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ニックは持っていたものを「はい」とディランに渡した。食べ物の匂いがした。布をめくると、小麦を使った生地に貝と野菜が巻いてある、手の平ほどの大きさの食べ物があった。
「サダールって言うんだ。おれが大好きな食べもの。おいしいから、ディラン兄ちゃんもこれ食べて、早く元気になってよ」
ニックは照れ臭そうに鼻をこする。ディランは表情を和らげた。
「ありがとう、ニック」
「エフェメラ姉ちゃんもおいしいって言ってたからな。たぶん、ディラン兄ちゃんもおいしいって思うはず」
「聞いたよ。ニックに街を案内してもらって、その時においしいものをおごってもらったって」
「そーだよ! あん時、エフェメラ姉ちゃんの頭の中ってば、硬貨袋のことよりデートのことで――っと、これは秘密だった。ほら、冷める前に早く食べなよ」
シーニーが作ってくれたサンドイッチは結局アーテルとアルブスとエフェメラにほとんど食べられてしまっていたので、ディランはありがたく貝菜巻を頂いた。
「――……あのさ」
ディランが食べている途中、ニックがやや元気を欠いた声で訊いた。
「ディラン兄ちゃんたちって、もうすぐ、サンドリームにかえっちゃうんだよな?」
「うん。今月の半ばには帰るよ」
「……そっか」
「まだ何回も遊べるよ。そうだなぁ。追いかけっこに付き合ってくれるか? 体力を戻さないといけないから」
ニックは頷くが、寂しげなままだ。ディランは貝菜巻を食べ終えると、寝台から下りてニックの頭を軽く撫でた。
「ごちそうさま。だいぶ元気になったよ。何か、お礼をしないとな」
「いーよ、そんなの」
ディランは私物を置いてある棚に向かった。そして引き出しの中から薄緑色の帽子を一つ取り出した。飾りに橙色の糸で縫われた刺繍があしらわれている。
「この帽子、街で買ったんだけど、思ったより小さくて。良かったらもらってくれないか?」
「えっ!」
ニックは控えめに帽子を受け取り、じっと帽子を見つめた。
「……こんな高そーなぼうし、本当にもらっちゃっていいの?」
「もちろん。むしろ使ってもらえると助かるよ。俺は頭が入らないから」
ニックは瞳を輝かせ帽子を見つめた。手で布地の感触を確かめたり、回して何度も全体を見たりする。
「すげえ! なんか、ふつーの帽子とちがう! ふつーより丈夫で、おしゃれだ!」
ニックは帽子をかぶると、格好をつけて構えた。
「どう!?」
「うん。格好いいよ」
しかしニックが一回転したら、帽子は頭からずり落ちた。買う時に、あからさまな子ども用帽子を選ばなかったから、やはりニックにはまだ大きかった。
「やっぱり、少し大きかったな」
「ううん! こんくらいなら、すぐぴったりになるよ。おれ、毎日たくさん食ってるから!」
ニックは帽子のつばを上げながら、歯を見せて笑った。
「ありがとう、ディラン兄ちゃん」
×××
シーニーとの勝負で疲れ果てたエフェメラは、夜、部屋で椅子に背を預け動けなくなっていた。
「で? 今日は何の勝負したんだ?」
部屋にいたアーテルが訊いた。そばにはアルブスもいて、二人で夜食を食べている。
「泳ぎ対決よ。完敗だったわ。……シーニーさん、速かった」
エフェメラは連日に渡りシーニーと勝負をしていた。初日は横笛、次の日は絵画、その次の日はかくれんぼ、さらに次の日は潮干狩りと、勝負の題目はアラべリーゼに決めてもらっていた。しかしエフェメラの全敗だった。初日の横笛が一番いい勝負で、あとは日を追うごとに差が開いていくばかりだった。
「シーニーさんって、いろいろなことができるのね」
「オレにはどっちもあの大公妃に遊ばれてるようにしか見えなかったけど」
「そんなことないわ。アラベリーゼさんが選んだ勝負方法は、どちらにも公平で、さらに怪我をしない、絶妙なものだったと思うわ」
明日は勝負をしない。いい加減仕事に専念するようにと、シーニーがディランに言われたからだ。気づけば公都ウィーダを発つ日は三日後に迫っていた。
「お前さ、何そんなにむきになってんの?」
アーテルが箸を置き、椅子の背に寄りかかる。夜食は米麺に海鮮汁がかかった郷土料理の一つだった。ウィンダル公国では箸と匙の両方を使う。エフェメラは箸を使えないが、アーテルやアルブスの出身地であるオウタット帝国は主に箸を使うため、慣れているらしい。
「お前とディランは、もう結婚してんだから、あの女がつけ入る隙なんてねえだろ。結婚してるやつに横から何しようが想おうが、もうどうにもなんねーんだし」
「……結婚してるとは言っても、ディランさまとわたしの関係は、形だけのものだし……」
「だから、その形がどうやっても崩れることがねーだろ? 結婚してるってだけで、もうあの女は勝てねーってことになるんだって」
ハキーカ教会の規則により、離縁は不貞行為など余程の理由がない限り成立しない。離縁そのものが世間から非難されることと同義になっている。
「……結婚してるかしてないかは、どうでもいいことだわ」
「どうでもいいどころか、それ以上に重要なことなんてねーだろ。結婚してるやつと気持ちが通じたところで、未来があるわけでもない。あの女は、諦めるしかねえんだから」
エフェメラは訝しんだ。アーテルの口調はやけに強い。
「アーテル、なんだか変よ? シーニーさんのことを、そこまで言うなんて」
アーテルは慌てて背もたれから体を浮かせた。
「いや、あの女についてだけ言ってるんじゃなくて……みんなにも、当てはまることっつーか……」
「わたしはただ、ディランさまにとって親しい人に認めてもらいたいだけなの。シーニーさんは、きっとわたしをまだ認めてくれてない。だから、認めてもらえるようがんばりたいの。……外堀が埋まれば、ディランさまとの仲が深まりやすいかもしれないって、アラベリーゼさんも言っていたし」
「本音はそれってわけね」
アルブスが皿を置きながら冷静に口を挟む。エフェメラは「そ、それも少しはあるけど、もちろん、それだけじゃっ」とあわあわと否定した。
アーテルは気が抜けて、もう一度椅子に背を預けた。頬を染めながらアルブスを説得するエフェメラをしばし見やる。それから天井へと視線を移し、誰にも聞こえない声で呟いた。
「やっぱり無理だろ。どう考えても」




