3-50 誰がための選択
小さな頭が転がり、胴体が軽い音を立てて石の床に倒れた。真っ赤な血が、ニックの亡骸を包むように広がっていく。落ちた薄緑色の帽子が赤黒く染まるのを見て、ディランは力なく後ろへ下がった。瞳が揺れる。結局、ニックの頭に帽子は大きなままだった。
本当は、ニックをどうするかなどすぐに答えが出ていた。この場とディランの姿を見られた時点で、生きたままにはしておけなかった。この出来事を周りに吹聴する可能性がある人間を見逃し、余計な危険を増やすわけにはいかない。
選択に間違いはない。どう考えてもニックは、殺すべきだった。理屈は通っているはずだ。だが、ディランの頭には疑問が浮かんだ。
(これは、正しいことなのか?)
どんなに壮大な理由があっても、罪のない幼い子どもを殺すことが正しい行いであるはずがない。ずっと、大義のためにと信じやってきた。だがこれではもう、自分が信じてきたものが間違っているとしか思えない。
ディランが呆然としていると、襟元を強く掴み上げられた。驚く瞳にブラウの厳しい顔が映る。
「いいか、ディラン。俺たちは、何一つ間違ったことはしていない」
身長差でディランの踵は浮いていた。シーニーが「ブラウ!?」と声を上げる。ブラウはそれを気にせずディランを見下ろす。
「俺たちがこんなことをしてるのは、渓谷のみんなの暮らしを守らなきゃならねえからだ。自分たちが普通に暮らす場所を確保しなくちゃならねえからだ。それを唯一保証してくれるのが、サンドリームって王国だ。こんなまともじゃねえことばかり指図してくるいかれた国だ。――そりゃあ俺だって、反吐が出るさ。言われるがまま、いままで何人殺してきたかわからねえ。口封じのためだけに、ただ平和に暮らしてた夫婦を殺したことだってあったさ」
ブラウの眉間のしわはいつもと変わらない。だが、ブラウは真剣に怒っていた。
「それでも俺たちは、自分たちが生きてくためにサンドリームの命令に従わなくちゃならない。ほかに、渓谷のみんなが生きていく道はない。あの不便な雪山の奥でさえ、失くしてしまえば俺たちが全員で安全に暮らせる場所はほかにない。――みんなで作った、大切な故郷なんだ。何をしたって壊すわけにはいかない。これのどこが間違ってる? ディラン」
「……ブラウ」
「もし間違ってるとするなら、自分の国の平和のためならなんだってする、あの国王のほうだ。……渓谷のみんなは――爺さんたちや婆さんたちや、ガキらも俺らの家族も友人はみんな――生きるために間違ったことなんて、何一つしちゃいない。それなのにお前がんな顔してると、まるで俺たちが悪いみてえだろうが」
ブラウの声は苦しそうだった。
正しいとする場所を間違ってしまえば、きっともう、ブラウはまともな精神では剣を握れないのだろう。シーニーだってそうだ。ディランだって、渓谷の立場のみに寄れたらどれだけ楽だろうと思う。
「おい! 何してんだよ!」
アーテルの声がした。遅かったので様子を見に来たらしい。アルブスと部屋の入り口に立っていた。アーテルはブラウがディランを掴み上げているのを見ると、仰天して駆け寄ってきた。
「喧嘩か!? とりあえず、暴力はやめとこうぜ、な?」
アーテルがブラウの腕に手をかけようとすると、ブラウは舌打ちとともに乱暴にディランを突き放す。ディランは腰から床へ落ちた。シーニーがまた抗議の声を上げる。
「ちょっと、ブラウ!」
「ふんっ。……俺は、外を見回ってくる。――ディラン。渓谷のみんなの前で少しでもんな顔してみろ。絶対に許さねえからな」
ブラウが部屋を出ていく。シーニーはブラウを追いかけようとした。
「そんな責めるような言い方しなくてもいいでしょう、ブラウ!」
ディランはシーニーを呼び止めた。
「シーニー、……いいんだ。……ブラウは、悪くない」
ディランは座り込んだまま続けた。
「同じようなこと、何度もブラウに言われてるんだ。俺がずっと……何度繰り返しても、人を殺すことを割り切れないから。……ブラウは、俺のために言ってるんだ」
ディランは足に力を入れ立ち上がると、三人に向けて言った。
「ここを焼き払う。なるべく痕跡がわからないよう、すべての死体に油をかけてから燃やしてくれ。……俺も、外を見てくる」
倉庫の外に人の気配はなかった。いまは使われていない古い倉庫街だ。きっと昼間でさえ、人がほとんど近づかないのだろう。
波の音だけが聞こえる道を一人歩く。住宅区と接する倉庫街の終わりまで来ると、どこかから歌声が聞こえてきた。若い女性の歌声だ。首を巡らせると、そばの人家の窓辺で歌う娘を見つけた。ディランに気づく様子はない。伴奏もなく、真夜中の静寂にそって静かに歌っている。
その歌は、公妃アラべリーゼが宴の席で披露したものと同じ歌だった。公都ウィーダで有名な観劇で使われているものだ。
ディランは歌を聞きながら、道の隅にあった古びた噴水で手を洗った。手についた血を落としたかった。ついでに剣についた血も洗い流す。歌を聞いたまま血が水に溶ける様子を眺めていると、宮殿へ着いた初日の夜にエフェメラにされた質問を思い出した。
『ディランさまは、歌を聞いた時に何が見えましたか?』
アラべリーゼの歌を聞いた時にされた質問だ。この時ディランは、エフェメラに嘘を返した。本当は、ディランは歌を聞いても何も見えなかった。自分が一番驚いた。楽しい思い出がないはずはないのだ。
だが、同時に腑に落ちた気もした。楽しい思い出は、時とともに姿を変える。思い出は重石になり、逃げることのできない鎖となる。楽しい思い出があるからこそ、その人たちを守りたいと願ってしまう。その願いが人の命を奪うことに繋がり、ニックやハロルドの未来をも奪った。
(俺はもう、自分が正しいことをしているとは思えないんだ)
ディランは十年前、サンドリーム王国の王子になることを自分で決めた。結果、渓谷の平和は守られたが、それゆえに人殺しに巻き込んでいる仲間も多くいる。だがサンドリーム王国だけを責めて自分を正当化することもできない。そのためにはディランの心は、王国側に寄り過ぎていた。
正しい道がわからない。だが立ち止まることはできない。重ねた罪は消えない。だから正しい道を見つけるまで、いまの道をまた進み続けるしかない。
噴水の水面に映った星の輝きにつられて、空を見上げる。ディランの心境などお構いなしに、星はあまりに美しい。その星空を隠すように、倉庫から煙が上がった。
×××
「ニック……?」
朝になり目を覚ましたエフェメラは、寝台にニックの姿がないことに気づいた。部屋を見渡すが、どこにもニックの姿はない。まだ眠るローザとヴィオーラに訊こうか迷っていると、枕元に文字が書かれた紙が置いてあることに気がついた。
「……もう、ニックったら。夜のうちに家に戻ったのね。だめだと言ったのに」
エフェメラは文字を読みながらほほえんだ。紙はニックの置き手紙だった。子どもらしい拙さで、だが丁寧に文字が記されていた。
〈ごめん。あさ、またくるね。 にっく〉
それでもニックが来たら、夜中に出歩いたことについてちゃんとお説教しなくてはならない。
エフェメラはローザとヴィオーラが起きた後、帰り支度を始めた。部屋の荷物はすでにまとめてあるため、主な準備は身支度だけだ。準備を終えた頃、部屋の扉が軽く叩かれた。返事をするとディランが入ってきた。ディランの支度は済んでいて、襟のある紺色の服を着ていた。
「おはよう。そろそろ行く時間だけど、平気?」
「おはようございます、ディランさま。ちょうどいま準備が終わったところです」
ローザとヴィオーラ、それから宮殿の女官たちが荷物を部屋から運び出していく。扉を出る前に、エフェメラは誰もいなくなった部屋を見渡した。
「結局、この部屋でディランさまと一緒に過ごせたのは、少しの間だけでしたね」
ひと月も寝泊まりした部屋だ。自分の部屋のように居心地が良くなっていた。
「熱を出して部屋が別になって、実は、安心してますか?」
ディランはエフェメラから目を逸らしつつ、「あー……、うん、まあ……」と気まずげに返す。エフェメラは頬を膨らませた。しかしすぐに気を取り直すことにした。
正直な答えならば仕方がない。仲良し夫婦への道は、未だ半ばということだ。
「そういえば、昨夜は何のご用事だったのですか?」
玄関広間へ向かいながら、隣を行くディランに尋ねた。