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カラー印刷三銃士の誕生と新聞記事のためのカラー写真。

カラー新聞において重要なものが3つある。

1つはカラー印刷もできる輪転機。

1つは印刷する媒体そのものであるカラー写真など。

最後の1つが新聞にカラー印刷を成し遂げるためのインクだ。


加藤はそれらを完璧に理解した上で次なる行動を起こしていた。


高速輪転機が動めく印刷工場の様子を見ていた加藤は、導入したばかりの高速輪転機が思った以上の性能であることに感嘆としつつも、とある人物にコッソリと己の計画を打ち明ける。


実は未だに社長である虎之助にも己の野望をきちんと話していなかったのだが、その前段階の準備をはじめたかったのだ。


加藤が最初に相談を持ちかけたのは写真部の部長水野みずの 主税ちからだった。

水野は戦時中より加藤と共にカメラを持ち出しては新聞記事のために様々な写真を撮影してきた男であり、加藤が信頼を寄せる人物の一人である。


1945年5月の空爆の際、名古屋周辺が火の海となった状況でそれを炎渦巻く街中で危険を顧みず撮影するような猛者であり、その上で写真と現像技術に関しては極めて聡明で柔軟な思想をもった男であった。


加藤は水野を呼び出すと、高速輪転機はカラー印刷のための布石の1つに過ぎないことを説明し、その上で「カラー印刷に必要なカラー写真を我々でこさえないか?」と水野を誘った。


突然話を切り出されたことでさすがの水野も驚きを隠せなかった。

なぜなら、加藤が切り出した話はただのカラー写真ではなかったからだ。


カラー写真とカラー映像。

実は1940年代当時の日本において、これらの基本は白黒映像に着色しただけの存在ばかりだった


カラーフィルム自体は存在したが、それは1935年に世界で始めて販売された存在で、米国のコダック社が販売したコダッククロームと、翌年にドイツで実用化されたものだけであり、終戦直後において日本国で民間企業が簡単に手に入るような代物ではなかった。


一応日本国にはさくら天然色フヰルムというものが存在し、開戦前の1941年から密かに後のコニカミノルタになる会社より販売されてはいたのだが、


その価格は白黒フィルムの10倍以上、そして基本的に日本軍とその広報のために限定的に販売されたものであり、加藤達はその存在こそ噂程度に知っていたが、この「さくら天然色フヰルム」は戦時中、早々に製造工場が被災しており、1941年から終戦まで殆ど世に出回ることがなく、再び販売されるのは現在より3年後のこと。


ドイツの方は筆者が「日本人らしさでもって戦後の統治政策を変えた者達」の「第七部」にて説明したとおり、「モーゲンソー・プラン」によって戦時中被災していたにも関わらず、さらに熟練工などが国外退去、その上製造用の工業機械はすべて没収され製造不能となりそのまま廃業となり、別の会社にて再び生産されるがそれも4年後のこと。


よって選択肢としては信じられないことにたった3ヶ月前まで敵であり、自身のトラウマにもなっている名古屋城を焼いた米国の民間企業が生産する「コダッククローム」しかなかった。


だがこのコダッククロームでさえ簡単に入手できるものではなかった。


GHQは未だに帝国主義が蔓延る日本において報道規制のようなものを強いていたが、報道関係の機材を米国から購入する際には極めて厳しい審査を行っており、調達に時間がかかるだけではなくコダッククローム自体を殆ど流通させなかったのだった。

(特に警戒していたのは広島、長崎のカラー写真を撮影されること。)


1945年12月時点では基本的に、戦時中のさくら天然色フヰルムと同様、ごく一部の報道陣がGHQの広報のためにその使用を許されていたに過ぎない。


これは余談だがコダックはそのコダッククロームなどで撮影したカラーフィルムのための輪転機も開発していた。


これらは映画ポスターやチラシなどに活用されてはいたりする。

米国ではこの時点ですでにカラー印刷された新聞というものは存在したのだった。


水野はコダッククローム自体の情報はGHQ広報を勤めた仲間内からの伝聞により認知していたが、加藤にその入手はほぼ不可能に近いことを説明する。

すると加藤は。


「いやいや水野君。誰が米国から調達しようといったのかね。違うのだよ。私は、我々でカラー写真を1から作れないかと相談しているのだ」と水野に言葉を投げかけた。


その上で加藤は水野にあるものを見せる。

それはコダックが日本国にて出願し、登録されているコダッククロームの特許明細書であった。

それだけではない。


なんと信じられないことに、加藤は米国のコダック本社と密かに連絡をとっており、事情を話した上で特許には記載されていないカラーフィルムのための基礎技術の部分となる技術書類を取り寄せていたのだった。


「これを基に、我々で我々の新聞記事の一面を飾るためのカラー写真を作れないか?」


水野は武者震いした。

まず、昨日まで敵だったはずの国の民間企業がこうもアッサリと、現段階では世界最高の技術のもので市場独占状態の虎の子のカラーフィルムの基礎技術を加藤に渡したこと。


どうしてそんなものを渡してくれたのかと尋ねると加藤はコダックとの手紙のやりとりを水野に見せたが、そこには加藤の情熱と技術的理解度の高さと、コダックの技術的なジレンマが綴られていた。


加藤はコダックに対し、カラー新聞を作りたいこと、日本には「さくら天然色フヰルム」が存在するがこの製造工場が被災してしまい入手できず、「コダッククローム」を入手したいが「コダッククローム」は果たして日刊にて朝刊と夕刊、2つ発刊される新聞記事に用いれる存在なのかどうか伺っていたが、コダックは加藤の報道姿勢と報道にかける情熱を理解した上で下記のように指南していた。


(加藤は手紙の中でカラーフィルムに関する己の知識を記述していたが、この時点ですでにコダッククロームの新聞記事に使用する上での弱点をなんとなく理解できていたのだった)


1、コダッククロームの現像には現状だと専用の施設が必要であり、しかも現像には1週間以上と非常に時間がかかる。現像のための施設は日本国には存在せず、GHQ広報用の写真は一旦本国に送られ、そこで現像して本国にしかない印刷機によって印刷、再びにGHQに向けて発送される。これだけでは約3週間ほどのタイムラグが生じてしまい速報性に欠けることになる。


2、よって加藤殿が仮にコダッククロームを何とかして入手したとしても、撮影したとしてその日の新聞記事に使うことはできないでしょう。一応、我々から貴方に向けてコダッククロームを販売することは事実上不可能ではないけれども、しかしながらそうなりますと一旦我々にフィルムを送付しなければなりません。GHQは間違いなく写真検閲をしますので現状のGHQ広報向け写真よりも非常に時間がかかります。まだ終戦から数ヶ月のため2ヶ月以上の期間は要するものと思われ、現実的ではない。


3、印刷機は現状の日本国の雑誌記事などに使われるものであれば問題ないかと思われるが、新聞記事のための高速輪転機では我々もまだ実用というほどの段階には至っておりません。


4、以上の点より、我々の技術的限界により、貴方の希望を叶えることができず心苦しい。

  貴方のようなジャーナリストに向けて我々ができることは、つい先日まで枢軸国に対しては最重要機密にされたカラーフィルムの基礎となる技術を送付することぐらいです。誠意開発中の輪転機については我々にとっても重要な企業秘密のためお教えできません。GHQがこの手紙を見ても特段問題ないと判断し、貴方の下へこの書類が届くことを祈ります。


そんなことが綴られた手紙と共に、その書類はGHQが認可し、全ての存在が加藤に向けて届いていたのであった。


かくして加藤は1945年12月の段階において日本で唯一「コダッククローム」に関する基礎的部分の技術書類を手に入れていたのだ。


技術書は断片的なものばかりで本当に基礎の部分でしかなかったが、それでも世界最高の技術の一部であることに変わりはなかった。


これは数年後に彼が自著にまとめて発表したが、コニカや富士フィルムがその話を聞いたら即座に彼のいる中部日本新聞まで出向いたのは間違いない。

それほどのものを終戦後わずか3ヶ月にして入手しうるだけの能力が加藤にはあった。


水野は、現段階ではカラーフィルムが入手不可能であることを知った上で、終戦後たった3ヶ月で写真業界などでは世界で覇権を握るとされる存在のカラーフィルムをこんなそこらの中小企業程度の能力しかない新聞社にて開発しようなどと考えていることに心底身震いしたが、


一方加藤はそんなことお構いなしに「私は三色刷りの新聞記事を早急に実現したい」と、実現可能かどうかを迫ったのだった。


水野は「やってみなければわかりません。是非やりましょう!」と差し出された加藤の手を握り、カラー印刷を実現する上で重要となる1人目の仲間を得る。


次に加藤が説得しにいったのは製板部長の川井克己かわい かつみであった。

前述した資料を見せ、水野と共に出向いた加藤はカラー印刷のための写真をこれから作るので川井にそれを印刷するための製板やインク関係などの開発を手伝ってくれないかと申し出たのだ。


現実主義者で夢には溺れないと言われた川井であったが、加藤と水野の話、そしてコダックよりもたらされた資料により実現可能性を見出すと、「ではやってみましょうかね」と加藤の考えに賛同する。


かくしてカラー印刷三銃士とも言うべき存在が出揃い、加藤の野望は達成に向けて1歩前進したのだった。


加藤はすぐさま印刷工場の技術員を集めると、新聞の発刊に合わせてカラー印刷関係の開発を総動員して行うようになる。


代表取締役の虎之助は「新聞の発行に遅れが出ない限り許可する」と加藤の背中を押したのだったっが――

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