界では割と有名なものである。
(液晶モニターの初期の頃のものや安物は32bit表示や64bit表示時に点滅で色を誤魔化しているモノがあった)
人間の目がいかに騙されやすいかを表しているが、スーパーファミコンでは点滅を繰り返す点滅のタイミングをズラすことで、本来は表示できない色を表現させることに成功した。
これによって本来のスペックでは表示できない色を表現できており、後年のスーパーファミコンのゲームのグラフィックの美しさの要因ともなっている。
では米国ではこのキネマカラーを参考にどういう風に作ったか。
それはなんとモノクロネガフィルムを用いているのである。
単色といえどカラーフィルムになると現像などに非常に時間がかかる。
よって米国では光の三原色に対応したフィルムをフィルターを用いて単色のネガフィルムに焼き付ける。
そうすると、それぞれの光に対応した暗と明、2色の色がモノクロフィルムに焼きつく。
ここからさらに特殊なポジフィルムに現像し、その際に各色に対応した色のフィルターをかける。
そうするとそれらの光に対応した色に現像される。
これを特殊なプリズムを用いてさらに別のフィルムに転写すると、フルカラーになるという代物である。
コダッククロームなどが存在する以前、米国のカラー映画は全てこの手法によって生み出されており、水野はその手法を認知していた。
「これならばコストも減らせますし現像時間も大幅に短縮できますよ」
手間はかかるが確立された手法であるため、水野はこの手法を加藤に進言した。
現像自体が今までと同じ時間であれば、後は人海戦術の問題である。
そのことを直接言わずとも加藤なら理解できているだろうということで水野はその部分の説明はしなかったが、加藤はすぐさま人員を整理して調整し、テクニカラー方式に対応できるようにした。
しかしながら実はテクニカラー方式のためには文字通り3つのフィルムが必要となるため、特殊なカメラが必要になるのだが、そのカメラも既存のカメラを改造して写真部の技術者は作ってしまった。
ここで1つ疑問が生まれる。
皆さんもそう思ってるかもしれない。
「なぜ中部日本新聞はここまで技術力があったのか?」ということである。
その疑問の答え、実は別の疑問の回答でもある。
それは――
「戦時中、大手はまだしも各地の地方新聞社はどうやって新聞記事のためのフィルムなどを調達していたのだろう?」
「材料すら配給制の時代にフィルムなんて……」
というのをどうにかしなければならない戦時中、ある一定期間を除いて戦後まで輪転機を回し続けたそこそこの規模の地方新聞ならば、フィルムがなかったら材料から作るしかないことなど理解していて、中部地方を駆け回って戦地に向かわなかった技術者を集めて新聞を作るなんてことをやっており、
その結果代替材料なども検討したりなど、日々努力したことでフルカラーリバーサルフィルムを作ってみたり、当時日本映画にも導入されていなかったテクニカラー方式を実現してみたりなどは十分可能だったのだ。
彼らは様々な理由により赤紙が来なかった者達ではあるが、大地主の長男など最後の最後まで強制招集がかからなかった者や、当初より技術者で日本政府が手放したくなかった者たちを中心としている。
特にその中でも理系な技術者達は国内の工場にも合わせて勤務をしており、戦闘機などの製造に関わっている。
中部日本新聞の工務の者達は戦時中、昼間や召集がかかった際には名古屋市内の別の工場で勤務し、それ以外では印刷工場にて写真関係の処理を行うというような作業を行っていた。
特に写真部の中でも優秀な物たちは零戦のガンカメラなどの製造を行っており、既製品を改造するなどお手の物だったのだ。
ようはこの場合、写真部の技術者達の技術力もさることながらその技術力を生かしきった加藤や水野らの上に立つ者としての能力が極めて優れていると評価すべきである。
このカラー写真技術が早々に確立したことによって、後は印刷をどうするかということだけになった。
テクニカラー方式のカメラは3本のフィルムに同時に感光させる関係上、極めて重く新聞記者達は「最初に作ったリバーサルフィルムに戻してくれないか」と加藤に頼んだが、「それでは明日の朝刊に出すことができない」と加藤は申し訳なさそうに彼らを嗜めた。
余談だが、筆者から言わせると技術的にはリバーサルフィルムを作ったというほうがよっぽど恐ろしいことをやっている。
コニカに5年出遅れたとはいえ、コニカはコダッククロームに6年出遅れて研究開発の末に生み出したものであるのだから、たった数ヶ月でそこに追いついたというのは驚愕に値する。
だが彼らは「コスト」「時間」の2つを理由に早々に排除したというのは産業とはそういうものなのだというのを如実に表していて面白い。
実際に、この後発売され世のスタンダードになっていくカラーフィルムは基本的にネガフィルムとなっていることを考えると、早々にリバースフィルムを排除した加藤には先見の明があったといえる。
リバースフィルム自体は廃れたわけではないのだが、使い捨てカメラなど、一般人が何気なく用いてきたモノというのは基本的にネガフィルムである。
カラー写真が完成したことにより、加藤は次にどうやってそれを印刷するか検討した。
川井は「テクニカラー方式ならば、わざわざ1枚のフィルムにせずとも3枚のフィルムを別々のまま色を抽出し、それを印刷すればよいのでは?」と進言する。
技術的に疎いわけではなかったものの、川井が何を言いたかったのかわからないのでとりあえず何でもいいので1つこさえてくれと頼むと、加藤は既存の輪転機に小改造を施し、非常に速度を落とした状態で印刷させて試作品を1つもってきた。
川井が行った手法は、テクニカラー方式の考え方を印刷機にも導入すると言う方法である。
4つの輪転機を繋ぎ合わせ、三原色に対応した色をそれぞれ単色で印刷していく。
1枚目は青、2枚目は赤、3枚目は緑といった具合だ。
そして重要なのが、最後に黒の印字も可能としている点にある。
ここで記事と同時に上記3色では足りない黒を印字することでより自然な色合いの写真を紙に印刷することができるというわけだ。
黒を3色とは別に別途印字するその手法は完全に現代のオフセット印刷などの仕組みそのものであるのだが、この時代、そのような印刷機は国内に存在しない。
逆なのだ。
中部日本新聞がこの後開発する業務用カラー印刷機が多大なる影響を与えたのだ。
何しろ彼らはその技術を惜しみなく公開し、それどころか大半の部分で特許すら取得しなかったのだ。
川井が小改造で生み出した試作品こそ、今日の日本のオフセット印刷機などのご先祖様なのである。
川井は加藤と水野がカラー写真で四苦八苦する傍らで、空いた時間や休日などに雑誌関係の業者などに出向いてどうやって印刷しているのか見ていた。
するとそれらの現場では江戸時代に生み出されたような手法を使っていたことに気づく。
当時のカラー印刷の基本は、同じ印刷機を用いて製板を変更し、違う色を用いてインクが乾く前に何度も印刷するというものだった。
それは完全に浮世絵などの版画的手法を凸版や凹版などに適用したものであり、インクを変更し、同じ紙を何度も何度も印刷機に入れて初めてカラー画としていたのだった。
これでは大量に高速で印刷できない。
輪転機でそれを達成しなければならない。
どうやって印刷したものかと悩んでいる最中、加藤と水野はテクニカラー方式の結論に達する。
加藤などと協議する傍ら、水野の話を聞いていた川井はひらめいてしまったのだ。
「そうか、1台で印刷しようとするから駄目なんだ。テクニカラーの撮影手法のごとく、印刷時にも色ごとに印刷機を4つ使ってしまえばいいんだ」と。
しかもその場合は「いちいちフィルムを1つに統合せずとも出来上がった3色のフィルムをそれぞれの色に対応した印刷機で印刷する」ことが可能なので、現像時間がより短縮できる。
1本のフルカラーになったフィルムではなく、最初に現像した3本のフィルムの方を求めた川井に対して、加藤はいったいどうするのかと思っていたが、完成したソレは加藤をして「お見事」と言ったものだった。
虎之助含めた幹部達は、着々と加藤達が実現に向けて歩んでいることを感じ取りつつあった。
だが川井はそれに満足しなかった。
原因は
・印字がまだ未熟で超低速でなければ既存の輪転機では印字できない。つまり大量生産できない。
・現状だとインクが乾かないため、インクが半乾き状態になるまで待たないとインクが染みて大変なことになる。それには最低1色につき半日ほど必要のため、全工程の終了には約3日ほどかかる。
通常稼動で輪転機を稼動させた場合、性能が低く、印刷のズレによって写真がまともに転写されないことなど当たり前であった。
また、乾かないインクをそのまま無理して乾かない状態で輪転機を回すと、様々な部品にインクがついてき、たちまち新聞が真っ黒に染まってしまう。
川井は「月刊誌や週刊誌ならこれでもいいんでしょうけどね。我々は日刊ですから……」と悔しさを滲ませる。
解決方法を模索するうち、加藤らカラー印刷三銃士はある結論に到達する。
「印刷してわずか数分、いや数十秒で乾く速乾性のあるインク」
「上記の4つの色をそれぞれ印刷する、国産高速輪転機」
これらを我々で作ってしまおう!と。