3-07
川に潜ったディランはしばらく浮上して来なかった。その間に男の子が力尽きたようについに川から顔を出さなくなる。三人が顔を青くした瞬間、ディランと男の子が同時に川面から浮上した。ディランの腕には、気を失いかけた男の子がしっかりと抱えられている。
息を抜いたのは束の間で、依然として二人は川に流され続けている。何度も岩にぶつかりそうになり、辛うじて避ける。はらはらと見ていると、ディランは川の途中で引っかかり止まっていた流木に、まだ持っていたエフェメラの帽子を引っ掛けた。
流されていた二人が停止する。ディランはこのためにエフェメラの帽子を取ったようだった。ディランは引っ掛けた帽子を握ったまま、もう片方の手で男の子の体を近くの岩に押し上げる。
「良かった……」
エフェメラはほっと息を吐いた。対岸にいる若い男もガルセクも安堵する。
男の子を完全に岩に乗せたところで、今度はディランも岩に這い上がろうとした。しかしディランが岩に手をかけた途端、流れに堪えていた帽子が勢いよく裂けた。あっと思った時にはディランだけが急流に流されていた。エフェメラは悲鳴を上げることすら忘れた。
どんどん流されていくディランは、濁流の中、何かを掴もうと手を動かす。しかし流れが速すぎて流木をつかめなかったり、岩にぶつかりそうになって諦めたりと、なかなか助かるきっかけを掴めない。エフェメラはもうこれしかないと、背中の羽を露わにした。しかし飛び立とうとするとガルセクに両肩をつかまれた。
「こんなところで飛ぶ気ですか!?」
「誰かに見られることを気にしてる場合じゃないわ!」
「岩もあるんですよ! 川が流れる速度で水面を飛んだら、エフェメラさままで怪我をします。いま、ローザとヴィオーラに兵を呼びに行かせてますから」
「でも、このままじゃディランさまが死んじゃう!」
その時、木が裂ける大きな音がした。いつの間にか若い男がディランよりも下流の岸にいて、川岸にあった細い枯れ木を倒そうとしている。
めきめきと大きな音を響かせ折れた木は、川に突き出る岩に橋をかけるように倒れた。対岸までは届かないが、ディランが手を伸ばすには十分な橋だ。流れ着いたディランが木の橋を掴む。どうにか体は停止し、ディランは深く息を吐いた。
それからディランは緩慢な動きで近くの岩によじ登ると、岩と岩を器用に跳躍してエフェメラがいる岸まで戻ってきた。力が抜けたようにどしりと腰を下ろしたディランの元へ、エフェメラは駆け寄った。羽はもう隠してある。
「ディランさま! 大丈夫ですか?」
ディランは頭からつま先までずぶ濡れだ。
「……死ぬかと思った」
「当たり前です! ああ……良かった、本当に……もう無茶をするのはだめです……っ!」
エフェメラは心配や怒りや安堵やらが混ざり合い、涙が溢れてきた。ガルセクも心労で疲れ切った顔をしている。
上流の対岸では若い男が助かった男の子を岩の上から運び出していた。男の子の意識は辛うじてあるようだ。
「ありがとう!」
男の子を背負いながら、男が対岸から叫ぶ。
「どんな礼をしたらいいか……」
「こっちこそ、命拾いしたよ」
ディランが大声で返す。
「その子を早く医者に診せたほうがいい」
男は深く頭を下げた後、急ぎ足で林の中へ消えた。背にいる男の子も、小さく頭を垂れた気がした。
まもなくローザとヴィオーラが数人の兵士を連れて来た。兵士たちはずぶ濡れのディランを見て驚いた。何があったのかと訊く彼らに、ディランは「川に落ちた」とだけ返し馬車へ歩き出す。唖然と訝しむ兵士たちに、エフェメラは子どもを助けたのだと慌てて弁明した。
ディランが馬車の中で着替えている間、エフェメラは外で待っていた。涙は収まったが、今日一日の気力をすべて使い果たした気がする。自分の命を危険にさらしてまで溺れた子どもを助けるなんて、見ているほうは堪ったものではない。
それでもやはり子どもを助けるディランは格好良かった。ディランのことだ、とっさに体が動いたのだろう。エフェメラは改めてディランが大好きだと思った。
ディランへの気持ちを再認識したせいか、なんとなく魔が差したのかもしれない。馬車の中でディランが着替えをしているという事実を妙に意識してしまう。ディランの裸を想像し、エフェメラは頬を朱に染めた。運良く、ローザとヴィオーラはガルセクのところへ馬を見に行っていた。周りには誰もいない。エフェメラは馬車に寄り、そっと窓を覗いた。窓幕の隙間からディランが見えた。
ディランは上半身の服を脱いでいた。普段は服で隠されている腕や肩、腹などが見える。剣を扱っているせいか細身でも筋肉はあり、エフェメラは心臓を逸らせながら見入った。ディランの身長は平均的で、筋骨隆々の男らしさとも程遠いが、それでもやはり男の人なのだと強く感じる。
そして体を見ていて気がついた。背中に傷跡があった。肩や腕にもあり、細かなものも数えれば結構な数がある。剣の傷のようだ。エフェメラは急に、先程のディランの言葉がずしりと重く感じられた。
『剣は苦手だ。――できれば、持ち歩きたくない』
これほど多くの怪我をすれば、剣を好きでいられるはずもない。それでもディランが剣を振るうのは、悪いことをした貴族を陰で取り締まるためだ。王子として、国の平穏を守るために。
しかしふと、エフェメラは何かがおかしいと思った。違和感がある。
ディランの仕事は陰で貴族を取り締まることで、その仕事を完遂するために、きっと厳しい剣の鍛練の末強くなったのだろう。だがそれは、体に傷跡が残るほど強くならなければ出来ない仕事なのだろうか。たくさんの怪我を負わなければならないほど、危険な仕事なのだろうか。
そしてもしそれほど危険なのだとしたら、どうして大国の王子であるディランがしなければならないのだろう。
『サンドル王家と古い約束をしていたんだ。約束の内容は、百年に一度、集落の血が入った子どもをサンドル王家の三番目の王子として迎える、というもの』
引っかかる。何か、大きな勘違いをしているのではないか。頭のてっぺんから冷や水をかぶせられたような心地がする。だが欠片がぴたりと合わなくて、明確な答えが出ない。
はっきりと感じたことは、本当はディランのことを何もわかっていないのではないかということだった。何かとても大切で大きなことを、エフェメラは理解できていない。
「エフェメラさま。何してるんですか?」
エフェメラは飛び上がった。悲鳴を上げなかったのは奇跡に近い。
すぐそばにローザとヴィオーラが立っていた。ローザはにやけ顔を、ヴィオーラは呆れ顔をしている。
「エフェメラさま。いくら結婚なさっているとはいえ、のぞき見はいかがなものかと思いますわ」
「ち、違うのよ、ヴィオーラ。違わないけど、違うのよっ」
エフェメラは羞恥で真っ赤になった。そうこうしているうちにディランが馬車の扉を開ける。待たせたことを詫びられながら、エフェメラは小さな声で応じることしかできないでいた。