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焼夷弾に体当たりしてまで守りたかったモノと、男の魂に火をつけた1945年5月14日の空爆

中部日本新聞という新聞社がある。

後の中日新聞であり、関東圏では「東京新聞」と呼ばれているものを発行している所だ。

正直言って、この新聞社に対する現在の評価はよろしくない。


だからこそ私は、真のジャーナリズムとは「市民に正確な情報を伝え続ける存在であること」を掲げ、漫然と大敵に「カラー化」で戦いを挑んでいった中部日本新聞に忠を尽くした男を取り上げようと思った。


加藤登一かとう とういち

1949年に「新聞印刷界に革命近し」と終戦後わずか4年にしてフルカラー新聞の可能性を見出した男。


後にその技術が認められ、天皇陛下すら印刷工場を拝見する程の評価を得ることなった中部日本新聞を技術面でリードし続けた男である。


時は1945年。

名古屋にて必死で活動する者たちがいた。

中部日本新聞の記者と、印刷技術者である。


当時の中部日本新聞は開戦前に在職した職員の3分の1が戦地へ赴くこととなり、それ以外の者も疎開などで離れ、残りの3分の1より少し多い程度の人員で何とか活動していたのだった。


名古屋においては知らぬ者はいない地方新聞としては磐石な地位を築いた新聞社ではあったが、1943年以降、より激しくなる無差別爆撃に対して常に苦慮していた。


その原因は、「日本の主要航空機の殆どは愛知県にて製造されている」という日本の航空戦力を生み出す一大拠点が名古屋に集中していたためであり、米軍は「町工場のようなものでも部品を開発している」と考え、容赦のない空爆を繰り返したのであった。


中部日本新聞の印刷工場もまた名古屋市内に存在したわけだが、当然にして標的にされており、何度も爆撃されてはそれに対処する状況にあった。


それでも尚、彼らは死力を尽くして新聞の印刷に必要となる輪転機を守りぬいたのだ。


当時の記録では「輪転機を守るために爆発寸前の焼夷弾に体当たりした者すらいた」という記録が残っているが、検閲などが存在する中でも市民へ情報を伝えようと躍起になる新聞記者や印刷工場の技術者達は、焼夷弾の爆発すらものともせず、輪転機を守るために戦っていたのだ。


新聞社にとって輪転機は命である。

これを失うと印刷ができなくなり、新聞の発行は出来ない。

印刷工場の施設が炎上すればすぐさま消火活動を行い、爆撃があれば焼夷弾に体当たりしてまで守ろうとするのは、新聞会社としてのアイデンティティそのものであったからである。


その中で率先して活動していた者こそ、当時、工務局機械部長でもあった加藤登一である。


加藤登一のそれまでの経歴について簡単に説明したい。

実は彼は、根っからの技術者ではない。

ゼネラリストという言葉がこれほど似合う男もいないだろう。


元々は営業職で育った男であるが、その高い能力が買われて中部日本新聞に入社してきたのだった。

彼は編集部と販売事業部、そして工務の3つの役職を兼任しており、つまりは「中部日本新聞の舵取り」を行っていた男である。


それが十分に可能な実力を持っていたために、かなりの面で独断専行を許されていたが、その姿は部署によっては非常に横暴な態度に見え、社内では賛否両論の男であった。


実はメインは編集部と販売事業部であり、工務は戦時中の人手不足によって与えられた役職であった。

当時においても印刷技術は特殊技術。


工務局機械部長となった加藤に対し、周囲の者は「確かに優秀ではあるのだが、アイツに任せてよいものか」と不安視されたという。


一方加藤は当時の昭和男児とも言うべきであろうか、掲げた目標と野望に猪突猛進ではあるが、ある種したたかな性格をしており、一切関係の無い者から疎まれる一方で、関係者からは多大なる信頼を寄せられていた。


その姿は現代から見ても「男」そのものであり、ただひたすらに「目標に貪欲な野心家」であったのだ。


経営者には多大な予算を求め、その一方で新聞の品質をとにかく上げようとした。

そのためにはありとあらゆる手を尽くし、印刷工場の清掃活動から始まり、塗料関係の業者と協力してのインクの開発、上質な紙の調達、一面記事のための撮影機材の確保、販売事業部と編集部を兼任する加藤はその立場と人脈を利用してありとあらゆる方向から中部地方でNo1の新聞を目指したのだった。


実際に当時の愛読者の記録などでは「最も美しい新聞である」と記述があるが、当時の他の新聞社と比較しても明らかに中部日本新聞の新聞は読みやすい。


マイクロフィルムなどに記録されたモノを見ても「まともに字が読める」新聞を戦時中においても発刊していたというのはまさに加藤の存在あってこそであり、その実力の片鱗を発行された新聞自体より垣間見ることができる。


加藤はその新聞を終戦まで一日も休むことなく日本一美しいとされた新聞を発刊し続けようとしたものの、残念ながら輪転機は名古屋城が炎上した1945年の大空襲の際、輪転機を動かすための送電線が切断されたため、他社に印刷を代行してもらうこととなり、発刊自体は戦後まで1日も休まずに続けた一方で、


日本一美しいとされた新聞は1週間ほど途切れることとなってしまった。


加藤が後に絶対に忘れられない日と何度も懐柔する、輪転機が停止してしまった日付は1945年5月14日のことであった。


炎上する名古屋城を撮影しつつ、翌日の新聞記事にしようとした加藤は、暗室にて出来上がった写真を見て涙したという。

自宅が炎上しても、妻が空襲で負傷しても顔色1つ変えず周囲を鼓舞し、誰よりも前に出て走り続けた男は、幼い頃よりランドマークであった名古屋城が炎上する姿に耐えることができなかった。


加藤はこの時「この思いをそのまま伝えられたら、この写真に色がついたら……」と密かに新聞社の暗室にて止まることの無い熱いモノが頬を伝わる感覚を噛み締めつつ、次なる目標を定めるのであった。

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