3-02
ディランはベルテから宿題を受け取った。素直に宿題をしようとするディランを見て、ベルテはいつもより少し柔らかな口調で言った。
「教授から、非常に優秀だとうかがっております。いつも試験は満点で、いままでの教え子の中で一番出来が良く、天才だと」
「おおげさだよ」
「ですが、もう初等教育の勉強が終わるようではございませんか」
「うーん……正直、どうすごいのかよくわかんないな。ほかに一緒に勉強してる人もいないから、比べようがないし」
「普通、初等教育は十二歳までかかるのですよ」
「え? そうなの?」
ディランは驚いた。文字の読み書きを母に教えてもらっていたとはいえ、相当な速さで知識を吸収しているようだ。
「じゃあさ、残りの勉強も全部早く覚えたら、その分早く帰れたりする?」
期待を込めて訊いた。だが、ベルテの瞳には憐れみの色が浮かんだ。ディランはすぐさま早口でつけ足した。
「嘘だよ。ちょっと言ってみただけ。だからいまの、王さまには言わないでね」
「……殿下」
「な、なに?」
「王さまではなく、国王陛下とお呼びください」
「……」
ベルテは一貫して厳しかったが、ディランは実は優しいベルテが好きだった。やがて月はクイーンティーリスになり、ディランはスプリア王国という小国の王女と会うようアイヴァンに命じられた。
現れた王女の名は、エフェメラと言った。年齢は三歳だ。幻想的な銀色の瞳を持つ幼い少女は、髪色と同じ桃色のドレスで着飾られ、まるで置き物の人形のように愛らしかった。
しかし、頬を染めながら大人しく座っていそうな見た目とは裏腹に、エフェメラはかなり活動的だった。大きな瞳でじっと見上げてきたと思ったら、「たんぽぽ!」と言いながらディランの髪を引っ張ったり、庭園の花を見ながら歌っていたと思ったら急に木によじ登ろうとしたり、廊下にある絵を見て走り出したと思ったら、すぐに転んで泣いたりと、とにかく目まぐるしく動き回った。
相手をするのはすべてディランだった。使用人たちは何故かディランに相手をさせようとした。そしてディランがエフェメラの面倒を見ていると、ほほえましいといった表情で二人を眺めるのだ。
(冗談じゃない。こんなのに、いったい何の意味があるんだ)
ディランはどっと疲れ、庭園の石階段に座り込んだ。するとエフェメラがとことことディランに近づいてきた。立ち止まり、ディランを観察するようにじっと見つめる姿は、やはり可愛らしい。将来は美人に育つだろうなとディランは思った。
「どうしたの?」
「たんぽぽ!」
「……あのさ、おれの髪がタンポポの花みたいに黄色いのはわかったから、髪を引っ張るの、やめてもらえる?」
エフェメラはわし掴みにしたディランの髪を放す。
「おんぶ」
「え?」
「ねるときは、おんぶしてもらうの」
エフェメラは眠くなったようだった。先ほどまで元気いっぱいだったのに、いまは小さな手で目をこすっている。自由だなあと思いながら、ディランはエフェメラを背負ってあげた。
エフェメラはディランの背ですぐに眠った。だが、ディランには三歳の子どもはまだ重かった。耐え切れず二人で地面に倒れてしまう。それでもエフェメラは、すやすやと、気持ち良さそうに眠っていた。
七日間の滞在を終えエフェメラが帰る時、ディランは解放された気分だった。エフェメラはディランともっと遊びたいようで、別れ際もしばらくの間ぐずっていた。
「でぃらんしゃま、さようなら」
だが最後は、笑顔を見せて帰っていった。ディランはエフェメラが自分の名前を覚えていたことに驚いた。
「――エフェメラ王女殿下との時間は、楽しく過ごせましたか?」
エフェメラが帰った夜、宿題をしている時にベルテが訊いてきた。
「うん」
本当の気持ちだった。エフェメラの世話は大変だったが、元気に笑うエフェメラをもう見れないのは寂しいと感じた。渓谷を離れてから、初めて心が休まった時間だった。
「結婚のお相手なのですから、次回お会いする時も、粗相のないようにしなければなりませんよ」
「…………結婚?」
その後、ディランは同盟について知った。会う前から教えてくれたらいいものを、アイヴァンとベルテはひどいなと思った。
まさか王子になったら結婚相手がついてくるとは思わなかった。まだ物心もついていないだろうに、三歳の時から結婚相手が決まっているエフェメラが哀れだなとも感じた。
ディランは窓の外を見た。夜空では満月が銀色に光っている。開いた窓からは夏虫の歌声が聞こえている。
王子になるのも案外悪くないかもしれないと、ディランは少しだけ思った。