3-52
「ごめんごめん。ちょーっと朝ご飯食べ過ぎちゃって、見送りに遅れちゃったよー――……っと」
腹を揺らしながらやってきたシュトホルムは、ディランとアラベリーゼの様子に目を瞬かせる。シュトホルムも火事の件を知っていたらしく、すぐに状況を察した顔をする。
「うーん……朝ご飯のことなんて、言ってる場合じゃなさそうだねぇ。……こちらへおいで、アラベリーゼ」
シュトホルムはアラベリーゼを抱きしめた。肩を震わせるアラベリーゼの頭を撫でながら、ディランに向けて柔らかに言う。
「いい子だろう? アラべリーゼは、いろいろと考えてくれてるんだ。だめだめな僕と違ってね」
シュトホルムは微笑のまま続ける。
「君も僕も、そしてきっとアイヴァンも、必死なんだだろうね。必死に走って、国という大きな歯車を動かしてる。――僕たち上に立つ人間はさ、正しいとか正しくないとか、もっとこうすればいいとかすべきじゃなかったとか、そういうのを考えるよりもまず先に、歯車が止まらないことを考えないといけないんだよね」
陽の射さない玄関広間はひんやりとして静かだった。ゆったりと話すシュトホルムの声がすうっと心に入り込む。
「歯車が止まらないことが第一。もし基盤である歯車の軸を変えようとするなら、一度歯車を止めないといけない。けれど歯車はとても複雑で、止めると落ちてしまう部品がたくさんある。だからそんな選択は簡単にはできない。それこそ、戦争のような大きな改革でも起こらない限り。――だから僕たちは歯車を止めない。軸はそのままに、修理をしながら回し続ける道を選ぶ。だんだんぶっ格好な歯車になっていくけど、それでも歯車は止められない。また修理して誤魔化して、無理やり回す。そんなことをずっと繰り返す」
シュトホルムは困ったような笑みを浮かべ、ディランを見た。
「国の君主なんてさ、なるものじゃないよね。どう選択しても、きっと誰かに恨まれる。ほんと、頭が痛くなっちゃうよ」
「……」
「良かったら、また遊びにおいで。君、あんまり遊んでなかったでしょう。これでもさ、結構悪くない国だと、僕は思ってるんだ」
シュトホルムの笑顔に他意はないように見えた。不覚にも、ディランは泣きそうになった。いっそ責めてくれたら、恨んでくれたら、どれだけ気が楽だろう。
「……ええ。機会がありましたら、ぜひ」
固く一礼して、ディランは階段を下りた。階下で戸惑っているエフェメラに声をかける。
「行こう」
「ディランさま、あの……、えっと……」
「フィー」
「は、はいっ」
「ニックは、来ない」
「……え?」
「実は俺、昨夜、ニックとハロルドさんに会ったんだ」
エフェメラが疑問を口にする前に言い足す。
「二人は一緒だった。夜中のことだったから、たぶんニックは夜眠るのが遅くて、今日は早く起きられなかったんだろう。――また、会いに来ればいいよ。さあ。もう出発しないと」
ディランは馬車へ向かった。エフェメラはシュトホルムとアラベリーゼに慌ててお辞儀をすると、まだニックの姿を探しながらもディランの後をついてきた。
馬車が走り出してから、ディランはずっと窓の外を見ていた。同乗しているローザやヴィオーラに話しかけられると反応は返すが、それも最低限にとどめる。
エフェメラは対面の席に座っていた。出発前のディランとアラベリーゼとのやりとりが気になるようで、エフェメラはずっとディランを窺うようにしていたが、ディランからは声をかけなかった。
公都ウィーダを出て平原の道に入った頃、ローザとヴィオーラがお喋りに疲れて眠り始めた。仮眠できるよう馬車の奥に作られた空間で、二人仲良く寄り添い眠る。
窓から見える空は青く、平原に広がる草花を夏の風が揺らしていた。速度を抑えて進む馬車の中は静かだ。話す者がいなくなり、座席に座る互いの存在が嫌でも意識される。二人が眠る時を見計らっていたらしいエフェメラが、ようやくといった様子でディランに声をかけた。
「ディランさま、あ、あの。先ほどの、アラベリーゼさんとのことなのですが……いったい、何のお話をされていたのですか?」
「たいしたことじゃないよ」
拒絶も含めて冷めた声で返した。予想通り、エフェメラは落ち込んだ顔をした。横目でそれに気づきながら、自分は何度彼女にこんな顔をさせるのだろうと、ディランは思った。
何度、嘘を重ねるのだろう。エフェメラにすべてを明かすともう決めているのだ。これ以上一緒に時を過ごしても、エフェメラのためにはならないと、十分わかっているのに。
「君に、話があるって言っただろ?」
ディランは意を決して切り出した。
「そのことについて、いま話してもいいか?」
話題を振られて嬉しかったのか、エフェメラは明るい顔で頷いた。
ディランはローザとヴィオーラに起きる気配がないことと、それから窓から外の兵士たちに会話が聞こえないことを確認した。
案外、二人でゆっくり話すには、馬車の中が丁度良かったかもしれない。
「ずっと、俺の仕事の話を君にしなければならないと思ってた。本当なら結婚した時に――いや、もっとずっと前にしなければならなかった話だったと思う。君は俺の仕事を、悪い貴族を取り締まる偉い仕事だと考えていると思うけど、実は、そうじゃないんだ」
言いたいことを正確に伝えることはいつだって難しい。わかってもらうにはどう話せばいいだろう。
「アプリ―リスに、俺がヴァーリ侯爵を捕らえた時のことを覚えてる? 彼がスプリア人の少女を売買しようとした時のことを」
「はい、覚えています」
「あの時俺は、密かにヴァーリ侯爵を捕らえた。だが本当なら人が罪を犯した場合、騎士団や兵を派遣し、正面からその人を捕らえるべきだろう。それでも俺はそうしなかった。――これは、王国のための行動だった。貴族が奴隷以外の人間を売買したという事実を隠す必要があったんだ。国民が貴族に不信感を抱かないよう、また、貴族が高潔な存在である印象を保つために。だから彼が事故死をしたという嘘の情報まで流し、事実を隠した。……ここまでは、理解できる?」
「はい、なんとなくは。サンドリームほど大きな国ともなれば、時には嘘をつき問題を隠すことが、結果としていいことになる、ということですよね? 事実ばかりを公にしていては、政治は成り立たないと言いますか……」
エフェメラは自信満々に続けた。
「本当のことを言わないほうがいい時は、普段でもありますもんね。わたしも、夜会などでご令嬢の方があまりに多く髪飾りを盛り過ぎている時、おかしいなと思っても、事実を隠し、『お似合いですね』と褒めて平和にやり過ごす時があるので!」
「……ああ、……うん」
例えの規模が小さいなと思いながら、ディランは話に戻った。
「つまり何が言いたいかっていうと、俺は仕事で、道徳的に正しいことをしているわけじゃなくて、王国にとって正しいことをしているということなんだ。厳密に言えば、陛下が正しいと思うことをしている。例えそれが、道徳や法律から外れる選択だったとしても。――堂々と正しいと言える仕事じゃない。だから君は、俺の仕事について、勘違いをしていると思う」
「そんなことは! 確かに、ディランさまのやり方は、普通とは少し違うかもしれません。でも、ディランさまのおかげで、ヴァーリ侯爵は負うべき罪を負いました。十分に誇れる仕事だと、わたしは――」
「違うんだ、本当に」
ディランは強めに否定した。
「あの夜、本当は俺は、ヴァーリ侯爵を捕らえてなどいないんだ」
「……え?」
エフェメラが意味を呑み込めなかった顔をする。
明かせばもう戻れない。それでも言わなければならない。
「フィー。俺はあの夜、本当は――ヴァーリ侯爵を、殺したんだ」
エフェメラの目を見て言うことはできなかった。視線を自分の膝へ向けたまま、エフェメラが息を呑む気配だけを身体で感じた。
「彼は、殺さなければならなかった。初めからその予定だった。もし彼を見逃せば、ほかの貴族もスプリア人に手を出す可能性があるからだ。貴族たちに圧力をかけるためには殺すのが最適だと、陛下が判断していた。無駄な波風が立たないよう、国民へは事故死と発表した。君にも嘘をついた。みんな、この事実を知らない。人身売買に関わっていた一部の貴族が察した程度だ。――こんな風に、俺は簡単に嘘をつく。人を殺す。誰が相手でも関係ない。目的に必要だと思ったら、呼吸をするみたいに簡単にするんだ。立場を偽り、要人に近づき、必要だと判断したら手を下す。何年も、そうしてきた。俺が直に手を出さなくとも、誰かに間違った情報を流して争いを誘発したことだってある。そのたびに誰かが傷つき、命を落とす。……フィー、俺は、最低な人殺しなんだ。君が、わざわざ慕うような人間じゃないんだよ」
言い切った。ずっと言えなかったことをついに言った。
手の平に汗がにじむ。膝の上の拳を見つめ、返される言葉を待つ。これで自分がどういう人間か伝わったはずだ。