3-06
馬車が関所に到着した。国境線上に作られた石の砦は左右に広がり、先が見えないほどにどこまでも長く続いている。目の前の大きな門は開かれていた。ついに、ウィンダル公国へ入るのだ。
関所を通り過ぎるとがらりと世界が変わった気がした。三角屋根の家屋が消え、石を四角く切り取って並べたような、飾り気のない石造家屋が続く。
人々の髪色も、明るい色より暗いものの割合が高くなった。服装も見慣れたものでなくなる。男性は丈が膝まである半袖を着ていて、下衣も涼しさを考えてかゆったりと余裕を持った造りだ。女性のスカートは広がりがないもので、だが足首を隠すほどに長い。また、女性でも男性の下衣を穿いている人がいた。
一貫して言えるのは、国の気候のせいか風習のせいか、サンドリーム王国の服装よりも生地が薄く、造りも砕けているということだ。町を通り過ぎる間中、エフェメラは目を丸くして異国の光景に見入った。
関所町を越えると草原へ出た。自然の景色はあまり変わらないが、道端に白い水仙の花を見つけエフェメラは驚いた。通常は冬にしか咲かない花だが、耳にしていた通りウィンダル公国では本当に夏でも咲いていた。
太陽が昼の位置にきた頃、馬車がゆっくりと停止した。馬を休ませる時間だ。
「少し外へ出ないか? いいものが見えるかもしれない」
ディランが本を閉じて言う。エフェメラは迷いなく頷いた。
陽射し避けの帽子をかぶり、ディランの手を借りながら馬車を降りる。ローザとヴィオーラも一緒だ。
「いいもの、とはなんですか?」
エフェメラが訊くと、ディランは「すぐにわかるよ」とだけ答えた。ディランは隊列から離れる前に、兵士に混じるガルセクに声をかけた。
「ガルセク。ちょっといいか」
馬に水を飲ませていたガルセクが近づいて来る。
「どちらかへ行かれるのですか?」
「すぐそこの丘の上まで。護衛を頼んでもいいか?」
「それは、構いませんが……」
自分は必要だろうかと、ガルセクの顔が言っていた。迷った視線はディランの腰へ向かう。ディランは帯剣していなかった。結婚式や夜会の時もそうだったが、礼装時は帯剣しないのが基本のようだ。
「第三王子は剣が苦手だからな。護衛は優秀な騎士に頼まないと」
「ご謙遜を」
「嘘は言ってないよ。得手不得手って意味じゃなく、好き嫌いって意味では、本当に剣は苦手だ。――できれば、持ち歩きたくない」
草原を上るディランを追いながら、エフェメラは意外に思った。ディランは剣が得意だから、剣が好きなのだとばかり思っていた。
馬車が進む街道の片側は、草花が揺れる小高い丘になっていた。丘の脇には川が流れ、さらに奥には小さな林が続く。昨晩大雨が降った影響か、川の水は濁り、流れも速い。普段は泳ぐと気持ち良さそうな川だが、今日は手を入れるのも危なそうだ。
川とは対照的に、風のない林は穏やかで、木の葉が陽の光をきらきらと反射させていた。空も抜けるような青色一色に晴れ渡っている。丘の上からは街道の先が見通せた。道の先に一つ森があり、その奥には街が、そしてさらに街の先には、地平線沿いに広がる紺青があった。
空よりも深い青色が、途切れることなく左右につながっている。エフェメラは大きく息を吸い込んでから、どうにか声を絞り出した。
「ディランさま……もしかして、あれ……」
「うん。まだ距離はあるけど、この丘からは、海が見えるんだ」
言葉は知っていた。絵でも見たことがある。だが実物を見るのは初めてだった。
「あれが、海……すごいです。なんて大きい……」
海はどこまでも広がっていた。雄大という言葉がこれ以上にふさわしいものが、はたしてこの世にあるのか。広く大きな海を見ているだけで心が澄んでいく気がした。小さな自分の些細な悩みなど、どうでもいいものだと思えてくる。
「ガルセクは、海を見たことがあるのか?」
ディランが訊いた。エフェメラやローザ、ヴィオーラと違い、ガルセクはあまり大きな反応を見せていない。
「はい。一度だけですが」
「もしかして、ジェンニバラドの南側から見たのか?」
果ての大森林は大陸南東の沿岸部も含んでいる。そのため森を南へ抜けると地理上では海へ出るはずだ。
「まさか。ジェンニバラドの南端なんて、命がいくつあっても行けませんから」
スプリア王国は果ての大森林の中にあるが、道が通っているのはサンドリーム王国側の森だけだ。その道ですら、スプリア王国建国当時からのものだという。
他の方角の森は、地面に大きな窪みがあったり空が見えないほど木が生い茂っている場所が多かったりと、踏み入っても行方不明者が続出する。空から森の南側へ行こうとしても同じで、途中で天候が変化し太陽の位置がわからなくなり、森を越える前に必ず迷ってしまう。
このような過酷な自然環境のため、果ての大森林の調査は何百年と進んでいない。だがおかげで西のウィンダル公国及び東のオウタット帝国への自然の国防となっているとも言えた。
「――不思議だな。てっきり、スプリア王国で何か隠したいことがあるから、未開拓で報告してるんだと」
「サンドリーム王国に嘘の報告なんてできませんよ。……羽のことは、隠していますが」
「ならガルセクは、ウィンダルに来たことがあるのか?」
「はい。海を初めて見たのは、三年ほど前でしょうか」
「ガルセクは、ラッシュお兄さまと一緒に、たまに国外へ行っていたものね」
エフェメラは口を挟んだ。
「ラッシュって、第五王子のラッシュ王子のこと?」
「そうです。ディランさまは、ラッシュお兄さまをご存じなのですか?」
「名前だけは」
「ガルセクは、ラッシュお兄さまとお友達なんです。ラッシュお兄さまの偉そうな性格に、いつも付き合ってあげてて」
ガルセクが苦笑した。
「ラッシュは素直になれない性格なんですよ。悪いやつじゃありません」
「性格は悪いわ。いつもわたしをからかったり意地悪をしたりするもの」
「……へえ」
「そう言わないでやってください。エフェメラさまのドレスを作っているのは、すべてラッシュなんですから」
「ドレスを? それはすごいな」
「そうだけど……でも、嫌がらせとしか思えないドレスも作るんですよ。一旦紐を締めると脱げなくなるドレスを作ったり、歩くたびにリボンが落ちるドレスを作ったり」
「……」
「ほかにもいっぱい、怒らせるようなことばかりするんですから。それでわたしが怒っても、いつも謝りもせず笑うばかりで」
エフェメラは唇を尖らせる。だがディランは考えるように宙を見やった。
「なんとなく、どんな人かわかったよ」
「はい。本当に意地悪で、上から目線で、性格が悪いんです」
「いや。性格が悪いわけではないんじゃないか?」
「ええっ?」
「ただまあ……俺には、優しくしてくれなさそうだけど」
理由を聞こうとした時だった。川の方角から若い男の大声が聞こえた。紫色の髪の長身の男が、何やらひどく焦った様子で向こう岸を走っていた。服装から見てウィンダル人だ。
男の視線の先を見て、エフェメラたちもすぐに状況を把握した。男の子が川で溺れていた。両手を動かしもがく男の子は、濁流の中で浮き沈みしながらどんどん下流へ流されていく。
川の途中には、鋭い流木があったり岩が突き出ていたりと、ぶつかるとただでは済まなそうだ。運良くいまのところは避けられているが、いつ致命傷を負ってもおかしくない状況だ。
大人でさえ自力で助かるのは無理な激流である。だからこそ地面を走り追う若い男も迂闊に川へ飛び込めないでいた。男の子を無事に助けるには、複数名の大人のほかに縄などの道具が必要だ。
「大変だわ!」
エフェメラは馬車に戻りサンドリーム王国の兵士を呼んで来ようとした。間に合うかはわからないが、とにかく急がなければならない。
だがエフェメラが動く前にディランが動いた。ディランは馬車へ向かって走りはしなかった。何故かエフェメラがかぶっていた帽子を掴むと、帽子を持ち流れ渦巻く川に飛び込んだ。
「ディランさま!?」
エフェメラは今度は違う意味で目を剥いた。ディランまで命に関わるかもしれないというのに、どうして川に飛び込んだのか。エフェメラは気を動転させ、若い男と同じように川岸を走り出した。ガルセクはローザとヴィオーラに兵を呼びに行かせ、自身はエフェメラの後を追う。