その18 水の都が大ピンチ
獣の咆哮。
それを何百倍にも膨らませたようなしろものが、町全体を震わせた。
尋常じゃない。
破滅的な事態が、いま間違いなく起こってる。
私の鈍りきった本能が、危険を訴えるほどのなにかだ。
「――アルミラ、出よう!」
「はいですわ!」
急いで外に飛び出す。
恐ろしい気配。方角からして王宮や神殿からだけど、通りからは見えない。
「アルミラ、跳ぶよ!」
返事を聞かず、少女の腰を抱いてジャンプ。
宿屋の屋根に飛び乗って……目の前に広がった光景に、絶句した。
「お城が、崩れてる?」
城壁の奥に見える巨大な城。
それが、ゆっくりと崩れていく。
いったいどれほどの力が加わったら、そんな現象が起こるのか……想像もつかない。
「これは……」
「――神竜様の怒りさね」
どこからか声が聞こえた。
聞き覚えのある、幼い少女の声だ。
魔女オールオール。彼女が、声を風に乗せて寄越したのだ。
と、声に続いて、一陣の風が吹く。
風が収まると、隣に銀髪幼女の姿があった。
おお、テレポート!?
……と、感動してる場合じゃない。
「オールオールさん、神竜の怒りって、どういうこと?」
「さあね。あたしにも事情はわからないが……おおかた王室の馬鹿どもが、神竜様に無礼でも働いたんじゃないのかい? さっきの咆哮は、恐ろしいほどの怒りが込められていたよ」
ず、ず、と重い音を立てて、今度は神殿が崩れていく。
その奥に、一瞬、巨大なシルエットが見えた。
「あれが……神竜?」
荘厳にして破滅的なその光景に、思わず息をのむ。
ぴりぴりと、本能が危険を訴えている。
「――なんだなんだ?」
「恐ろしい! 神竜様のお怒りじゃ!」
「やっぱり巫女様が卑しい身分じゃだめだったのよ!」
地上は、悲鳴と怒号で満ちている。
逃げる者、その場でへたり込む者、表の騒ぎに建物から出て来た人間も、いずれかに倣う。
「あんたたち、逃げるよ。水の都は今日でおしまいさね」
「……なんとかお鎮め出来ないでしょうか?」
アルミラがオールオールに尋ねるが、幼女はふるふる、と首を横に振る。
「元巫女のあんたなら、わかるはずだよ? 神竜様の怒りのほどが。ああなったらもう止まらないさ」
「でも……」
「でもも何もない。ぐずぐずしてるとあたしまで巻き込まれちまう。早く行くよ!」
魔女さんが急かすけど、アルミラは城の方を気にしてる。
……というか元巫女とか、衝撃的なワードが出てきた気がする。
いや、そういう可能性もあるかなー、とは思ってたけど。
うそです。どやぁ、できるほどちゃんとは考えてなかったです。
とはいえ……ふむ。
これってひょっとして……
「……ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「野良神様、いま取り込み中だよ!」
幼女は迷惑そうだったけど、構わず尋ねる。
「あの竜は、都を滅ぼそうとしてるんだよね? このままじゃ都は滅びちゃうんだよね?」
城の方向に目をやり、その後、ふたりに視線を向ける。
「――だったらあれ、食べちゃってもいい?」
二人の目が点になった。
◆
「し、正気ですの? タツキさん……」
「うん。正気も正気、本気も本気だよ」
信じられない、というように尋ねるアルミラに、胸を張って答える。
「無茶ですわ。死んじゃいますわ!」
「無茶でもやる。死んでも食べる。都も守れて一石二鳥でいいじゃない」
正直、怖さはある。
私の鈍りきった感覚も、あの生物が危険だと、脅威だと知らせている。
だけど、あの、至福の体験の記憶がある。あの甘美にして芳醇な水竜の肉を、もう一度食べられるなら、危険なんて問題じゃない。
ついでに都を守れれば万々歳だ。
数日とはいえ過ごした町が壊れるのを無視はできないし、知り合いが死ぬのはヤだし。
「……なら」
私の言葉に、アルミラは、ふっと表情を緩める。
「――タツキさん。見届けさせていただきますわ。たぶんそれが、わたくしの義務ですから」
腹を決めた、いい笑顔だった。
私とアルミラ。
二人を交互に見て……魔女オールオールは深いため息をついた。
「ああ……野良神様よ、アルミラに困ったことがあったら、一度だけ力になる。それが魔法を教える報酬だったね」
「ああ、覚えてるよ」
「頼んだ。この子の命だけは守っておくれ――ああ、多少痛い目見せていいからね。自業自得さ」
「わかった。まかせといて」
私がうなずくと、銀髪幼女もうなずいて……おもむろに呪文を唱えだす。
「野良神様よ、抵抗しないでおくれよ……」
直後、強い力が、私とアルミラの体を覆うのを感じた。
「風の加護だよ。強い守りになるし、念じれば空だって飛べる……さあ、行ってきな。あたしはここで高みの見物としゃれこませてもらうよ」
屋根の上に座り込んで、幼女は言った。
魔力の使いすぎでへたばってるのに、それを悟らせまいと強がってるようにしか見えない。
――アルミラを守るのに全魔力使ったな、このツンデレさんめ。
思ったけど、口に出すような無粋なまねはしない。
「タツキさん、服を――私が寝床にしていた、あの白い衣を頂戴したいのですが、よろしいですこと?」
アルミラが言う。
私はアルミラの手を、胸もとのネックレスに触れさせてやる。
現れた純白の衣――古代のギリシャやローマを思わせるそれを、アルミラは静かに纏っていく。思えばこれは、巫女衣装なんだろう。
「お待たせいたしました……そして、これを」
服といっしょに取りだしてたんだろう。
アルミラが私に向けて捧げたのは、ドラゴンの刃。守護神竜と戦うための、武器。
「ありがとう」
受け取って、私は服の下、貫頭衣の腰紐に挟む。
服だと切れちゃいそうだし。
「さあ、どこまでもおつき合いいたしますわ。タツキさん」
「うん。行こうか、アルミラ」
うなずき合って、風の加護を借りる。
念じると、体が、またたく間に空中に踊り上がった。
◆
風の加護を借りて、空中を滑るように行く。
もうもうと立ち込める砂煙は、しだいに収まってきて、教会のあった地に、水竜のシルエットを映している。
水が、神殿から吹き出し、水の都を彩るクリークを呑みこんで海に流れていく。
「――タツキさん、告白いたしますわ」
肩を並べて飛びながら、アルミラは語る。自分の素性を。
「わたくしは、かつて神竜の巫女でした。水の都の由緒ある家に生まれ、そのために育てられ、10の年に巫女になりました」
純粋培養の巫女、と言うべきだろうか。
そのイメージは、アルミラにぴったりだと思う。
「――同時に王太子殿下と婚約し、時期が来れば巫女を引退し、結婚する……はずでした。すくなくとも、わたくしはそんな未来を疑っておりませんでした。思えば王太子様と、親しく言葉を交わしたことも、ありませんでしたのに」
だから、罰が下った。
王太子は、あの女と出会ってしまった。
アルミラは、悔むように語る。
あの女。
身分の卑しい町娘。
だけど賢くしたたかで……計算高い。
町娘は、たちまち王太子の心を奪ってしまった。
幼いころより神殿で学び、竜に仕えることしかしてこなかったアルミラにとって、娘の所業は魔術としか思えなかった。
最初は、婚約者として忠告した。
つぎに、脅した。嫌がらせも飽きるほどやった。
それでも聞かないので、魔女オールオールの忠告も聞かず、金を払って呪いをかけてもらい、さらには人を雇って暗殺騒ぎを起こした。
エスカレートする暴力は、娘への、恐怖の裏返しだった。
だけど、最後には、数々の証拠を掴まれて、ついにアルミラは破滅した。
たちまち巫女の職を解かれ。
獣の姿に堕とされて、アルミラは生贄の祭壇に送られた。
――あの物語は。物語に出て来る悪い巫女は、やっぱりアルミラだったのか。
納得する。
「生贄の祭壇で死ぬはずだったわたくしは、タツキさんに助けられました。そのタツキさんが、かつて巫女としてお仕えしていた神竜様と戦うというのなら。わたくしは、それを最後まで見届けたいのです」
胸に手を重ねて、アルミラは言う。
神竜と、私。たしかに、運命としか思えない縁だ。
巫女と、神竜様。街娘と、悪い巫女。そして野良神と子猫の話は――アルミラの物語は、ここに収束する。
「――じゃあ、行こうか。アルミラ、しっかり見届けてね」
「はいですわ!」
不敵な笑みを浮かべて、濡れた大地に降り立つ。
目の前には、巨大な水竜が鎌首をもたげていた。