終戦後にすぐさま中部日本新聞の主導権を握って己の野望のために突き進んだ男
1945年8月。
終戦直後のある日、加藤はとある写真をみて衝撃を受けた。
それは広島の原爆投下と投下後の写真であった。
わずか3ヶ月前に起こった空爆時の悲劇により、自分の目じりに焼き付いて離れない名古屋城の炎上が吹き飛ぶかと思うほどの写真であった。
それは白黒であったが、十分に雲であることを認知できる解像度のものであった。
爆発後に湧き上がる爆炎とキノコ雲を民家より見上げる状況から、そのキノコ雲の大きさがそこいらの爆弾による爆風の規模とは比較にならないほど大きなものであることをすぐさま認知できるような構図となっていたが、
その後に周囲が完全に焦土になった写真を見た加藤は、「きっといつかこういった悲劇が戦争以外でも起こったりするのではないだろうか」「例えば台風などは何度も多大な被害を出してきたが、これらと匹敵するような災害などもあるのではないだろうか」
「そういった時に、より正確に状況を伝えるのはカラー印刷以外に他はない」と改めて認識する。
加藤は終戦直後からただでさえ熱心であったにも関わらず、さらに熱心に仕事に励むようになり、周囲からは「何かに取り憑かれたのではないか」と思わせるほどに業務をこなした。
1945年8月末。彼はその功績から取締役に昇進。
事実上「中部日本新聞を先導する」立場となる。
彼の上には代表取締役社長しかおらず、それ以外には同じ立場である幹部の経営者達しかいなかった。しかも彼らはあくまで人事や経理といった部分ででしか業務として関わっていないため、工務、編集部、販売事業部を未だに兼任しつつ取締役の立場を得た加藤はこの時点で、中部日本新聞の方向性を「新聞記事」「販売戦略」「印刷」の3つから主導権を握った上で操れる状態となっており、一部の社員は「肩書きが社長でないだけで社長より偉い男」と言うほどであった。
そんな加藤がまず中部日本新聞で行ったのは、何とか戦時中から戦後まで保たせた輪転機のさなる追加計画である。
予算分配関係においても主導権を握っていた加藤は、湯水のように大量に予算を使い、施設の拡充をすると共に当時としては最新鋭の輪転機でる高速輪転機を導入しようと目論む。
当初こそ、その活動を見守っていた経営者達であったが、さすがに米国製高速輪転機の購入にはストップをかけたのだった。
理由は単純である。
米国製高速輪転機の価格である。
高速輪転機は、当時の中部日本新聞の本社社屋2つ分の価格であった。
そんなものをおいそれと「導入します」といって導入できるわけがない。
流石の代表取締役社長の杉山虎之助も「それは無理だ」と加藤を説得するものの、加藤は「ならば本日付で会社は辞めさせていただき、別の新聞社にて同様の計画を遂行致します」と辞表を手に虎之助を逆に揺さぶるのだった。
その時点で加藤ありきで動いていた中部日本新聞にとって加藤がいなくなるというのは事実上「社が傾きかねないほどの損失」であり、虎之助が最も恐れた行為だった。
とはいえ、さすがに高額すぎる輪転機については諦めてもらうよう加藤を誘導しようとした。
しかし加藤はそんなことは百も承知であり、そればかりかここでそれまで営業職であった能力を発揮し、「販売事業部」にて得た情報をも利用して逆に当時の中部日本新聞の社長である虎之助を説得してしまう。
1.現在、日本国は凄まじいインフレーションを起こしており、固定金利にて購入すればこのスーパーインフレによって高速輪転機の返済は容易である。
これは簡単に言えば、100万で高速輪転機を購入しても、5年後には当時の貨幣価値にて100万が1000万になっているならば支払う金額は10分の1に限りなく近いという考えである。
実際には金利手数料などがあるために本当に10分の1ということはないが、少なくともインフレーションが続く限り購入した物品の借金は軽くなっていくということだ。
後に加藤と当時の代表取締役はこれによって「我が社が破綻しても大手新聞社などに数年後に売れば不良債権にならない」と銀行を説得して見事資金調達と導入に成功するわけだが、今日の日本政府がやたらインフレーションに拘る背景にはこういう部分も少なからず影響している。
2.毎日と朝日新聞が来年度より順次名古屋にて新聞を発行する予定であるが、購読者の増加に現在の体制では対応しきれておらず、このまま行くと彼らにみすみす顧客を奪われ、機会的損失となる。
販売事業部でも陣頭指揮をとる加藤は、少しずつ復興する名古屋において新聞と言う存在が求められ、購読者の増加ならびに復活の状況を正確に理解していた。
現在の体制においては間違いなく供給不足に陥るのは目に見えており、その時点で出遅れた場合の損失は高速輪転機導入よりも会社が傾きかねない状況となると主張した。
実際にこれは事実であり、すでに入り込んで活動を始めている毎日や朝日、そして読売といった新聞社の者達に負けてはならないと必死で特ダネなどを探しては新聞記事にしようと中部日本新聞の新聞記者達は躍起になっており、
その姿を編集部で間近にみていた加藤は「彼らの活動を無駄にしないためにも少しでも高性能な輪転機を購入して編集作業などが楽になるようにせねば」と考えていたのだった。
編集部、販売事業部、そして工務の3つの役職を兼任した加藤の持論の説得力を前にして虎之助は異議を唱えることすら適わず、逆に「こうなったからには中部日本新聞を全国紙にする勢いでやるぞ!」と他の幹部達に向かって鼓舞した。
その姿にミイラ取りがミイラになったと幹部達は頭を抱えたが、一応、高速輪転機についての社員たちの見解は悪いものではなかったため、「銀行が説得できたならば」という条件付で幹部達は導入を認めたのだった。
それは加藤が虎之助を説得してから3ヵ月後のことであったが、
既にこの時点で加藤と虎之助は銀行を説得し終わっていたことに気づいたのは、満場一致で購入を決定した翌週に高速輪転機が印刷工場に運び込まれた時であり、「あの髭男にしてやられた!」と叫んだ者もいたという。
(実は承認が得られなければ幹部たちの首を全員飛ばすことも考えており、あくまで購入決定のための確認事項でしかなかった)
ともかく高速輪転機の導入に成功した加藤は、すぐさまカラー印刷技術の開発に取りかかるのであった。
1945年12月のことである。
これは余談だが、実はこの時、GHQは中部日本新聞の調達行為について大変興味をもっていた。
終戦後わずか4ヶ月。
そんな状態において新聞の発行を増強しようとする行為に「民主主義が芽吹くのを感じた」と当時輪転機購入を許可したGHQの職員がメモのようなものを残しているが、この時点で工業機械の購入はGHQの許可が必要であるため、高速輪転機の購入についても審査が入ったのであった。
GHQは軍需産業に発展しうる関係についての調達では特に慎重に審査を行い、さらに基本的に新聞社においては「帝国主義など誤った思想などを広める可能性がある。」と、こういった機材の導入に対しても厳しい審査の目を向けたのだが、戦前から戦後まで「ありのままに起こった事実をそのままに伝える」中部日本新聞は特段問題無しということで、即座に導入が承認されたのである。
GHQからすると「こんな高価なモン、銀行がよくもまぁ金を貸し付けたものだ」と関心している部分もあった。
1945年12月時点の名古屋一帯は東京となんら変わりはなく、まだ復興も始まりかけたばかりという状態である。
事実、中部日本新聞は空襲により被災した本社社屋が手付かずの状態となっていたが、加藤は「記事なんざどこだって書けるわい!」とそっちについては後回しにさせようとした。
一方で新聞記事において重要な写真関係の暗室や印刷工場の機材などについては潤沢に予算を回した。
このため、新聞記者達の中には不満を持つ者も少なくなく、特徴的な髭をたくわえた容姿から「あのクソ髭め、また浪費して印刷工場の拡張か!」などと影で罵倒されることなど日常茶飯事であったという。
だが当人のメンタル面は1945年5月の時点で鋼のように鍛え上げられており、これらの陰口などものともしなかった。
加藤は己の目標を達成するため、次になる行動へ移るのであった――