3-04
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青い空に太陽がぎらぎらと輝いていた。金色の光はサンドリーム城南棟の庭園に降りそそぎ、夏の花たちは元気に花びらを広げている。
城内もすっかり夏の暑さに支配されていた。使用人や警護の騎士たちの制服は夏仕様に変わり、廊下や部屋の窓は少しでも風をとり入れようと開放されている。
南棟二階の、第三王子妃に用意された広い衣裳室の窓も、いまは大きく開け放たれていた。窓からはそよそよと風が吹き込み、白い紗の窓幕が影を動かしながら涼やかになびいている。
その衣装室の扉を黒髪の青年が怒った様子で開けた。
「おい! いつまで支度に時間かかってんだよ!」
現れたのはアーテルだ。アーテルの言葉は鏡の前に座る桃花色の髪の少女――エフェメラに向けられたものだ。エフェメラは侍女のローザとヴィオーラに手伝ってもらいながら、美しく波打つ長い髪を結っていた。
「ごめんなさい。あと、髪飾りをつけるだけなの」
エフェメラは鏡を見たまま返事をする。時間をかけて編み込んだ横髪は、丁寧に櫛で梳いたおかげかまったくほつれがない。あとは髪飾りをつけ、最終確認をすれば完璧だ。
「髪なんてもうどうでもいいだろ! 出発時間とっくに過ぎてるぞ!」
「うう、ごめんなさい。でも、どうでもよくはないのよ」
今日は朝からずっと忙しかった。体を清め、髪や体に香り付けをし、荷物の最終確認や着替えなど、とにかく慌ただしく動いていた。
『旅行に行かないか。海が見えるところへ』
数日前、ディランが急に言ってきた。ローザとヴィオーラと一緒に自室で刺繍をしていた午後だった。
聞いた時、エフェメラは夢ではないかと思わず自分の頬をつねってしまった。信じられないことだが、これはつまり、ディランが新婚旅行をしないかと誘ってきたということだ。
新婚旅行とは、夫婦の仲が深まらないわけがない素晴らしい行事だとエフェメラは認識している。そのためすっかり浮かれ、今日という日が楽しみで仕方がなかった。いまや気分は最高潮に高まっている。クイーンティーリスは子どもの頃から一番好きな月だが、もっと好きになりそうだ。
急ぎ昨日までに準備したふた月分の荷物は、すでに馬車に積んである。ローザとヴィオーラの旅支度も終え、ガルセクは同行する兵士たちとともに外にいて、もう警護の配置についている。
あとはエフェメラの身支度が終わるのを待つばかりだ。しかし待ち始めてからだいぶ時間が経っていた。
「旅行予定の日数分、ドレスと髪形を考えているの。二ヶ月間、毎日違うのよ。今日はその始まりだから、どうしてもちゃんとしたいの」
エフェメラは切実に返しながらもしかし、「もう少し右がいい気がするわ」と傍目には見分けがつかない部分で髪飾りの位置に悩んでいる。その真剣な顔に、アーテルは怒るよりも呆れる気持ちが大きくなった。
「……最初の半月はずっと移動なんだろ? そんなにおしゃれしてどうすんだよ」
「だって、ディランさまと一緒に移動するんだもの。とっても重要でしょう?」
エフェメラが初めてアーテルを見た。その心底嬉しそうな笑顔に何も返せなくなる。結局アーテルは、また鏡を見始めたエフェメラを残し、のこのことディランの部屋へ戻った。
「女の準備ってのはなげーもんだけど、あいつは筋金入りだな」
ディランの部屋の長椅子にどかりと背を預けながら、アーテルは天井を仰いだ。部屋にはナイフを磨いているアルブスと、花の鉢植えに水をあげているディランがいる。
ディランの準備は朝には完了していた。珍しく礼装で、いつも適当に放っておいている前髪も、今日はちゃんと梳かし分けてある。普段は庶民の姿で剣を振り回しているくせに、いまはどこからどう見ても気品ある王子にしか見えない。
ディランは待たされていることなど露ほども気にしていない様子でのんびりと鉢植えの花を見ている。その鉢植えは、先月、カルケニッサの町から帰ってきた後にエフェメラから贈られたものだった。鉢にはもらった時のまま白いリボンが巻いてある。
数年そばにいたせいだろうか、表情に出していないながらも、ディランが水やりをうきうきとしているのがわかる。部屋にいる時は律儀に朝昼晩と水をやる行動からもその事実が窺える。
アーテルは全身から力が抜けるのを感じながら、柔らかな長椅子にさらに背を深く沈めた。
「新婚旅行、ねえ……。どうせ、なんも進展しないんだろ、お前らは」
「……」
「だろうね。ディランにその気がないし」
反応を示さないディランに代わり、アルブスが答えた。
「それに本当の目的は、旅行じゃなくて調査なわけだし。――ねえ、ディラン。ずっと思ってたんだけど、それ、絶対水あげ過ぎだよ」
ディランがはっとして動きを止める。花はエフェメラからもらった時よりもしなびていた。花びらも葉も完全に下を向いている。
「枯れそうなのはわかってたけど……水のあげすぎが原因だったのか。盲点だった」
「お前ら見てるとほんとじれったいんだよなー。じれった過ぎて、見てるのがしんどいっつーか」
「土を変えれば治るかな」
「もう根が腐ってるんじゃないの?」
「こう、なんつーの? 気になって落ち着かないっつーか」
「それは、もう無理って言いたいのか」
「うん」
「とっととくっついて幸せになってくれれば、オレの心も晴れると思うわけよ」
「フィーになんて言おう……」
「頼めば治してくれるかも。フィーって、花博士かってくらい詳しいし。どうにもならなかったら落ち込ませるだけだろうけど」
「……おい。オレを無視すんな」
アルブスとディランがほぼ同時にアーテルを見た。二人とも何とも言えない表情をしている。
「な、なんだよ」
「べっつにー。しんどいのはなんでだろうねって思っただけー」
「フィーとのことは、お前には関係ないだろ」
「関係ないって、またそれかよ!」
扉を叩く音がした。エフェメラの準備ができたという知らせだった。アーテルは元気よく椅子から立ち上がり、伸びをした。
「おっしゃ。ついにウィンダルに出発か。ウィーダはいい場所がいっぱいあんだよなー」
上機嫌に部屋を出ようとしたアーテルをディランが呼び止めた。
「お前たちには別の仕事を任せたい。まずはいまからノウェンに向かってくれ」
アーテルと、それからさすがのアルブスも驚いた顔でディランを見た。それを気にせず、ディランは淡々と十個ほどの仕事の説明をしていく。
「――で、最後はセプテンからウィーダに来て欲しい。宮殿で待ってるよ」
アーテルは言葉もなく呆然と聞いていたが、ついに抗議の声を上げた。
「ちょっと待て! なんだよそれ! オレの心は、もうウィーダの海にあるってのに!」
「悪い。誰に任せるか、ずっと迷ってたんだ。でもいま決めた」
「お、お前……」
「急げばひと月で終わるだろ。それからは、観光するなり海に入るなり好きにしていいから」
「ひ――ひと月なんかで、その量が終わるかよ!」
アーテルはさらに文句を重ねた。だがいくら言おうと、ディランは命令を撤回する気はないようだ。アルブスはすでに諦めてディランから路銀をもらっている。
「く……っ」
アーテルは扉に向かって走り出した。そして振り向きざまに叫んだ。
「この冷酷魔! こうなったら意地でもひと月で終わらせてやるからな! 行くぞ、アルブス!」
二人がいなくなった部屋で、ディランは小さく息を吐いた。二人には悪いが、長い二ヶ月になりそうだから、問題なく仕事を終えるための最適な配置にしたかった。
ディランもまもなく部屋を出た。すると廊下にベルテがいた。白髪交じりの髪は、今日も一本の後れ毛もなしに結ってあり、首が隠れる窮屈な使用人服もきっちりと着こなしている。ベルテは城門での見送りにも来てくれるはずだが、言葉を交わせるのはいまが最後になるだろう。
「じゃあ、行ってくるよ。留守は、よろしく」
ベルテは珍しく表情を和らげて、ゆっくりと頭を下げた。